反日デモ問題をきっかけに
日本の東アジア戦略を考える
カプチャン『アメリカ時代の終わり』書評もかねて




アメリカ時代の終わり〈上〉

大義をかかげた外交が弱い日本

 「正論」や「諸君!」でおなじみの保守派・中西輝政が少し前の毎日新聞に日本の常任理事国入り外交の拙劣さを批判し、“日本は大義をかかげた外交がホントにヘタだ”というむねのことを嘆いていた。
 まあ、第二次世界大戦の日本の行動にも話がおよび、“白人帝国主義にたいする解放戦争ってあたりをもっとしっかりと旗印にしつづければ、アジア諸国も総決起して結果もちがったろうに”と悔やむあたりは、右派論客たる中西の面目躍如であるが。

 第二次世界大戦の話はともかくとして、「日本は大義や道理の旗をふった外交がヘタ」という中西の指摘は、しごく納得できる。常任理事国入りにしても“たくさんお金を出しているんだから相応の扱いをしろ”なんて言っている人がいるけど、そういう居酒屋談義みたいな理屈が国際社会で通るかどうかよく考えてみるといい。中西は、現常任理事国の特権を改革することを旗印にして、多数の諸国を味方につけてしまうことのほうがよい、というむねをのべていたが。


 憲法による自主外交をとらずに、安保のもとで対米従属を生きてきた日本政府は、戦後=いわゆる「冷戦」期には世界は「アメリカかソ連か」にわかれていると思っていたから、アメリカに盲目的についていくということは、粗雑だがそのまま戦略となりえた。あとは国内政治とのバランスだけを考えていればよかった。国連の舞台で「アメリカの2票目」と揶揄されるにはそれなりの理由がある。

 石原慎太郎あたりが“国際社会ではきれいごとじゃないんだ”式のことをのべて、力対力、もしくは強硬にたいして強硬をぶつける様は、この「道理や大義に関心がうすい日本外交」と、ちょうどメダルの裏表をなしている(たとえば最近の「文芸春秋」における石原の論文「仮想と虚妄の時代」での北朝鮮にたいする態度をみよ)。
 大義や道理で自身の足場をうちかためることが極度に弱い日本外交は、一方に卑屈がまちかまえ、他方に傲慢や強硬が口をあけている。そのどちらにも極端にふれてしまうのだ。



「北方領土」交渉にみる足場の弱さ

 たとえば、「北方領土」をめぐる日本外交の足場の弱さをみてみる。

 自民党政権は戦後、「千島は放棄します」とサンフランシスコ条約に書いてしまい、択捉・国後については「千島ではないから返して」という「理屈」でソ連やロシアにかけあってきたのだが、これは国際的にはとうてい通用しない道理である(一部の国がその道理をみとめてはいるのだが)。これではロシア側に分があるようになってしまう。
 しかし、国際社会の公理にてらしてみると、ソ連・ロシア側の不法がうかびあがる。

  • 千島は日本が侵略によって奪った土地ではない……近代日本が侵略によって他国から奪った土地はすべて返す、というのが戦後処理の原則である。しかし、千島はまさにロシアとのあいだで「千島・樺太交換条約」をむすんで平和裏に取得したものである。
  • ソ連による千島占領は「領土不拡大」という戦後処理原則にそむく……二次大戦では戦勝国は「領土拡大」をしてはいけない、という原則がとりきめられた。ところがそれをふみにじったのがスターリンの千島占領である。


 この2点は、日本が国際社会の公理のなかで主張しうる「大義」である。
 「北方領土」などという南千島までをくぎった不自然な言い方こそ、自民党政権のもとでの「大義なき外交」のあらわれにほかならない。
 大義や道理のもとでこそ、国際社会を味方につけながら、ロシアの態度を追及していくことができる。それなくして、ただニコニコしている卑屈も、ただ「キゼン」としている硬直も、どちらも問題を解決しはしない



中・韓、東アジア全体で孤立しているという問題
あるいはビジネスを安定的に継続できるのかという危惧

 「反日デモ」の一部が暴徒化し、日本人や日本商店を襲ったりしていることがいいか悪いかといえば、悪いことに決まっている。処罰や補償は当然だろうと思う。
 だが、その処置をきちんととらせたとして、それで問題が終わるのか、ということだ。

 たとえば、韓国の中央日報の世論調査では「韓国の安全保障を脅かす国」として日本が北朝鮮をぬいてトップにあがった(日本37%、北朝鮮29%、アメリカ19%、中国12%)。時事通信によれば、調査会社の担当者は「独島や教科書問題による韓日関係の悪化が、安保への不安感を刺激したようだ」とのべている(2005年4月19日付)。

 日本は「歴史認識」問題に起因して、中国だけでなく韓国にまで非難されそっぽをむかれるハメになっている。北朝鮮問題とあわせると、日本は東アジアで孤立した形となった。
 2004年、日本の最大の貿易相手国はアメリカではなく中国となったことを想起しよう。

 中国の社会科学院教授である金煕徳は次のようにのべる。

「中国市場における日本と欧米諸国の間の競争が、日々激しさを増している。欧米各国のリーダーたちは、『市場原理』にまかせると公式には発言しながらも、実際には、大統領や首相が最大のセールスマン役を演じている。……ここ数年、歴史問題をめぐる摩擦のせいで、日系企業が欧米企業よりも不利な状況に立たされるケースが後を断たない。……日本の首脳部による無責任な行為が、日本経済の利益に及ぼすマイナス影響は、今回の数億ドルにとどまらず、将来を考えれば、数百億ドル、数千億ドルのケースにのぼるだろう。……このままでは、中国市場における経済競争で、日本勢は欧米勢に負け続ける恐れがある」(金『中国をどうみるか』ポプラ社)

 金は、中国だけでなく、韓国でもソウル・プサン間の高速鉄道建設の大型プロジェクトに日本企業がフランス企業に敗れた例をあげ、「これらの国際入札は、いずれも日本の政治家の言動による政治摩擦と世論の動向が影響したとされている」(同前)とのべる。

 「程度が低い国だ」と悪罵を投げつけていればいいというものでなく、別に今回のデモや暴徒化の直接の影響があろうがなかろうが、こういう政治の不安定さ、あるいは後で述べるような「戦略の欠如」は、たんなる政治上の問題をこえて、日本経済やビジネスを安定的にかの地で継続できるのかという問題にまでつながっていく。

 端的には靖国参拝と歴史教科書問題である。
 もっと根本的には、さきの戦争を、「侵略戦争」「まちがった戦争」だったと認識しうるかどうか、という問題である。
 




国際社会で通る論立てになっているか?

 “それは中国や韓国の情報戦・心理戦なのだから、そんなものにひきずられるな”という理屈もあろう。

 よろしい。そうだとしよう。
 しかし、相手がある種の戦略的意図をもってやっていることだとして、ではそれに反発したりネグレクトすることが対抗策になるのか、という疑問がただちにわいてくる。

 ここでもやはり「大義と道理」が問題となる。

 すなわち、国際社会にむけてきちんと訴え抜ける道理にまで鍛え上げられているのであれば、それは「問題ない」かもしれない。だが、国際社会の現実はそうなっていない。国連をはじめとする戦後の世界システムは、ドイツのナチズムや日本の軍国主義を「悪」とし、それを封じ込めるという前提でつくられている。あの戦争を「正しい戦争だった」と主張することは、その基本システムへの挑戦となってしまう。靖国参拝ひとつをとっても同じである。日経新聞でさえ21日(2005年4月)の社説で「小泉首相の靖国参拝は少なくとも現時点では、中国はもちろん国際社会の支持を得ていない。改めて再考を求めたい」といわざるをえないほどである。

 侵略戦争の反省にたつ、というのは、国際社会において、ひとつの大義と道理を手に入れることになる。これは実は卑屈へと行き着くのではなく、安定した足場をもつことになるのである。



反省・謝罪とは何か

 このことと関連して、“われわれはいつまで謝罪しつづければいいのか”という不満もネットではしばしばみかける。あるいは“そういう卑屈な認識が戦後の土下座外交を生んできたのではないか”という声もしばしば耳にする。

 ドイツを見てみればわかるが、「謝罪」や「反省」にとってポイントとなることは、一貫した認識をもつことである。
 ドイツの反省が真に衷心からのものであるかは、ここでは問題ではない。それがナチ追及に限定されていたとしても、ドイツの態度は外交において基本的に一貫していた。
 ところが日本は、閣僚からしばしば侵略戦争についての美化の発言がとびだし、靖国参拝や教科書問題で国際的に説明のつかない政治態度がくり返し引き起こされた

 たとえば日本政府は1995年に有名な村山談話を出した。

 「わが国は国策を誤り、植民地支配と侵略によって、とりわけアジア諸国の人々に多大の損害と苦痛を与えました。痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明します」――この談話は、個々の支配や侵略の事実は認めるが、戦争の全体の性格を「侵略戦争」だと認識していない点で、ぼくからみるときわめて不十分なものである。
 だが、逆に言えば、日本国内ではある種の保守派の人もふくめて合意でき、かつ、国際社会に通用しうる論理にはしあがっている。

 閣僚や政府の対応が、ここからズレたり、これをくつがえす行動に出なければ、それが公式な謝罪と反省を表すことになるのだ。

 中国や韓国が、日本に対する戦略的意図を働かせている、と仮定してみよう(あくまで仮定である)。
 そういうときに、靖国参拝や歴史教科書問題は、その意図に、実においしい「エサ」を供給しつづけているということになる。
 国際的に道理のある主張を日本側がしていて、それで中韓の要求をつっぱねるというのなら、なんらかの見通しも出てくる話かもしれない。しかし、国際社会では受け入れられない立論で行動し、それを続けることは、見通しのない泥沼、あるいはそれこそ「情報戦・心理戦」における必敗の道をたどることにつながっていくしかない。
 そうした論理に鍛え上げることもしないで、「日本はあの戦争は正しかったというべきだ」とか「靖国には行き続けるべきだ」とか主張することは、戦略を欠いた、無責任な政治姿勢だということになる。

 先ほどものべたとおり、侵略戦争にかんする認識を国際社会に通用する形で一貫したものにすることは、長期的にみて、日本側が「大義と道理」を手に入れることになる。卑屈と傲慢の両極を往還する、不安定で無戦略な対応は消え、一貫した、戦略的な外交をしていく基礎となるのである。

 たとえば、竹島は、史料からみても明らかに日本の領土であるけども、編入時期が、日本が韓国から外交権を奪っていた時期だという微妙な問題がからんでいる。
 そのときに、歴史教科書問題や靖国参拝問題をかかえていることによって、「痛くもない腹をさぐられる」結果になっている。侵略戦争への反省のなさが、逆に領土問題での足場の弱さを生んでしまっているのだ。



多極世界へむけ日本は東アジア戦略をもて

 アメリカの外交シンクタンクのメンバーの一人であるチャールズ・カプチャンは、『アメリカ時代の終わり』(NHKブックス)のなかで、EUと東アジアの勃興によって、アメリカ一国の覇権は確実に衰退していく、すなわち多極世界へむかっていく、と説いた。
 カプチャンは、アメリカには、たえず孤立主義とその裏返しである単独行動主義の衝動が生まれるのだから、このままいくとアメリカが無秩序に世界から撤退していく、それは危険なので戦略をもって計画的に多極世界へ移行するようにすべきだ、と主張する。「多国間組織は自分たちを縛るのではないか」という米国内不安を解消しつつ、多国間システムにうまくかかわるようなグランド・ストラテジーをアメリカはもて、というのがカプチャンの主張である。
 カプチャンは、ドイツとフランスが協力しあうことに成功したことがEUの勃興の背景にあった、という戦後史をふりかえる。たえず欧州を戦乱にまきこんできたこの両国の不和が解消されるなかで、EUが発展していけたというのである。
 アメリカがすぐに撤退をしなくても、東アジアはまちがいなく世界のひとつの極になる、とカプチャンはみている。そして、「フランスとドイツの協力関係がヨーロッパの平和確保のカギとなっているように、東アジアが永続的な安定性を享受するには、この二つの大国(日本と中国)が緊密な関係を築く必要がある」とのべ、その障害を次のように指摘する。


「ドイツが率直に過去と向き合うことに意欲を示し、ナチスの影響の排除と地域における和解とが並行していることを一因に、ヨーロッパは今や、独立独行の用意が備わっている。一方、アジアでは、中国と朝鮮半島が歴史の暗部に対する日本の不十分かつ不承不承な対応に対し、当然に不満の意を示しており、長年の反感が根強く残っている。一方、ドイツは二〇〇一年、ホロコーストとドイツのユダヤ人の運命を記憶する目的で、ベルリンにユダヤ博物館を開館した。対照的に、日本の靖国神社の施設内にある戦争記念博物館〔訳注:遊就館〕は、第二次世界大戦をたたえるもので、大展示室には、悪名高い人間魚雷と特攻隊が使った戦闘機がおかれている。東アジアでは、まだ過去が清算されていないのである」

「東アジアにおいて和解と統合を始動させるには、大胆な指導力のみならず、第二次世界大戦中の行為に率直に対応するような日本の積極性が必要である。日本では近年、近隣諸国に対する侵略行為を認め、遺憾の意を表明しようとする機運がいくぶん高まっているが、用心深い謝罪やいい加減な認知は、古い傷口を開くだけでしかない」

「日本と中国の真の交流にあたっては、まず日本の過去の真の認知と清算が必要である。それには、歴史教科書の修正、国民による広範な対話、特定の博物館や神社が戦時中の行為を適切に記録しているかを再考することが含まれる。ドイツの最近の事例から明らかなように、外国と和解するに先立っては内省が不可欠である」(※)

 財界をふくめ、日本の支配層のなかには東アジアを経済共同体とし、ゆくゆくは安全保障までふくめた「東アジア共同体」へと発展させていこうという志向がある。もちろん、それは「反米自立」ではない。元国連大使である谷口誠は次のようにのべる。「二一世紀は、世界経済が新しく三極構造(北米、EU、東アジア)化する中で、日本が、米国、欧州とも協調を保ち、躍進するアジアに軸足を置き、アジアと共に歩むべき世紀である」(『東アジア共同体』岩波新書)。

 ぼくが、改憲派のかたからメールを以前もらったとき、ちょっとびっくりしたのは、そのかたにとってはアメリカの一国覇権が今もそして将来も続き、日本はそこについていくしかない、というふうに世界が見えていたことである。そして、その枠組みからの離脱はすなわち「反米」となってしまう、という思考パターン。「親米でなければ反米、反米でなければ親米」、あるいは「帝国主義でなければ反帝国主義、反帝国主義でなければ帝国主義」というのは、まさに「冷戦」期の右派左派(の一部)がとっていた発想そのものではないかとあやぶんだ。

 世界が多極化していくなかで、日本が「大義と道理」をどう手に入れ、そして、どういう戦略を持つかが問題となる。

 東アジアを新たに勃興する極とし、そのなかでイニシアチブをとるにせよ、対等な共存や交流をするにせよ、あるいは「わたりあう」にせよ、「侵略戦争や植民地支配の反省」というスタンスをとることが、日本外交の戦略的足場をうちかためることにつながる。
 実践的には、首相や閣僚の靖国参拝をやめること、くだんの歴史教科書の検定結果を取り消すことである。



中国側についてはどうか

 ちなみに、中国側についていうと、もちろん政府もデモ側も暴力に訴えているうちは、自分の国際的な立場を失うだけであることは言うまでもない。
 さらに、中国側の気分には、現在の日本の企業活動を、戦前の日本商品排斥運動とダブらせたりして、これをもターゲットにしているというところがある。しかし、そもそも日本の経済活動だけを標的にしていくだけの道理は、おそらく中国側の運動にはない。
 また、本多勝一の『中国の旅』をよむとしきりに“日本人民と日本の軍国主義指導層をわける”という民間人の発言が出てくるのだが、いまのデモ隊にはすっかりこういう見地は消えてなくなり、ただの排外的なナショナリズムに堕しているところがある。

 けっきょく、日本の歴史認識に問題をしぼらなければ、中国側のやり方も「道理と大義」を失っていくだろう。
 


※日本は国定教科書ではないし、靖国神社の展示にも何の権限もないのだ、というむきはあるだろうが、国が検定しているという事実、その神社に首相が公式に参拝しているという事実をみれば、そのことは片付く。


著:チャールズ・カプチャン 訳:坪内淳
全2巻(上下)、NHKブックス
2005.4.21感想記
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