内田春菊『私たちは繁殖している』7



 おなじみの内田春菊の出産・育児・家庭生活コミックエッセイ。

 パートナーのユーヤの親と縁を切るために、ユーヤと形式離婚したようだ。
私たちは繁殖している 7 (7)  本巻はこの義父母への攻撃に驚くべき分量が割かれている。
 ユーヤという特定個人の親が誰であるかはかなり特定されている。そのうえでこれほど身も蓋もない形でその個人攻撃のために、公にされる刊行物を私して使うというのも凄まじいことだ。いやそりゃあ「あんたの著作」なんだから何したっていいんだろうけどさ。それにしたって自分は出版という「権力」をもち、相手は持っていないという節度くらいもってもいいだろうに。もちろんそういうものを「面白がって」、ぼくは買っているわけだが。


 さらに、ユーヤの弟Tも攻撃。

 以前の執筆分ではちゃんとTの「眼」も描かれていた、すなわちTは内田にとって好意をむける対象ないしは価値中立的な存在だったわけだが、攻撃対象としてロック・オンされた途端に「顔」や「眼」が描かれなくなる。モザイクや覆面と同じような効果をあげているのだが、すでに別のところで「眼」を入れたTを描いているわけで、こうした手法を使ったからといって「覆面性」が生まれるわけではない。ではなぜこんな描き方をするのか?

 攻撃対象となった今では、Tを「邪悪」に描いてしまうであろうから、という配慮のようにも見えるが、あるいは「覆面」にすることによって、より「邪悪」な感じ(犯罪者のような)になるとも言える。

 いずれにせよ、こうやって「敵」と識別して以降、相手を悪魔化する手法は、アメリカ帝国主義のやり方、あるいはふるい左翼漫画とか、現在でいえば『ゴー宣』の精神を見ている思いがする。いわば「立派な低劣プロパガンダ」である。


 Tの事業に「お金を出して」やろうという内田(いちおうこれは内田ではなく「ジジ」ということらしいがそういう内田的な虚実の区別はぼくにはどうでもよい)。それを執拗に断るT。Tが自分の事業の独立性の維持や自尊心からその「援助」を断ったことは想像に難くない。ところが内田はそのTの態度を攻撃するのである。

 内田は何かといえば漫画の中で、あらゆるコトにおいて自分がカネを出していることをひけらかしている。そこから推察される内田的倫理とは、「カネを出しているものが主権者である」ということだ。「だれが食わせてやってると思ってるんだ!」と支配を正当化する男権論者たちの被害を受けてきた内田が、食い扶持を独力で確保しだれにも文句は言わせないと息巻くのはそれなりに理解できる。

 しかし、自分は他人や社会に対してそういう倫理を主張しながら、他人がそういうプライドを主張しているのを攻撃するのはいかがなものか。別にTは内田に支配を強要したわけでもあるまいに。そしてTがあるとき言ったとされるいじきたなさそうな「ジョーク」を主要な攻撃材料として、内田はTの品性を激しく非難し、自分の道義的正当性を確保しようとする。Tがリアルにおいてどんなにひどいやつか、もしくは素晴らしいやつか、ぼくは知るよしもないが、この著作におけるこの流れ、Tにはカワイソス。可哀想はTでござい。

 本当にそのへんの酒飲み話、茶飲み話をそのままのレベルで出版したという驚くべき著作。反男権・「私」の主権確立のまぎれもない闘争の日記であるが、自分の正当性についてきちんと鎧わない言説とはここまで見苦しく、「面白可笑しい」ものなのか。嗚呼。ぼくは本作を他山の石としたい気持ちでいっぱいである。




ぶんか社(以後続刊)
2007.6.19感想記
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