山崎さやか『はるか17』



はるか17 1 (1)  受験勉強の追い込み期、ぼくは1日のノルマをすべてやりきったら「自分にごほうび」をあげることにしていた。その「ごほうび」とは、『ガラスの仮面』を1冊だけ読むことである(あと、これに柳沢きみお『翔んだカップル』が加わる)。

 かの本の抗い難い魅力に負けて2冊読んでしまったこともある。

 「うわぁぁぁ、次、次が読みてええええ」「あ、あたいにおくれよぅ、『ガラかめ』……」などとヤク中毒よろしく、禁断症状が出まくりだったが、それを目標達成の原動力にした。つれあいに話したら「なに、そんなの逆に受験の障害じゃん」と言っていたが、たしかに一歩間違えばそのような奈落へと堕ちていったに違いない。生涯でもっとも禁欲的&目的意識的だった瞬間かもしれない(笑)。

 山崎さやか『はるか17』は、その『ガラスの仮面』の魅力を彷佛とさせる。
 次が、次が読みたい! ハアハア。

 いま、仕事の集中期なので、1日の終わりに1冊だけ読ませてもらった。日々の仕事の原動力として。あっさり1週間で全巻読破してしまったが。
 こうした漫画は、「展開」でひっぱっていくタイプだから、一度読んでしまうと二度とそこを読む気にならないことがあるが、『はるか17』はさにあらず。どの箇所も、何度見返しても読みがいがある。


大衆の欲望に奉仕する娯楽作

 リクルートスーツ、昔風の眼鏡、太く描いた眉――有名4年制女子大の4年生である宮前遥は、世にある「高学歴のダサイ女性」という偏見そのものの具象で、いっこうに就職がきまらない。焦りまくって決めた小さな企画会社で、どうした手違いからか「営業・宣伝」の仕事ではなくタレントとして「就職」が決まってしまう。22才の女子大生なのに「17才・はるか」として。
 しかし、「眼鏡をとり、化粧をすると実は美人」という少女漫画や「シンデレラ」的な古典的設定どおり、自分でもまったく気づかぬその魅力を引き出され、自己発見、開発、成長をくり返しながら、一歩一歩大きな舞台へと近づいていくストーリーである。

 「成長」のために用意されているエピソードがどれも通俗的でわかりやすい。
 よい意味で「けれん味」がある。
 かと思えば業界のドロドロした内幕(っぽいもの。実際にそういうものかどうかは知らんが)もあり、全体に大衆の娯楽に供しようという、「ご奉仕」の精神でいっぱいの漫画である。
 心を躍らせながらページを繰る――これぞ正調の「ドラマ」だ。



 少女漫画に多いのかもしれないが、読者をひきつけていく構造は『ガラスの仮面』によく似ている

 「巨乳」ばかりのオーディションで、「貧乳」のはるかは「巨乳」好きの審査員から不評を買うところからスタートするが、はるかの感情を吐露した「演技」(それは厳密にいえば自覚的な演技とはいえないが)がはるかの内面の輝きをひきだし、審査員たちを魅了する。
 このあたり、『ガラスの仮面』で北島マヤの魅力に気づく専門家や大衆を彷佛とさせる。

 また、はるかが「ファインプロ」という大手プロダクションによっていつも行く手を遮られるのは、『ガラスの仮面』で大都芸能が劇団「つきかげ」を阻むのを想起させる。読み手は「ああ、はるかの魅力になぜみんな気づかないんだ!」とやきもきしながら読みすすめるが、それに気づいたごく少数のマスコミ関係者から小さなチャンスを与えられ、地方CMで話題を広げていくのである。
 もちろんその反響は限定されているから、読み手はチラリとだけ欲望をかなえられるだけで、生殺しのように放置されておくのだ。「くわぁぁぁ、もっとはるかの魅力に気づけよ、お前ら!」

 そうなのだ。
 男性の読み手はきっと「はるか、がんばれ」とこの「わかりやすい」ストーリーに酔って、心で声援を送っているにちがいない。ぼくは送りました。ええ。

 それには、山崎さやかの絵柄が大きく貢献している。
 
 山崎さやかの絵柄はどう考えても「ヤングジャンプ」誌むけの絵柄だと思うのだが(一度も「ヤンジャン」誌では連載したことはないし、本作の連載も「モーニング」だ)、劇画の流れを組むとさえいいうるリアルタッチで、女性の造形は「かわいい」や「萌え」とは縁遠く、むしろいい意味で「凄み」が前に出てくる。
 しかし、この『はるか17』では主人公の「はるか」が、「ヤンジャン」読者好み的にかわいく、後半の巻では、中野純子『ちさ×ポン』の主人公「ちさ」に外見上似てくる。すなわち「ショートカット」である。
 ショートカットは、こちらのサイト(iszark Channel)で書かれていることを参考にすれば、「清楚・可憐」「幼さと意志の同居」の象徴であり、この点でも、男性の欲望(ヲタク的ではなく、男性一般の欲望)に徹底的によりそっている。


 可憐だが前向きにがんばろうとするはるかの姿は、男性読者にとって、まことに甘美で、声援を送りたくなるように、よくできている。



山崎の観察力が生きる

 かといって、筋立てがありきたりなのではなく、山崎がもつ人間観察の力によって、物語の展開はあくまでわかりやすく(悪く言えばベタに)大衆読者の心のヒダに入ってくる。
 たとえば、冒頭の就職活動シーンは、「モーニング」読者――20代、やや正社員系の男性の心をくすぐるのには、出色の出来栄だ。
 宮前遥が、まったく就職が決まらずに、焦りまくっているところから話が始まる。「なるほどね ま ウチはそういうのは求めてないけどね」――数々の面接官の冷酷な返事が並べられる。
 ぼくも就職試験や面接で落ちた経験があるが、とりわけ「受験勝者」にとっては、たった一つの「不合格通知」でも身を切り刻まれるように辛い。それが数社、数十社と続けば、本当に自分はこの世で必要とされていない人間なのかと錯覚に陥る。
 恐ろしいのは、冷静にまわりをふりかえってみると、同学年で就職活動をしているのは「誰も」いなくなっており、次の学年の就職活動は始まっているところを描くシーンで、うわー、そりゃ足下がなくなるような感覚だわと深く共感。

「もうたいした会社でなくていい!
 いずれ一流企業に転職すればいいんだ!!
 早く! 一国も早くどこかに!!」

 暗がりの下宿で気絶せんばかりに就職情報誌を繰る遥の姿。いやー身に染みる。

 そして「童夢企画」というボロビルの小部屋を借りる小さな会社の面接をうけ、「合格」する。「営業・宣伝の仕事」に。ところが、ここで遥と会社のあいだに、齟齬が生じる。会社の方は「タレント」として合格させていたつもりだったのだ。

 リクルートスーツ、昔風の眼鏡、太く描いた眉――宮前遥は、どうみてもさえない高学歴女子大生という感じだが、その“素質”を見抜いた社長が強引に彼女をひきとめて就職させる。決め台詞は、

「必要なんだ!!」

 バカな、と思うかもしれないが、就職難地獄にいる女性には、砂地に水が染み通るように効くであろう。



成長の物語にあらず

「いわゆる業界内幕モノ。だが“自分に何ができるのか”という問いを読者に投げることによって、決してそれ(業界内幕モノ)では終わらないひとりの少女の成長譚になっている」(宮昌太朗)

 
 ちがーう!――と、やはり芸能界ストーリー漫画『BELIEVE(ビリーヴ)』を描いている槇村さとるセンセイはおっしゃるだろう。
 こんなものは断じて成長ではない! すでに自己の中に何かが潜んでいて、それをちょっとした「努力」や「自己発見」でまばゆいばかりの輝きを放つものに変えてしまうなんて、ご都合主義もいいところではないか! と(いや、槇村は何も言ってないのに勝手につくるなよ、>おれ)。かつて自分が描いていたころの少女漫画の「成長譚」をきびしく「否定」し「人生そんな簡単じゃありません」と主張する槇村は、おそらくそんなことをいうのではないかと勝手に妄想する。

 槇村の『BELIEVE』は、読むほどにわけがわからなくなっていく。
 少女漫画である『ガラスの仮面』や、青年誌漫画である『はるか17』のように、ドラマチックなストーリーを読者にわかりやすく示し、そこにやはりわかりやすい「成長」を挿入していく、という手法にたいし、槇村はまるで反発するかのようだ。
 コマとコマの展開が驚くべき速さで進行し、セリフが不親切なまでに断片的になる。
 ときどきに差し挟まれる「人生訓」、あるいは決め台詞も、なにを言っているのか、まるで実感ができないことばかりだ。

 名カメラマンが『BELIEVE』の主人公ルカを撮るとき「ルカ だれかの中に棲みたい? だれかの記憶の中に生きたい?」と問いかける。ルカはその言葉をかみして泳ぎながら次のようなモノローグをする。

「だれかの中に棲むって……
 だれかの中の記憶に生きるって

 どういうこと?

 憎んだり憎まれたりすること?

 置き去りにされた
 痛みも
 寒さも
 忘れることも
 できずに

 悪い夢を見つづけること?

 憎まれる位なら覚えられたくない

 誰かの中に生きたくない……」


 あるいは、そのカメラマンの別のセリフ。

「かなわん

 女ってやつは
 自分の弱味を平気でさらけ出せる

 おそろしく強い――

 絶対かなわない」


 あーもー何言ってるんだかよくわかんないよー
 全然実感もないし。

 同じ海での水着撮影のシーンでも、『はるか17』のわかりやすいこと。

 あまりバストのないはるかと、別の2人が沖縄のビーチで撮影をするのだが、3者3様の「売り込み」をみせるという展開。言っていること、やっていることが明快すぎるほどに明快だ。

 『BELIEVE』のほうは、「ヤングユー」誌連載だから、読者は20代後半から30代の働く女性――それもオフィスで働く労働者――を想定していて、ところどころにルカのマネージャーの心のなかのつぶやきを描いてみせるのだが、さっぱりわからないというのが正直なところだ。『はるか17』の冒頭の就職難シーンのわかりやすさとくらべても難解にすぎる。

 槇村はいうだろう。“こんなご都合主義的に人間は成長しないし、チャンスもこない。人生はもっと厳しいものだ”と。なるほどそうかもしれない。しかし、ぼくには『BELIEVE』は、ビタミン的な栄養がありそうだけどウマくないカロリーオフの食事のようにみえ、『はるか17』はカロリーばっかりで体には悪そうだけど舌触りのいいジャンクフードのようにみえる。

 ぼくは、いま圧倒的に『はるか17』を支持するだろう。
 これこそ、漫画であり、ドラマだ。

 これがビルドゥングス・ロマンかどうか、本物の成長かどうかなんて知ったこっちゃねえよ。漫画として面白すぎるのだ。



(くり返すけどここに書いた「槇村センセイの言い分」なるものは、槇村センセイが本で言っていることを根拠にはしているけども、大半はぼくの妄想です。槇村は、少女漫画のご都合主義を自己批判もふくめつつ否定しながらも、それでもときたま少女漫画が読みたくなる、としてそういう甘い夢や欲望表現が、人生にはなにかしら必要なのだと言っているし)


 ところで、きょう職場に泊まりながらテレビドラマ「はるか17」を偶然観た。
 ぼくはドラマになるとたいてい萎えてしまうことが多いのだが、きょうのはそれなりに観ることができた。はるかの「変身」ぶりは、ちゃんと「変身」になっていたし、「君が必要なんだ」というところがキーになっていたのも満足できた。

 しかし、このドラマだけではないが、漫画を原作にしたテレビドラマは、いちいちドタバタ調のオーヴァーリアクションのようなセリフの読み上げや表情の作り方をするので、なんとかしてほしい。「マンガ」的、という言葉が頭に浮かんでくる。
 こちらのほうは、「わかりやすさ」「けれん」が逆にアダになっている。まことに不思議なものだ。





講談社モーニングKC
1〜7巻(以後続刊)
2005.7.2感想記
この感想への意見はこちら

メニューへ戻る