安野モヨコ『働きマン』1巻


働きマン

※『働きマン』4巻、およびテレビドラマ初回の感想はこちら



 あーっ、働きてぇ。

 そう思える一冊。
 「じゃあ、やれよ!」と、この感想文を読むことはあるまい、ぼくの上司や同僚の怒鳴り声が聞こえるのは、おいといて。

 週刊誌の編集部の仕事っぷりを書いたこの漫画を読むと、まずは「働きたい! 死ぬほど働かなくちゃ!」という思いが強烈に浮かんでくる。「こんなむちゃくちゃな労働条件でいいのかよ」とか「なんで女がオトコ化しねえと受け入れられねえんだよ」とか、そういうツッコミも浮かんでは消えるが、何よりも「働かなくちゃ」、という気持ちになる。

 松方のように働けたら!

 主人公・松方弘子は週刊誌の記者で、校了後、まるで廃人になったかのようにエネルギーを消尽するほど働く。松方は女性であるが、ぼく的には、ここではすでに男性/女性という問題軸さえ消えてしまっていて、オトコであるぼくは、まさに松方に「マン」=「人一般/男」を見るのである(そのことがイイか悪いかは、またおいておこう)。

 正直、いまのぼくの仕事っぷりは、田中である。
 田中は、松方の後輩で、できるかぎり要領よく仕事をしようと考える。可能なかぎり働かないでおこうと考える。「まあわりとネットで意見集めて 過去の記事と比較とか… 多分できちゃうかなって」「昔のページをベースにしたソツない出来で文句はないが 全部松方が過去にやった記事だな―― 元になってるの……」。ああ、まさにおれ。
 田中はつぶやく。
「オレは『仕事しかない人生だった』 そんなふうに思って死ぬのはごめんですね」
 そこにモノローグ。誰の? おそらく作者のであろう。
「それもある それも多分あって 確かにそのとおり でも」
 そして、憔悴した松方のセリフ。

 「あたしは 仕事したな――って思って 死にたい

 松方のこのセリフに、この漫画のエッセンスがある。

 いや、まじで、わたし、この漫画を読むことで反省しました。
 「おれ、働いてねえじゃん」と。
 仕事ではない、別の人生があるのだ、という対立的価値観にあるというより、要領よくやりすぎてねえか、という後ろめたさである。あるいは、同僚に尻拭いをさせているという罪悪感。「若いのに楽な仕事してんじゃねえよ」という松方の叱責をうけそうである。
 いまやっている仕事を、マジで見つめ直した。

 そんなことを見つめ直してどうなるというのか。
 うーむ、たぶん、松方のように、「仕事してて最高に気持ちいい瞬間」がやってくるのだ。
 その瞬間、たしかに、なにかのスイッチが入る。「働きマン」にかわる。
 「解説しよう!! 働きマンになると血中の男性ホルモンが増加して 通常の三倍の速さで仕事をするのだ その間 寝食恋愛 衣飾衛生の観念は 消失する」
 もう周りは見えなくなる。
 そう、安野が描いた29ページのコマのように、まわりは真っ白になるのである。
 そんな瞬間を求めて仕事をするのだ――と安野はいいたげである。

 この漫画(少なくとも第1巻)をつらぬく、特異な思想ともいうべきものは、“仕事の意味を考えるな! まず目の前の仕事を真剣勝負でやれ!”ということであろう。
 やりたくない「張り込み」の仕事を中途半端にして、やりたかった「大好きな作家の担当」に心を奪われている記者に、編集長が説教する。「振り向いてるヒマなんかねえんだよ いつだって真剣勝負なんだから まず目の前の仕事だろ」。
 あるいは、主人公のカレ氏はゼネコンの現場監督の仕事をしているが、いつもこう考えている。「俺は何がしたいんだろう 何がしたくてここにいるんだろう この仕事の何が好きと言えるだろう どこをつくったと言えるだろう」。それなりに一生懸命やっているが、どこかこの男は、気持ちが入らない。この仕事の「意味」を考え、そこにしっくりくるものを見い出せないからだ。
 だが、「異動」をされることになった途端、この男は激しい動揺に襲われる。
 そして、にわかに現場の作業員たちの仕事を手伝いながら、自問自答するのだ。
「なんかな―― こんなふうに後悔すんなら もっとちゃんとやっときゃよかったな 俺はなんであんなに考え込んでたんだろう 『この仕事のどこが好きか』なんて 考えてるヒマがあったら どんどんやりゃよかったよ 今になって遅えよ」
 いや、もっと直截に、安野はこの思想を表現する。
 うまいラーメン店の特集を、締め切りまぎわにつめこむ必死の作業をしたあと、その担当者の一人は、「ホントにウマい店は教えない」と言って帰っていく。すなわち、今、すぐそこでつくっていた記事は、「究極の味」のためでもなんでもない。「ホントにウマい」こととは何の関係もない、意味などない記事なのだ。主人公は、その言葉をきいて、自嘲的な笑い声をあげる。「仕事とかプライドとか 礼儀とか 真面目にやることとか 常識とか さまざまなこと それの7割は無意味だ いや訂正 意味などそもそも なくてもいいのだ」。

 一見危険な思想のようではある。
 任務や仕事の性格、内容から“解放”されて、そんなことはいっさい考えず、目の前の仕事をとにかくド真剣にやれ、というのであるから。
 そういう危険なラインすれすれの思想である。
 だが、思弁的に、机の上で、脳内で仕事の意味を考えていることが、無意味な場合というのは、たしかにある。いや、多い。あるいは、「やりたくない仕事」というものがある。そういうとき、まずやってみるのだ。がむしゃらにやってみる。つきぬけるまで、とことんまで、やってみる。
 そのとき、はじめて「あ、こんなコトだったのか」という「意味」が見えてくることがある。
 あるいは、自分では思いもよらなかった能力が開発されるときがある。
 “仕事の意味を考えるな! まず目の前の仕事を真剣勝負でやれ!”というのは、実践的な知恵である。
 20代から30代前半なんて、アレコレ考えたって、そんなモンは、しょせん、しょんべんクセェことなんだよ。


 それでも。

 こういう基準でやれるのは、まさに「雑誌編集」というオシゴトだからであろう。
 世界には、仕事の内容から“解放”されてしまっている労働というものが無数にある。
 働いても働いても何も見い出されずに、安い賃金で使い捨てのようにされて死んでいく人もいる。また、他方で、「もう働きたいなんて1ミリも思いたくない」「仕事したなーと思って死にたいどころか、仕事して死にそうだ」という過労寸前の長時間労働が存在する。日本では現在、年300時間ものサービス残業が存在する一方で、400万人をこえる若者が、低収入・使い捨ての「フリーター」という働き方をさせられている。別に、そのことを描いていないのは安野の責任ではない。安野は労働の普遍的な姿を描こうとしたのではないのだから。
 過労と「オトコ化」のススメのようにもとられかねないだけに、安野の作品のスジを離れて一般化(いついかなるときでもトコトン働くことはすばらしいんだ、とか)をはじめると、もういけない。そういうあやうさを感じながら、読んでいる作品でもある。

 しかし、そのような危惧を結局封じ込めて、逆に、前向きなエネルギーをぼくに吹き込んでくれたという点に、まさに安野の作品のパワーがある。

 
 あーっ、働きてえ。


講談社モーニングKC
04.11.28感想記
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