原作とドラマ(実写映画)のクオリティの比較という問題が当然に発生する。
同誌の現役編集者の覆面座談会を読んでいると、
「C ……『働きマン』(講談社)や『おたんこナース』(小学館)みたいに、内容や段取りが問題になって、ドラマ化がご破算になるケースは後を絶ちませんね。
B 先に伊東美咲や観月ありさというキャスティングが決まっちゃってて、作家がキレたんだよね。『働きマン』なんか、アニメはフジ、ドラマは日テレという変な状況になっちゃった。
A まっとうな作家であれば、自分の作品を大事にしたいと思うのは当然だけど、脚本を書くほどの暇はないし、どうしてもイメージと違うものになっちゃうんだよ。それに対して怒る作家もいるけど、『しょうがない』ってあきらめる人も多いよね」(p.59)
という箇所があった。ほう。
自然に読めば、『おたんこナース』は観月ありさ、『働きマン』は伊東美咲であったものがご破算になったということになる。それが憶測か、それとも有名な事実かぼくは知らんのだが(※2chではこのエピソード、もう当然の前提みたいな感じで普通に話題になってるな)、もしそうなら「伊東美咲」というキャスティングは、『働きマン』の主人公、松方弘子を演じるのはたしかにどうなのかという気がした。
広告業界で働く女性を描いたおかざき真理の『サプリ』がドラマ化された(少しばかり見ていたのだが、『サプリ』を原作をかなり大胆に改造し、年上女と年下男の微妙な恋愛感情みたいなものに単純化されてしまっていた)。このときの主人公が伊東美咲だったのだが、伊東の演技の巧拙は別として、それほどキャスティングとしては違和感はなかった。
しかし、『働きマン』の松方を伊東ということであれば、違和感はぬぐえない。
これは、原作の差に由来している。
『サプリ』についてぼくは前にも感想を書いたが、全体に自意識と美意識の臭いが強い(それが単純に悪いということではなく、クセのある味で、嫌がる人も多いということだ)。労働にクタクタになり、恋愛にふりまわされる女たちが登場するが、それでもなおかつそれを美しく描こうとする。
その自意識をにじませた美意識、「見せるための労働と恋愛」というテイストが、実は伊東美咲という女優に合っている。ひとことでいえば「本当に働いていない」感覚、「これはドラマである」という感覚に合っているのである。別にリアルなものを期待してドラマをみるわけではない。少しの夢をこめてドラマをみるときがあっていい。そういうシンボルとして伊東美咲の配役は悪くなかった。
しかし、『働きマン』は違う。セリフの一つひとつ、シチュエーションの一つひとつがえぐられるようにリアルである。
松方弘子はドラマの役のように労働するのではなく、本当に働いていなくてはならない。当たり前である。
ある種の「すさみ」や「荒っぽさ」があって、「仕事のデキる感じ」というのが造形されるのだとすると(『サプリ』の主人公の藤井もこういう設定のはずなのだが、松方のような「すさみ」や「荒っぽさ」が感じられない)、伊東美咲は汚れていなさすぎるのだ。対して、菅野美穂という配役はこの「すさみ」や「荒っぽさ」を多少なりとも備えている。完全に「仕事のデキる感じ」になっているかどうかは実際の演技をみてみないとわからないが、伊東よりははるかに可能性を感じさせる(ドラマ初回の感想は後述)。
お前が伊東よりも菅野が好きなんじゃないかって? ああすいません、個人的な質問はご遠慮いただいております。
vol.27「ボケマン」の冒頭。
臨時のデスクになった松方が働いていない部署のメンバーをじっと観察していれる内心のツッコミ、「あんたもう5時間ぐらいミクシィやってない?」「タバコ吸ってお菓子タバコ吸ってお菓子 ミルフィーユかよ!!」に笑う。いるよ、そういうやつ。っていうか、おれだ。
余談だが、このシーンで「働きアリの20%が実は働いていないという話は有名だ」というセリフ(ナレーション)があるのだが、「しばしば目にするのは、『蟻の巣にいる働き蟻の中で、きちんと働いているのは二割の働き蟻である』というたとえ話です。……このたとえ話では、その二割の働き蟻だけ集めたら、働き蟻だけになるかというとそうではなくて、その集団の中でまた二割の働き蟻と、八割の怠け蟻とにわかれてしまうとも言われています」(藤本篤志『御社の営業がダメな理由』p.32)という方が正しいんじゃないだろうか。これはパレートの法則(社会全体の富の8割は2割の人間に集中している)の応用としてよく紹介される例だ。だからぼくなども堂々となまけていたのに! しかしネットで検索するとこの『働きマン』的な解説が多くてびっくりする。2割が働いていないっていうのは別に面白くもなんともない仮説である。
閑話休題。
「正攻法以外を身につけなさい
そろそろそういう年齢よ」
対する『働きマン』の方。4巻であげられている「教訓」っぽいものをとりだしてみよう。4巻冒頭vol.24(「お休みマン」)のエピソードは「経験」にかんする物語である。その結論は「経験が全てじゃないけど やってみないとわかんないこともある」(p.28)だ。
うん。これだけ聞いたら、なんじゃそりゃっていう話。中学生の作文ですか。
「独身だったら自分のことだけやってればいいって……
どういう意味よ
あたし達だって仕事でいろいろあるけど
主婦が気楽だなんて言ってないでしょ?」
あとで松方の友人(働いて独身派)が「……ったく バカだねー 黙って聞いてやりゃいいじゃん 『自分は幸せだ』って確認したいだけなんだから」と松方をたしなめるのだが、ぼくからみると、「働いて独身派」が、「結婚して主婦派」の無垢さ、自らのイデオロギー的立場にまったく気づかないことをディスクール分析し、暴露し、鉄槌をくだすことは、「働いて独身派」にとって、一つの快楽なのではないか。「働いて独身派」の女性たちが「結婚して主婦派」のナイーブさをボヤいているのを酒を飲みながら聞くことがあるが、それは実に楽しそうである。
しかし、ここで終われば、「結婚して主婦派」と「働いて独身派」のディスコミニュケーション、よくある鬱憤ばらしで終わってしまう。内田春菊のテイストだ(笑)。
だが、「結婚して主婦派」が派手なドレスを着てきた理由、そしてお祝いを主婦らしい気遣いで渡すのを描いて、松方に、
「あたし 仕事以外のスキルって上がってんのかな
こうして日常生活の中に突然放り込まれると
何もできなくて 何も知らない
そんな気がしてくる」
という反省をさせるのである。
いわばいずれも片面発達をしているというだけであって、その自覚なく自分が全面発達をしていると思い込む方が逆に救いがたいのかもしれない。
これらのエピソードを描くとき、安野の(青年誌むけの)絵柄はおかざきに比べてどうなっているだろうか。
図1:『サプリ』祥伝社2巻より |
おかざきの絵柄では多くは背景が抽象化されている。そして、たまに描き込まれる背景も人物が強調されにくい同じレベルの描き込みとなっている。あるいはまるでデザインのように一体化している(図1および2)。
なにより、『サプリ』は、古典的なコマ構成を解体し、コマを重ね、セリフやナレーション、内語がそのあいだを越境し、さらに間白が自在に入るという、少女漫画が開発したコマ構成をフルに活用している(図1)。
こうした少女漫画の手法について夏目房之介は「これらの手法の効果は、時間の感覚を中和させてしまい、非常に微妙な気分、軽い浮遊感のようなニュアンスを強調するものだということでしょう。きわめて主観的な情緒、それも一種の酩酊状態のような曖昧な感じを表現するときに効果を発揮します」(夏目『マンガはなぜ面白いのか』p.166)とのべた。
図2:(出典は図1に同じ) |
おかざきの絵柄は、自意識・美意識と外界で進行している現実が渾然となってすすむのにまったくふさわしいものである。「一種の酩酊状態」として!
そのような観念的な、自意識と一体化した描写、自分に酔う部分がある、リアルさに食い込まない描写ならたしかに、「伊東美咲」=実際に働いている気がしない臭い、はふさわしかったかもしれない。
これにたいして、安野が採用している絵柄は、古典的・男性青年誌的なわかりやすいコマ割だ。背景は写真のように描き込まれつつも、人物が突出して・印象的にぼくら読者に迫ってくる。曖昧さを厳しく排した客観性。
そして、こうした一般的手法にとどまらず、たとえば「独身だったら自分のことだけやってればいいって…… どういう意味よ あたし達だって仕事でいろいろあるけど 主婦が気楽だなんて言ってないでしょ?」とつっかかるときの松方。顔に影をつけ、三白眼、目に小さなしわを描き込んでドスを効かす(図3)。
こわいっつうの。
図3:『働きマン』講談社4巻より |
読んでいると、この場にいあわせたかのような緊張が走る。
そのような、自分をカッコ良くみせたいという自意識と美意識を捨てきれないでむしろその酩酊を楽しんでいる『サプリ』に起用された伊東美咲を、安野としては『働きマン』で使うわけには何としてもいかなかったのであろう。
なるほど、たしかに松方は恋愛を捨てた仕事人間ではない。
しかし、仕事への愛着と執着がバケモノのように強い人間なのだ。それが結果的に恋愛を押しつぶしてきた。とくにぼくがそれを感じたのは2巻のvol.10「報われマン」。営業担当に、松方が自分の担当する作家の単行本のゲラを渡し、「通しで読んでみ!」「もうちょっとこの本に対して愛情もってよ!! そんで売ってよ!!」と押し付ける場面だ。
この姿勢というのは、「自分の仕事だけをこなしていればいい」というのではなく、自分のしている仕事に深い思い入れがあり、その思い入れと愛情がものすごく他人にたいし強迫的な、しかし激しく説得的な強迫となって現れる。
ぼくの知り合いでもこういうやつがいる。
松方のように仕事を徹底的にこなし、その仕事に愛着をもち、愛着をもつがゆえに強迫的であるが、愛着をもっているがゆえにその仕事に対する洞察が深い。だからこっちは説得されてしまう。
そんな「恋に仕事に」みたいなヌルい女じゃない。
ある意味、病的なのだ。その偏執的・病的な性格を演じきらなくてはならない。その松方の異常さを脚本は描ききってほしかったし、菅野は演じきってほしかった。「働きマン」への変身っていうのはモロボシ・ダンがウルトラセブンに変わるように変身するんじゃなくて(そういう決めポーズは別にあってもいいけど)、本当に仕事に熱中して周りが見えなくなってしまうという調子で変身してほしいのだ。
はっきりいって、恋愛はここでは添え物なんだよ、添え物!
講談社モーニングKC
1〜4巻(以後続刊)
2007.10.12感想記
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