桃森ミヨシ『ハツカレ 初彼』


 すげえタイトルだなと思って買った。

 女子校に通うちひろ(チロ)は、電車通学でいっしょになる名も知らない男の子(ハシモト)に告白される。これがチロにとっては初めての彼氏、ゆえに「ハツカレ」。

 「初彼」というわりには、表紙はハシモトの体だけが描かれ、チロの顔が大写しに。
 中をあけると、扉絵があり、ハシモトのアタマが目の上で切れている。ちょっと、どきっとしますな。なんかエロゲーで描かれている「男」(だいたい顔が隠されている)みたいで、匿名臭がただよってしまう。
 それはまさにチロの心象風景というか、彼女の恋心のなかには、真にハシモトは存在していない
 まず自分のことだけ、自分の気持ちだけから問題が出発している。

 いや、実際の中高生の恋愛のリアリズムとしてそれは正しいのだ。

 そもそもハシモトがいったいどんな人間かまったくわからないのに、いきなり電車でいつも見ていたという理由だけで告白され、チロも交際をOKしてしまう、というのが、すごい。
 出発点において、相手が何者かまったく不明である。
 冒頭のシーンは、ハシモトがチロに告白しているのだが、それはハシモトが何を言ってるのかさえわからないようになっている。チロの心の中ではハシモトの肢体しか映っていないのだ。

 1巻がおわるまで、ハシモトとは何者であるか、ということはつかめない。
 せいぜい、男子校に通い、友だちとつるんでいる、ということしか。
 相手がほぼ無規定なまま1巻が閉じられようとしているというのは、すごいことであるなあ。

 中高生の恋愛が、ほとんど自意識との格闘という地点から出発し、相手には自分の理想のお仕着せをするというのがもしリアルさであるなら、本書はまさにそのリアルさを堂々とすすんでいる。

 相手が見えなければコミュニケーションは、ずっと緊張したままのものである。

 1巻の最初から最後まで、チロはどうやってハシモトの気持ちを確認していいかということに悩みつづけ、赤面しつづける。いやまったく赤面しつづけるのだ。

 第1話(STEP.1)でチロがどれだけ赤面しているかを、当研究所で数えてみたのだが、チロの顔のコマが総数113、チロが赤面しているコマが95、たんに頬の赤みにすぎない14のコマを排除しても81コマが赤面のコマである。実に全体の71%でチロは赤面しているのだ。

 ワタシは、この1週間ほど、『敷居の住人』(志村貴子)地獄というか、寝ても醒めても休憩でもトイレでもこの本ばかり読むという中毒症状かかり、コマの隅から隅まで全巻を精読するハメになっている。だれか助けてーーっ!!
 その『敷居の住人』も、出てくる少女たちのほとんどは、自己愛や自意識を投影し、主人公本田ちあきをおもちゃのように扱いつづける。ちあきをゴムマリや玩具のように慰みものにしながら、少女たちは自らの女性性をみつけつづけ、自立したりオトナになったりしていく。ちあきはただ翻弄されるだけである。

 『敷居の住人』と『ハツカレ』は同じように、少女の自己愛、自意識の投影から恋愛が出発しているのだが、感じるリアリティがまるでちがう。
 くどいようだが、『ハツカレ』のリアリティとは、少女の心象にうかんだ「オトコノコ」像の精確なトレースであり、ハシモトの希薄さや非現実感はそこから生まれている。したがって、このココロの世界で暮らし続ける限り、少女たちに真の成長はない。

 『敷居の住人』は設定自体は虚構だが、客観世界の構成要素をいじっただけの虚構であり、ぶっちゃけていうと客観世界に近い。心象ではなく、少女たちの自己愛の客観的なありようを、作者志村は外側からしっかりと観察しているのである。

 などとえらそうに書いているぼくであるが、中学時代、好きな女の子の家の前を、ストーカーよろしく自転車で無限回数いったりきたりして、もし会ったらどうするか、などというドラマチックな設定を心の中でしていたわけで、やっぱり『ハツカレ』のリアリズムこそ中高生のリアリズムであることよなあと思っているのです。しかも女の子の家に気をとられて、車止めのチェーンが張られているまっただ中へ自転車を突っ込ませました

 この『ハツカレ』においてくり返し現れるテーマ、「相手を待っていると運命的な出会いをして愛情を確認しあえる」というのは、実は中高生の萌えツボなのです。

※追記:
3巻のオビで「赤面率」を編集部が記載。
当サイトが出発点の発想なら嬉しいことである。(2005.9.2追記)


ハツカレ 1 (1)マーガレットコミックス
集英社 マーガレットコミックス
1巻(以後続刊)
2004.2.7感想記
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