ジョージ朝倉
『ハートを打ちのめせ!』
『ピース オブ ケイク』



 オンナのコからセックスをもちかけられる、とか、キモチはなくてセックスだけ、とか、顔が腫れるほどになぐるというシチュエーション、とか、青山景『SWWEEET』の感想を書いていて、ジョージ朝倉を思い出していた。

ハートを打ちのめせ! 1 (1)  中学生の恋愛のオムニバスである『ハートを打ちのめせ!』の冒頭に出てくる短編「第1話・根岸」がそれだ。荒井という少年が好きな同級生の少女・根岸は、荒井をどうしたら自分のものにできるだろうか考えて、カラダで釣ることにした。根岸から誘って、トマトをつくっているビニルハウスで夏休みの間、毎夜セックスをする。
 夜の荒井とのセックスはラブっぽい。
 ラブっぽいが「ぽい」だけ。
 根岸は唐突に泣く。作者は根岸の泣き顔を、大ゴマで、しかし顔(目)そのものは手で見えないようにして描く。根岸のココロはこのセックスの現場にはない。『SWWEEET』が強いられたセックスのくせに少女の顔を大きく描くのとは対照的だ。
 根岸はセックスをいくらしても、自分の気持ちは、そして荒井の気持ちは伝わってこないことをよく知っているのだ。

「セックスなんかじゃ…
 足んない
 伝わんないッ」

と泣き出した根岸は「殴り合おうっ…」と嗚咽しながら荒井に提案する。
 セックスでも伝わらない猛り狂うほどの荒井が好きな気持ちを、荒井を殴ること、荒井に殴られることで伝えあいたいのだと。で、二人はホントに殴り合う。
 『SWWEEET』とちがって、殴り合う描写が7ページにもわたってつづき、そのあとには青痣も眼帯も生々しく二人がそこにいる。

 こええよ。
 シチュエーションが『SWWEEET』とかぶってるのに、男子中高生の欲望とはほど遠い。

 別の短編(「第3話・瑠璃」)だって、女子中学生がファザコンの気持ちをこめて、サエない中年教師(見ようによってはワイルドだが)のことを「手に入れよう」と、迫り続け、ついに自分が見ず知らずの男たちに輪姦されそうになる状況に自分を追い込み、そうやって自分を追い込むことで傍で見ていた教師を追いつめ、自分とセックスをさせようとする。

 どちらも『SWWEEET』的な状況はよく似ているのに、ラブコメの空気はいっさいなく、男の側からするとちょっと恐ろしくなるような「激情」を感じさせる。

 青山の『SWWEEET』には殴られたり蹴られたり怪我したりという状況がわりと多いのだが、描写自体がそれほど実は凄惨ではないうえに、いつも甘い匂いがする。青春の甘酸っぱさを演出するためにかなり管理された「道具」として暴力がある。
 ところがジョージ朝倉の場合、恋愛の激情を、暴力や全身運動として表現しようとしているので、ある意味、暑苦しく、青臭い。「そんなもんに近寄りたくねえよ!」というような生々しさをとどめている。

 『ハートを打のめせ!』が中学生の恋愛を描いているからだ、と思うと、そうではなく、ジョージ朝倉の漫画は、実にしばしば暑苦しい。いつも登場人物が滝のような涙や鼻水を流していたり、息急き切る、つうか息もたえだえといってもいいくらい全力で走ったり飛んだりして相手を追っかけたり走り回ったりしている。

ピースオブケイク  20代中盤の女性の恋愛を描いている『ピース オブ ケイク』でさえ、ほとんど状況はかわらない。25になったら藻前もちょっとは落ち着け! といいたくなるほど。

 ぼくは、ジョージ朝倉が描くこの「激情」に共感できるというわけではない。つか自分の若い頃を思い出すとかいっているやつ、おまえはどうかしている
 かといって、たとえば稚野鳥子や木村千歌の漫画を読むようにまったく外側にいて「うわーうわーうわー」とか見ているというわけでもない。

 ジョージ朝倉を読む時のこの独特の距離感はどこからくるのか。

 ぼくらはどうせ恋愛をウジウジとしか営めない。
 気持ちを隠したり、ゆがめたり、味つけしたりしてコミュニケーションをはかっている。
 ところがジョージ朝倉は、その隠したり、ゆがめたり、味つけする前の、原初的な気持ちをそのまんま大声で描いてみる。いや、真情そのまま、というよりも徹底して誇張し、増幅している。現実の恋愛のコミュニケーションとしては不正解であり、本当にこんなことをやったら破綻してしまうというものが多い。しかし、ゆえにジョージ朝倉の描く女性の「激情」は「妄想」であり、精神のうえでの「欲望」として実によく機能している。
 しかもジョージ朝倉はそれを「ハッピーエンド」にくるんで読者に提示する。
 恋愛のリアルを見つめながら、現実主義には堕さずに、妄想を思いっきりふくらまして、最後にハッピーエンドにしてみせるのだ。
 だから、ぼくらはジョージ朝倉の描く「激情」はどこかで見たような気がするけども、自分そのものではないような気がするのである。男子中高生がほしがる肉欲を目指さない。むしろ恐ろしささえ感じる描写なのに、最後は精神的な救済がもたらされる。

 たとえば、『ピース オブ ケイク』で主人公の志乃が別れた元彼と会うシーンがある。
 この元彼は粘着質で、しかも「正しい」ことの説教好きで、かつ、あけすけである。
 別れてもなお説教を垂れようとする元彼に、志乃はブチきれ、涙を「だーばー」と滝のように流し、ホホを紅潮させながら「激情」を吐露する。

「あなたのその自信はどこから来てどこへ帰るの!?
〔※このセリフは相当に可笑しいが――引用者注〕
 そして別れたのにまだ説教なの!?」

 しかし涙声で志乃はこう付け加える。

「何だかんだで言う事聞こうと頑張ったのは
 反省とか許されたいとか好かれたいとかあったけど
 あんたのはっきりしたそーいった質が

 す 好きだったからだけどっ」

 心の底から二度と会いたくない、と立ち去ろうとする志乃の背中に、元彼が神妙な顔つきになってつぶやき、志乃は振り返る。

「……付き合い始めた頃 『私達合わない』って君言ったよね
 君の直感は正しかったんだから
 なら もっと胸を張って生きろ
 俺がつべこべ言った事なんて全部忘れて

 じゃあな」

 志乃は部屋にもどってひざ小僧をかかえて思いに耽る。「……完敗だ」。

「忘れないっつの」

という志乃のモノローグはカワイイうえに、ステキだ。「色々な事 消せないし消したいとも思わない (…思い出すと死にたくなるけど)」と志乃は思う。

 ここでは、元彼を好きだった自分の気持ちが相手に伝えられ、それはハネかえって自分がした恋愛のどこが「よかったか」をなぞりなおし、なおかつ、元彼という存在は「思い出すと死にたくなる」存在ではあるが、「消せないし消したくない」思い出として自分の人生のなかにしっかりと沈潜させていく。
 「いい恋愛だった」などという見え透いたウソはついていないのに、騒々しい音を立てながらも終わった恋愛が自分のなかで息づいていくという「救済」をここで朝倉は見事に描いている。

 横井周子がジョージ朝倉について次のようにのべているのが、当を得ているだろう。

「大塚英志は、自らネームチェックをした三〇〇ページ(!)の描き下ろし単行本『ハッピーエンド』の巻末で『ジョージ朝倉さんの書くべきことは少女まんがの王道ともいえる「ハッピーエンド」で終わる物語だと僕は感じています』と述べ、少女漫画家は『自分の意志で「ハッピーエンド」をもう一度、選び直す必要がある』と付け加えた。王道を踏襲し、踏み越える。『あったらいいな』を実現しつつ、妄想の綻びと嘘を暴露するジョージ朝倉の少女漫画は、とても繊細でスリリングなのだ。……(中略)……妄想を扱っても露悪じみた情念がぎりぎりのところで希望に代わるジョージ朝倉の作風は、少女漫画に収まりきらない独自の魅力を放っている」(「ユリイカ 詩と批評」2003年11月号p.162)

 
 青山の『SWWEEET』はこうした暴力や暑苦しさや青臭さのなかでの恋愛や性を描きたかったのもしれないが、ジョージ朝倉の暴れ回り強烈な芳香を放つ描写とくらべると、それとはまるで異質な、スタティックなものになっている。いやね、そのことが悪いということではなく、それはそれとして欲望漫画としていいのだが。

 ただ、青山の『SWWEEET』と同じ「IKKI」に連載されていたジョージ朝倉の『平凡ポンチ』は、ぼくにはさっぱり理解できなかった。『恋文日和』のなかでも「ホワイトタイガー・イリュージョン」という短編はやはり暴力と逃避行を扱った短編だが、もう全然わけがわからない。こういう作品を評価するむきもあるようだが、これは「激情」が物語の枠にさえおさまらずに破綻した悪い例であろうと思う。




『ハートを打ちのめせ!』祥伝社 全2巻
『ピース オブ ケイク』祥伝社 1〜2巻(以後続刊)
2005.11.17感想記
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