見田石介『ヘーゲル大論理学研究』


 ぼくは、ネット掲示板に基本的に書き込みをしない。

 友人のサイトのBBSで馴れ合うとか、「お知らせ」みたいなことをするときなど、ごくまれな場合だけである。2ちゃんねるは見ることはあっても、カキコは一度もない。論争したりするときはメール、メーリングリストでおこなう。

 ネット掲示板での「論争」は、たいてい不毛だ。あっというまに汚い悪罵の投げつけに変わる。
 むろん、メールといえども、掲示板と同じ精神でやれば、なんら選ぶところはない。

 「まちがっている」相手を「批判」し、その相手を打倒しようとする。
 Aという議論にたいし、アンチAをつきつける。
 
 ぼくが今ここで問題にしているのは、「対話ムードでやりましょう」ということではない。むろんそれは大事な議論のマナーであり精神的スキルであるのだが、ここでぼくがいいたいことは、「まちがっている」とはどういうことか、という問題である。あるいは、相手を「批判する」とはどういうことか、という問題である。

 形式論理学において、Aであるものは、Aでしかない。A=Aだ。A=Aである場合、A≠Aではありえない。
 ところが、ヘーゲルは、これは現実の豊かさをとらえるには無理がある、限界があると感じ、弁証法論理学をうちたてた。A=Aであると同時にA≠Aでもありうる、と考えたのだ。
 自然や社会や人間精神は、つまり事物は、一面的なものではない。
 多面的で全面的なものだ。
 そして、ある側面は別の側面を否定するような矛盾した存在であり、それらが同居しているという、「奇妙な存在」なのである。
 20才のあなたは、19才のあなたと、肉体的にも精神的にも同じではあるが、少しだけ(あるいは急激に)成長をとげて、もう昔のあなたではない。しかしあなたでありつづけている。

 日本がおこしたアジアへの侵略戦争は、アジア民衆を殺りくし苛酷な支配をしいたという側面と、欧米帝国主義をその瞬間追放したという側面を同居させている(そこから「アジア解放戦争」などという無理な読み替えも始まるのだが)。

 あらゆる事物が多面的であり、あるいは歴史発展的であるがゆえに、人々がおちいる「まちがい」とは、往々にして事物の一面に執着することによって生じる。「まちがい」がそもそもすべて「たわごと」であることは、現実にはほとんど稀である(ぼくも相手に打撃的に言うために「たわごと」という言葉は使うけど)。ごく初歩の事実誤認などのケースをのぞけば、人々がおちいる「まちがい」とは「一面的である」ということである。

 事物の一面に根をもった認識は、くり返し再生産される根拠をもっている。
「哲学的観念論は根拠のないものではない。それは疑いもなくあだ花であるが、しかしそれは生き生きとした、実をむすぶ、真の、強力な、全能な、絶対的な人間認識の、生きた木についたあだ花なのである」(レーニン『哲学ノート』)
 事物の一面を、線を引くようにキッカリととらえようとするメンタリティは、人間認識にとって、必要不可欠なものである。「悟性は規定し、またその規定を固執する」(ヘーゲル)。これなくして、人間は全体像への把握をすることはできない。
 相手が固執する一面とは、現実に根拠のある一面である。
 その一面に目をつぶって、別の一面を強調することは、「批判」ではない。

 一面的なものへ、別の一面をぶつけることで批判することはできない。
 それは永遠のスレちがいとなる。

 次の二つ以外に方法はない。
 一つは、現実のなかにあるその一面の根拠が現実的=客観的に消えること。
 もう一つは、現実そのものの全体像を体系的にひとつの絵図にまとめあげ、相手の言っている一面が、その全体像のなかでどの一面にあたるのかをしめすこと、すなわち一契機(モメント)におとしめること、これである。

 後者が、真の「批判」である。

 見田石介は、本書の中で、ヘーゲル論理学の真髄が要約してある『大論理学』の箇所を解説して、次のようにのべている。

「理性は……悟性の固執する特殊的な規定(たとえば定義をあたえて、他のものとの境界をきっちり区別するような人間精神のありよう。「Aとは○○であって、××ではない」など、事物に、たった一つの「規定」をあたえる精神)を否定するわけですが、たんに否定するだけでなく、それをもっと大きなもの、普遍的なもののなかにすくいだし、とらえなおす、というわけです。
 現代物理学は、ニュートン力学を否定しますが、それよりすすんだ理論の一モメントにおとしているのとおなじことです。……『普遍のなかに特殊を把握する』とは、特殊的なものを普遍的なものの一つのケースとしてとらえる、ということです。
 ブルジョア学者は資本主義を永遠自然なものだと考えていますが、そうではなく、資本主義はさまざまな生産様式の一つにすぎないとみること、これがここで『把握する(ベグライフェン)』ということの意味です。だからものを『把握する』ことは、同時にそれを批判することです。批判とは、なにかものを外部からたたくというのではなく、いままで普遍的だとおもわれていたものが、じつはもっと普遍的なものの特殊なケースにすぎないことをあきらかにすることです。そのものを普遍的なものの一モメントにおとし、没落させる、これが批判ということです

 これが本当の批判ということである。

 だから、批判は、かならず、一つの体系をしめす
 世界を体系の絵図にまとめあげなければ、普遍的なものは描きえない。
 それはネット掲示板のような文字分量では絶対にできないものだ。メールでさえむずかしいが、メールくらいの分量になれば、最低限のことは言うことができる(後述)。

「体系を持たぬ哲学的思惟はなんら学問的ものではありえない。非体系的な哲学的思惟は、それ自身としてみれば、むしろ主観的な考え方にすぎないのみならず、その内容から言えば偶然的である。いかなる内容にせよ、全体のモメントとしてのみ価値を持つのであって、全体をはなれては根拠のない前提か、でなければ主観的な確信にすぎない」(ヘーゲル『小論理学』上p84〜85岩波)

 マルクスはだからこそ資本論(あるいはさらに大きな経済学)の体系に、「経済学批判」というサブタイトルをつけたのだ。

 「まちがい」が事物のある一側面への固執だとすれば、それへのもっとも積極的な批判は、普遍的な体系をしめし、その一面をモメントにおとすことである。
 しかし、メールという分量では、そのような体系をしめすことは、かなわない。
 そこで、最小限、われわれがしなければならないことは、相手が固執している「一面」にこたえ、自分が主張する主要な側面とのあいだの関係をしめすことである。

 前にも書いたが、天皇制をもっとしっかりしなければならないと思いつめている右翼の少年がいた。ぼくは、その動機を聞いてみた。彼は自分のくらす国・日本に誇りがもてない、というのである。そのための誇りの回復の措置とは「天皇・天皇制を復建」し、民族のアイデンティティをとりもどすことであったのだ。
 この場合、一面にたいし別の一面をもってする「批判」とは、天皇制の不合理を攻撃することである。
 しかし、それはぼくのえらぶ道ではない。
 普遍につうじる最小限の批判をするとすれば、彼の根っこにある「誇りのもてない国・日本」という現実に共感し、そこからお互いに出発することである。誇りのもてない現実そのものの変革の方途をしめすことである。天皇制については意見の不一致をみようとも、それ以外のところで共感しあえることができれば、議論は建設的におこなわれ、わたしたちは前進したことになる。


 荷宮和子が、『声に出して読めないネット掲示板』(中公新書ラクレ)で、相手が「なぜそう言うのか」に思いをはせるというネットコミュニケーションのスキルに言及していたが、これは正しい。
 それは、相手を癒したり、いたわったりするからではない。

 普遍性につうずる道だからである。




ヘーゲル論理学研究会編
全3巻 大月書店
2004.2.8記
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