浅尾大輔『「非典型」労働者の組織化、その可能性の中心』



左翼がおちいる「官僚的文書」のこと


 左翼の組織的方針文書は、ともすれば官僚的文書となる。

 組織を動かすための「正確さ」や、だれをも傷つけたり不満にさせたりしない「政治的配慮」が最優先され、それがテンプレのように骨化していけば、そうなることはむしろ必然だといえる。そして、それはある程度必要なことだし、組織が大きくなるほどそれをきちんとこなせる人がいなければ、組織は回らない。だが、やはりそれは習慣化して石化すれば、どうしても感性の弾力を失った、お馴染みの言葉、「官僚主義」になるのだ。

 ルポライター鎌田慧は、方針文書ではないが、ビラについてこう書いたことがある。

「ビラは極限状況の記録でもある。わたしは、総評に送られてくる労働者の小説やルポルタージュを年に一回読む機会をもっているが、それらは争議組合のビラの断片に遠くおよぶものではない。紋切り型の表現の羅列は、状況を典型化しようとする批評精神を欠落し、対象と対決し、それを捉えつくそうとする気迫のないことを示している。つまり、訴えざるをえない内的必然性が感じられないのだ。マヤコフスキーは書いている。『たかが一つの言葉のために/言葉の粗鉱を/数千トンも/費い果す』。その努力に欠けているのである。たとえばこうである。
『連日、糾弾が続き、労働者をボロ切れ同然に扱ってきた会社側の態度に、胸の底から怒りを燃やす組合員の意志を反映する団交は続行された』
 この三行は『団交がつづいた』の七字ですませることができる。その日の団交を何故とりあげたのか、いままでの団交とどこがちがうのか、そこでなにが、どのように交渉されたのか、そのことはなにも書かれていない。具体的なものによってひとに呼びかけ、ひとと結びつき、行動を喚起する。そんな運動感覚がゼロなのである。それはいまの学生活動家たちの演説にも共通している。それは言葉の機械的な反覆であり、そのきれ目に、『異議ナシッ!』の合いの手が入るだけである。演説にひとを動かすものがないなら、運動も拡がるわけがない」(鎌田『ビラの精神』晶文社p.13〜14)


 もうずいぶん古くからそんなことは言われてきて、「官僚主義」だの「スターリン主義」だのという言葉がすでにある。
 なるほど組織を小さいままにしておくなら、自由で気ままで、そのレベルでの「生き生き」とした活力は出るだろう。そういう場所から「大組織の官僚主義」を批判することは実にたやすい。しかし、それだけでは、個々の活力が有効に結びついて、集中され研ぎ澄まされたときにうまれる、類まれな破壊力は出ない。

 現実に何か影響を与えようとするなら、結合するための組織がどうしても要るのだ。

 個人がますます自立し、自由度や独立性、成熟度を高めていくことと、これは矛盾しない。基底の部分で作用する「組織の力」という「近代」は、よりいっそう高い精度や機能、集中が必要になっていく。最近、佐々木俊尚『グーグル』(文春新書)や梅田望夫『ウェブ進化論』(ちくま新書)を読んでいても、ネットの世界においてさえ、表面や端末での自由さや気ままさ、独立性、成熟にたいして、中心核になる部分で起きていることは、グーグルのような会社の技術力の最強化――革命的ともいうべき「集中」や「精度」の高まりである。

 左翼は、個々の活力を結びあわせる組織を依然として持たねばならない。
 中央に無思想に従属するような思考・行動様式がもしあれば、それを捨てて自分の頭で考える個々の活力を高めよ――これはまったく正しい。しかし、組織がもつ、集中力や組織精度まで捨ててしまえば、その左翼組織には死が訪れるだろう。
 左翼は集中した組織をこれからも持つ。だとすれば、組織を動かすためのルーティーンや規則は絶対に必要となり、そこから必然的に「官僚主義」は、毎日毎日、あるいは毎秒毎秒、たえず発生していくだろう。
 健康な畑に雑草が生えるようなもので、それとたたかいながら、どう新鮮な感性を維持していくのかが、大所帯の左翼組織には求められる。なにか、それは「正しい」政治路線があるから生じないのでもないし、そうやってタカをくくっていれば、あっという間に、粘膜のように柔らかかった感性は角質化し、「官僚」化する。毎日雑草を抜くように、毎日毎日、毎秒毎秒がたたかいとなるだろう。

 はじめの話にもどろう。



ぼくの左翼魂をゆさぶる


 左翼、あるいは労働組合の方針文書、報告、発言は、ともすれば官僚的文書となる、とぼくは言った。

 今回紹介する浅尾大輔の報告文「『非典型』労働者の組織化、その可能性の中心」は、まさにその正反対をいく、ぼくの左翼魂を揺さぶる報告文である。
 結論を先に言っておくと、左翼や労組における「報告」とは、「呼びかけ」とは、このようなもの、本当に相手の心を動かすために、全身全霊で書かれた文章でなければならない、とつくづく思ったということである。ぼくはここで書かれた浅尾の現実に認識に全面賛同するわけではない。現実にたいしてあまりにも甘く、ロマンティシズムな側面を感じる。にもかかわらず、強く心を動かされる一文なのだ。

 浅尾については以前彼の書いている小説について紹介した
 彼はその後、国家公務員一般労働組合(国公一般)の書記次長をしている。そこでのとりくみを書いた、B5で8ページほどの報告なのである。
 「なーんだ公務員の、しかも労組専従かよ」と思うかもしれない。



霞が関に大量にいる不安定雇用の労働者


 だが、あなたは知っているだろうか。

 「例えば財務省や外務省などの正職員に加えて、いま霞が関で事務職員として働いている非常勤職員――大半は二〇代の女性で、さらには霞が関の官庁を仕事先に指定された派遣職員、委託職員」(p.28)がたくさんいるということを。彼女(彼)たちは、政府さえ、一体どれほどいるのか把握されていないほどにたくさんいる。
 「みなさんが失業したらまずハローワークに行って離職票を提出し、雇用保険の手続きをしますが、その窓口で働いている職員は、ほとんどが非常勤の相談員なのです」(p.29)。ハローワークに限らず、役所の窓口で「テメェら公務員はよぅ!」と怒鳴り上げられている人がいるとしたら、その怒鳴られている人は、「大量に解雇」される不安にさらされ、「交通費もボーナスも退職金もない、一年契約で使い捨てにされかねない」(p.29)人たちかもしれないのである。

 浅尾の仕事は、その非常勤職員・派遣社員を、労働組合に組織することである。



浅尾が解析した不安定雇用のメンタリティ


 浅尾は文士らしく、自分が非常勤職員の人から受け取ったメールを紹介しつつ、その人たちの「メンタリティ」を読者に提示してみせる。そして、彼女・彼らの20〜30代の生活様式も考察しながら、「正職員・公務員」という従来の国公の労組の方法論がまったく通用しないことをていねいに解きあかす。

「ある市場調査……を読むと、(1)朝七時に起床して、朝食を抜き、一〇分間の支度で家を出る、(2)新聞はとっていない、(3)毎日残業続きで帰宅は夜の11時、(4)テレビの電源は入れるけれど、見るのはインターネット、(5)寝るのは午前二時。そんな若者たちは『自分は社会性はない』と不安を抱えているという。まるで三五歳の僕の生活そのままではないか(笑い)、と思うくらいのリアルな結果です」(p.31〜32)

「彼女たちは、労働組合はおろか、『連帯』とか『団結』という概念を知らない、皮膚感覚でさえも知らない、――僕はよく言うのですが、学生時代の学芸会で演劇をやるくらいが、最後の協力し合う思い出じゃないかと思うのです。……〔中略〕……限界ギリギリの思いから労働組合と偶然に出会うというイメージです」(p.31)

「共同する経験もない、権利も法律も何もかも知らない、そして忙しい、そういう彼女たちが労働組合と出会うことで一気にすべてを学んでいくし、人間同士が協力し合って信頼することの大切さを経験していくのです。この変化をつくり出していくことは、オルグという仕事の醍醐味でもあるし、本当にドラスチック(思い切った)変化だと思います」(p.32)

 そういう人が、不当な解雇に遭う、あるいは上司からセクハラを受ける。
 そのとき、労組にめぐりあうが、その門をたたくまでに、そしていっしょに解決にふみだそうとするまでに、労組は激しくためされているのだ、と浅尾は言うのである。
 浅尾はじっさいにセクハラ被害にあってたたかっている女性職員の相談をうけたときのことを紹介している。女性側は、組合が本当に信用できるのか、目の前にいる(メールだが)浅尾が信頼に足る人間なのか、ギリギリまで迷って相談をしたのだという。



組織拡大とはなにか


 浅尾がそこから導いた問題は次のようなものだ。

「いま労働組合に問われているのは、『あなたの連帯感は本物か?』という問題だと思っています。言い換えれば、『労働組合の活動をしているあなたという人間を、果たして信頼できるか?』という問題です。僕は、組織拡大とは、まさに労働組合の信頼を再び回復する運動だと考えています」(p.33)

 浅尾は、そこから、相手を絶対に裏切らない、徹底してその困難に寄り添うという「思想」を問うていく。「全部抱えていく」(p.35)という、後述するが、本気でそう決意すればちょっと恐ろしいほどの決意を、浅尾はしていくのである。
 一見場違いな「若い相談者が身近に感じる服装や態度」についても浅尾は言及する。若い人は「見た目」でそれを敏感にかぎわける。自分と同じ言葉や感性を理解してくれるかどうかを、瞬時に。
 相談者を中心に活動を組み立て、それに徹底して寄り添うことを問題にするなら、本当の連帯は、そのような「細部」でも実は問われるはずではないか、というのが浅尾の問題提起なのだ。言葉だけの「連帯」を口にする、と浅尾は「団塊の世代」への不信をかくさない。

 こうしてラストで、具体的な活動方向として、労働相談における「見通し」の提示やブログの活用についてのべ、浅尾の報告は結ばれている。



反「官僚的文書」の見本として


 わずか2年しか組合専従の経験がない浅尾の、実に「生意気」な報告だと、読む人もいるだろう。ぼくも、コミュニストとして、身近で生活保護の相談の様子を聞く機会があるけども、浅尾のいうように相手の「全部」を丸ごと抱えてしまうというのは、本当にやろうと思えばとてつもない負担が被相談者にはかかってくる。自分が潰れてしまう。
 だから、「全部抱える」という浅尾の決意は並み大抵のことではないはずなのだ。それは、浅尾の主張する核心でありながら、しかしぼくが違和感をいだいた一番大きな点でもある。

 にもかかわらず、浅尾の文章は、何か得意げに教訓を語るというのではなく、不安定雇用の労働者に生活と感情に徹底して心を寄せ、その解決にもみくちゃになっている彼の姿勢や思想がはっきりと伝わってくる。ゆえに、「組織拡大とは、まさに労働組合の信頼を再び回復する運動だ」という彼の提起が、左翼である心をゆさぶるのである。

 左翼の活動、あるいは労働組合の活動は、もともと現実の困難をどう解決するかという、きわめてリアルなものから出発している。そこからいえるのは、きわめて当たり前のことだけど、人と人が共感しあったり連帯しあうという、感情の交流が本来「組織拡大」のコアにあったはずだということである。つまり、組織が大きくなっていくプロセスとは、本当は「楽しくて」、「面白いもの」、語弊があれば「やりがいのある」ものだと。

 浅尾の報告は、その原初の姿をクリアに浮かび上がらせている。ある意味、一面的だけども、確実に人の心に訴求する。
 それが見えなくなった、ただ数字だけを追ったり、生きた人間の生活から切り離された「政治情勢一般」を語るだけの文章はしばしば「官僚臭」を放つ。それでは人間は心を動かさないはずだ。


 『季刊 労働者教育』という雑誌は、ネットなどでは手に入りにくく、入手困難なものを紹介してアレなのだが、もし興味のわいた人は、「学習の友社」に電話(03-5842-5641)すれば入手できる。


 最後に冒頭に紹介した鎌田の一文を載せておく。「ビラ」を「方針文書」「呼びかけ」にかえても、ここでは同じことだ。

「たった一枚のビラで、状況を変えることができるだろうか。
 おそらくビラをつくるひとたちは、それを信じ、その決定的な瞬間における言葉をつくりだすために、日夜、奮闘しているのであろう。宣伝と煽動のエッセンスは、すぐれたビラにふくまれている。状況は的確な表現をまち、そしてそれを産みだす。ときが成熟すると、言葉はおのずから簡潔となり、破壊力を研ぎすます。論理と感性、認識と実践が統一される。その一瞬にむけて、ビラがつくられる」(鎌田前掲書p.9)

労働者教育協会報「季刊 労働者教育」
学習の友社発行 2006.4 No.123
2006.4.27感想記
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