『ヒカルの碁』再論

 ぼくのホームページを見たカンタさんというかたから、そのやりとりのなかで、次のようなメールをもらいました。

 ぼくとしては思うところが多かった文章なので、カンタさんの許可をえて掲載させてもらい、あわせてぼくの再論も以下に付記しておきます。

『ヒカルの碁』についての最初の感想は、こちら


カンタさんからのメール

※段落分け、句点、強調などは当研究所の責任でおこないました。


 紙屋さんは「『ヒカルの碁』の面白さというものは、「成長物語」は「成長物語」なんだが、実は、この「成長物語」をこれまでの少年漫画にないほどくわしく、段階的に描いたことではないかと思っている。」という風に書いています。

 読み返してぼくが思ったのは、もちろん「ヒカルの碁」は「成長物語」であり、類のないくわしさでもってその段階が描かれているわけですが、それを超えたところにもっと本質的なものがあるんじゃないか、ということでした。

 「成長」というものを可能にするのは、まずは表面的には佐為の存在です。

 佐為との出会いによって、まず塔矢アキラに火がつき、それが跳ね返るようにしてヒカルも真剣に碁をはじめます。この段階では佐為は碁の絶対的強さを示すものとして現われているように見えます。

 たとえばヒカルが塔矢アキラを目標と感じ始めると同時に、塔矢がヒカル(つまり佐為)に期待するものと現実のヒカルとのあいだに分裂が生まれることになり、その分裂が決定的に明らかになるのが、囲碁部の大会での二人の対戦です。

 ヒカル=佐為と対戦するために塔矢はわざわざ中学校の囲碁部の大会に出てくるわけですが、結局はヒカルが自分で打ち始めたため、塔矢は混乱と幻滅を味わいます。
 かつて自分を圧倒的な力で凌駕したヒカル=佐為と自分が対戦したヒカルとのギャップが理解不可能であったわけです。塔矢の幻滅を目の前にしてヒカルが覚えた悔しさは、自分が佐為ではないことの悔しさであり、自分も佐為のように強くなりたいという悔しさです。

 「佐為のように」とは、この段階では佐為が究極の強さを体現している存在、ある意味で碁の完成の位置を指し示している存在のように現われているから、それを超えることは不可能であると思えるからです(少なくともヒカルには)。

 直接的にはヒカルは塔矢の背中を追っているわけですが、その塔矢が追いかけているのはヒカル=佐為であるわけなので、つまりはヒカルも間接的に佐為という地点に牽引されているわけです。

 この佐為という地点が、まずは「成長」というものを牽引しているように見えるわけです。しかし、一見完成の地点にいるように思える佐為は、実はいまだ完成していない存在です。その佐為もまた「神の一手」というものを追求していまだ到達できていないのです。
 ヒカルが驚異的な速度で力を付けていくにつれ、佐為における未完成というものが次第に感じられてくるようになります。そのことは具体的には佐為を襲う曖昧な不安という形で現れま
す。永遠だと思われた自分に残されている時間は、実はもうあと僅かなのではないか――この危惧は、ネット碁において実現した佐為と塔矢名人との対戦のあと、確実なものであると佐為は確信しました。

 自分はこの一戦をヒカルに見せるために存在したのだ、これで自分の使命は終わったのだ、神の一手に到達するのは自分ではなかったのだ――佐為がいなくなったあと、ヒカルは強烈な後悔とともに徹底的な自己否定を始めます。この自己否定は佐為を絶対的な存在であったと想定することで生じるものです。

 つまり佐為は碁において完全な存在であったのだから、不完全な自分など存在しないほうが良かった、ということです。
 そしてヒカルは碁をやめてしまおうと決心しますここでヒカルはひとつの思い違いをしていますが、その思い違いとは、つまり佐為を絶対的な存在であったと想定してしまうことということです。

 というのも、佐為が佐為であったのは完成した強さを持っていたからなどではなく、つねに飽くなき欲望をもって「神の一手」を追求していたからであり、またその際限のない追及の足取りこそが、佐為という存在を生み出していたからです。その足取りが止まってしまった瞬間に、佐為もまた消えてしまいます。

 とすれば、佐為が消えてしまった理由は明瞭です。
 つまり碁の千年の歴史において「神の一手」の探求の足取りの中で、佐為という一人の天才の使命が自らの使命を終えたからです。
 言い換えれば、塔矢名人との一局をヒカルに見せるとともに、「神の一手」の追求が、ヒカルの使命へと転移したということです。

 それにもかかわらず佐為を絶対的な存在、碁の完成の地点に立っている存在であると考えてしまったという点で、ヒカルはまちがっていたわけです。

 そしてまた伊角さんに請われて、もうけっして打たないと決心した碁を打ったとき、そこに佐為の存在をはっきりと感じたというのは、使命を終えた佐為という人間をふたたび見出したということではなく、「神の一手」を追求し続ける碁の歴史のうちに命をつないでいた佐為の呼吸を、自らもまた「神の一手」の追求に参与することで、いわば歴史の共犯者として感じ取ったということなのだと思います。

 プロ試験を受けに来た元学生三冠の門脇さんは、ヒカル=佐為に圧倒的な力を見せ付けられたとき、茫然としながら囲碁を何年やっているのかとヒカルに尋ねたのでしたが、そのときヒカルは「千年」と答えました。
 これは単に佐為がすごしてきた年月をさしているのではなく、「神の一手」を追求する碁の歴史が経験してきたあらゆる新陳代謝の総体を指してのものでしょう。それゆえ誰かが「神の一手」を目指すとき、そのしぐさのあらゆる細部はこの「千年」という時の流れを知らぬうちに受けてとめつつさらに先へと展開させているわけです。


 歴史の根源から風を受けて飛び立とうとしている、そして永遠に新たに飛び立ち続けているパウル・クレーの歴史の天使のように、「神の一手」を追求する天才たちは、つねに何らかの形で碁の歴史の根源に触れるとともに、その瞬間に直線的な時間の流れというものを突き破って、垂直のほうに飛び上がり、そうしてたとえばヒカルははっきりと佐為の存在を感じることができるのだと思います
 こうした歴史の運動は、天才たちの苦悩や苦闘や際限のない切磋にもかかわらずけっして完成することがありません本因坊の桑原先生は、佐為の消失から立ち直ったヒカルの顔を
見ていいます。

「碁を打つには二人必要だということじゃ」

 「神の一手」とは誰か一人が到達することのできるものではなく、二人の天才の出会いのなかでのみ、ある奇跡的な瞬間にほとんど不可能な一瞬として浮かび上がってくるものなのでしょう。
 とすれば「神の一手」が現われるのは、ヒカルにおいてでも塔矢においてでもなくて、その二人の中間でしかありえません。この決して自分のものとはなりえないある中間の領域に「神の一手」を浮かび上がらせるために、天才たちは自分のすべてを
投じます。

 そうした終わりなき祈りのなかで、おそらくはその終わりなき運動そのものとして、はじめて「神の一手」は可能になるのだと思います
 というのも、「神の一手」が二人の対戦者の中間にしかありえないのだとしたら、二人が碁を打つのをやめた瞬間に、その中間に浮かび上がったはずの「神の一手」もまた消えてしまうからです。

 その一瞬に浮かび上がったはずの「神の一手」を定着させようと試みたところで無駄です。聖書に現われる神のように、はっきりと見出されうるのは後姿だけであり、人々はその痕跡をしかつかむことができません。すべての打ち手の中間においてのみ可能となる、ある無限遠点としての「神の一手」に牽引されるのが、それぞれの「成長」であり、それゆえそれは際限がありません。その気の遠くなるような運動のなかでは、あらゆるものが愛されることになります。
 というのも、ヒカルや塔矢だけでなく、「神の一手」とは、碁に触れるあらゆる人々の中間に、あるいは碁を取り巻いていながらも碁に触れないあらゆる人々の中間に浮かび上がってくるものなのかもしれないからです。

 それはいわば歴史の愛です。

 完成することのない歴史だから可能な種類の、それは愛なのだと思います。
 「ヒカルの碁」の、さまざまな場面に現われる苛烈さというものを包み込んでいる慈愛というのはこの歴史の愛なのだとぼくは思いますし、またこの歴史の愛というものがあるから、登場人物はそのつど勇気をもってまったく新しい一歩を踏み出すことができるのだと思います。

 この慈愛と、それを巻き込みつつも突き破っていく「神の一手」という無限遠点とのはざまで、「ヒカルの碁」という物語はつむがれていくのでしょう。



ぼくの返信メール

 メール、ありがとうございます。
 カンタさんの『ヒカルの碁』についての感想は、ひじょうに驚きました。


 というのは、わたしもほんとうはカンタさんのような角度で書きたいと思っていたのですが、なかなかまとまらず、すくなくとも、ヒカルの成長にわたし自身が萌えているだろうとおもったので、とりあえず、あのようにまとめてしまったのです。


 カンタさんのおっしゃった問題は、

 「囲碁の究極的、絶対的、普遍的な、いわば最強至上の強さ」(囲碁の究極)と、その高みをめざす「いかなるすぐれた個人の才能にも科せられている『限界』」とのあいだの問題だろうとおもいます。

 すべての人が「究極」(神の一手)をめざし、「究極」に近づくけども、どんなにすぐれた才能をもつ個人でも限界をもち、決してその高みには到達しえない。しかし漸近線のように無限にそこに接近している、という。


 この問題は、哲学では、人間の認識、人間の知性の「絶対」と「相対」の問題として似たようなあらわれかたをしています。

 マルクス主義の泰斗、エンゲルスは、
 かれの論敵が「自分は永遠の真理を見つけた」といいだしたので、それをあざわらって、次のようにのべています。(『反デューリング論』)

「思考の至上性は、きわめて非至上的に思考する人間の系列をつうじて実現される。
 それは人類の生命の無限の持続をつうじてでなければ、完全に実現されることはない。ここでわれわれは、当然に絶対的なものとして表象される人間思考の性格と、もっぱら制限された仕方でのみ思考する個々人におけるこの思考の現実とのあいだの矛盾に、またもや出会うのである。これは、無限の進行をつうじてはじめて、われわれにとってはすくなくとも実際上終わりのない人間世代の継起(連続)をつうじてはじめて、解決できる矛盾である」


 エンゲルスは、“歴史上の一個人が「これが永遠絶対の真理だ」といえる発見などできるはずはない。一人ひとりの歴史上の個人は、どんな知の巨人でも、限界をもっている。しかし、それは「歴史上のながい人類の認識の列」に確実に前進の1ページをつけくわえるし、それは人間の絶対知へむかっての限りない前進なのだ”といっているのです。

 エンゲルスの後輩にあたるレーニンは、これを
「相対的真理(歴史上の個々人の認識)は、絶対的真理の粒をふくんでいる」
といいました。
 個々人の限界のある知性は、限界があるから、ぜんぶ「しょうもないもの」なのかというとそうではなく、そのなかに究極的・絶対的・全面的・普遍的な認識につうじる粒がふくまれている、ということです。


 『ヒカルの碁』にもどれば、カンタさんのおっしゃるように、初期のヒカルと塔矢は、佐為に「囲碁の究極性」を見たのですが、これは、佐為のなかに「究極の粒」を見たわけで、非常にただしいのですが、同時に、佐為じたいも、やはり限界づけられた歴史上の一個人でしかなく、ヒカルと塔矢は、やがてその限界をこえて、「囲碁の究極性」へとすすんでいきます。
 囲碁の歴史の「長い系列」にくわわることによってのみ、ヒカルは「神の一手」の問題を解決することができるのです。したがって、

> 歴史の根源から風を受けて飛び立とうとしている、そして永遠
> に新たに飛び立ち続けているパウル・クレーの歴史の天使のよ
> うに、「神の一手」を追求する天才たちは、つねに何らかの形
> で碁の歴史の根源に触れるとともに、その瞬間に直線的な時間
> の流れというものを突き破って、垂直のほうに飛び上がり、そ
> うしてたとえばヒカルははっきりと佐為の存在を感じることが
> できるのだと思います

というカンタさんのご指摘に深く同意します。