ヨアヒム・フェスト
『ヒトラー 最期の12日間』



ヒトラー 最期の12日間 「映画『ヒトラー 最期の一二日間』が独裁者の破滅していく姿をきわめて人間的に描き出したことでドイツ国内のみならず欧米世界でも一種物議を醸している。圧倒的な数のソ連軍に完全に包囲されてもはや生き残るチャンスがないヒトラー、ゲッベルスその他の指導者たち、彼らの不安と覚悟、絶望とそれでも点滅するかすかな希望、怯懦と英雄的精神、こうした感情の交錯を描いていく手法は、まるで『アラモ』砦の悲劇みたいな印象を観客に与え、映画の人間ドラマがもつ同一視、一体化への吸引力から観客は逃れられないのではないか。こういう懸念は、真っ先にドイツ国内の少数派をなすユダヤ系の人びとから表明されている」(本書解説より/芝健介)


人間ヒトラー?

 本作にもとづいた同名の映画をみたぼくは、まず最初に、まったくこれと同じ印象をいだいた。

 映画はナチに対していかなる同情も賛美もしていない。むしろ、ドイツ国民を残忍に切り捨て、破滅に導くヒトラーの姿を的確にとらえている。
 にもかかわらず、ヒトラーや第三帝国の幹部たちという「人物」にレンズの焦点をしぼりこんでいくために、彼/彼女らの「人間」が否応なく浮き彫りになってしまう。相矛盾しあう多面的な人間像が彫琢されていくたびに、スクリーンの中のヒトラーは、ゲッベルスは、シュペーアは、無矛盾な単相の「悪魔」ではなく、善くも悪くも「血の通った人間」として生き生きと動き始めてしまうのだ。

 その「人間」ぶりは、映画の冒頭からはじまる。

 この映画の主人公格にあたる女性秘書官トラウドゥル・ユンゲが、数人の女性秘書官候補とともに、東プロイセンの「狼の巣」とよばれる大本営に呼ばれて、秘書としての面接をヒトラーから受けるシーンから始まる。
 ブルーノ・ガンツ扮するヒトラーが登場するシーンが、もういけない。
 「総統のお出ましだ」として画面は一気に緊張する。女性秘書候補たちは不安げに入り口を注視し、映画の観客もまた女性秘書と「一体化して」鼓動を高鳴らせながらドアに視線を集中させる。
 ぼくらにとってヒトラーはすでに映画をみる前から膨大な先入見を持たされた存在である。ちょびヒゲとテクノカットのような奇妙な風貌、「史上最悪の独裁者」「冷酷な殺人鬼」というレッテル……果してガンツの演じるヒトラーがそれに適合しているかどうか、観客は注視しているのだ。

 そしてヒトラーが登場。

 ああ、まったく。まったく違和を感じさせない。
 「あ、ヒトラーが入ってきた」と、この時点で作品世界の側へぼくらは連れ去られている。
 腰をややかがめながら、女性たちの手をとり、形式にこだわらずに言葉をかけるヒトラー。はじめからトラウドゥルが気になるかのような視線をおくり、彼女が「ミュンヘン出身」だと告げるとあっさり採用。部屋に入り、ただちに後述筆記のタイプをさせる。そして速すぎる口述にトラウドゥルがタイピングを投げ出すと、心配そうに近づいてきて「もう一度やろう」と“やさしい”言葉をかけるのである。

 ベルリンがソ連軍の重囲に陥り、ヒトラーが首相官邸の地下で味方の将軍や大臣たちを怒鳴りつけるシーンはこのあと始まるのだが、そのシーンからではなく、あるいは絶頂期の演説などのシーンからではなく、女性秘書たちにたいする「人間味」を強調するシーンから入るこの映画の導入はまことに作為に満ちており、「人間ヒトラー」という視点を初めからぼくらは“強要”されるのである。

 

「意図派」フェストの面目躍如

 フェストは、本書の「まえがき」で、従来の歴史学が「できごとよりも社会的諸関係をはるかに重要なものとみなし」、物語的手法やそれによる出来事の記憶再生を、「非学問的」「『通俗歴史』に堕する」として批判してきたことを苦々しく叙述している。
 フェストが批判している、こうした歴史学のもとでは、ヒトラーという「人物」への関心ではなく、社会的役割を担った時代精神のメガフォン、あるいは階級利害の人格化としてヒトラーを考える。人物や人間に照準が当らないヒトラー像は、通俗化された際に「悪魔」という単相・一枚岩のイメージに容易に転嫁しやすいだろう(ちょうど、ブッシュが描くキム・ジョンイルやフセインのイメージのようなものである)。
 これに対するのがフェストの歴史学である。ヒトラーのドグマと意志をナチズムとナチ体制にとって決定的なものとみなす「ヒトラー中心史観」は、ドイツでは「意図派」とよばれ、フェストはこのグループに分類されている。本書とそれにもとづく映画が「人間ヒトラー」を描いてしまうのは、このようなフェストの立場からうまれるものだ。

 したがって、「ドイツはユダヤ人大虐殺の歴史を取り繕い美化している」という「エルサレムポスト」紙(イスラエル)のような同映画にたいする酷評が生まれてしまうのは、偶然ではないといえるし、ぼく自身このような評価が生じてしまうことは「ありえてむべなるかな」と考える。

 映画でヒトラーを演じたブルーノ・ガンツは次のように弁明せざるを得ない。

「私の演じたヒトラーが人間的すぎるというのです。そういう批判をする人は、悪を表す分かりやすい記号、象徴のようなものがほしいのだと思いますね」(※)



映画としての高い水準

 ぼくはこの映画は映画作品としてはきわめて高水準にしあがったと思っている。
 ぼくが行った劇場では通路まで人がびっしり。映画の場面はといえば、「官邸地下」と「市街」の2パターンしかないのに155分、2時間半、観客はみじろぎもせず画面を見つめていた。観客の頭の影がまったく動かないのだ(ネット上の感想で舟を漕いでいたというおばさんの例を見かけたが平均的な観客の反応とは思えない)。ぼく自身、とても2時間半の作品とは思えなかった。あっという間にラスト。にもかかわらず、重量感のありすぎる濃密な後味。

 すぐれた映画ゆえに、ヒトラーやナチ幹部の「人間性」が浮かび上がり、そのためにこの映画が発する危険なメッセージに違和感を抱く人は相当数いるだろうと思う。「ああいう役をやるというのは、火と遊ぶようなものです」とガンツは自ら演じた役の「危険」さをそう表現している(※)。
 じっさい、ネット上には、“ヒトラーが人間的な面があることを知った”というナイーブな感想が発生してしまっていることには、苦笑を禁じ得ない。ガンツの名演、映画として高いクオリティが、このような感想をふやすという皮肉な結果を生んでいる。


 そのような危惧をぼくも表明しつつ、しかしこの映画が描こうとした中心は、ヒトラーの「実像」ではないと考える。それはあくまで別のものをめざしていくうえでの一つの手段にすぎない。



ひとつの国家の「滅亡」を客観的に描くのが主眼

 この映画および本書の原題は「Der Untergang――Hitler und Endr des Dritten Reiches」、すなわち『滅亡――ヒトラーと第三帝国の最後』である。
 そう。映画を見終わった後、体と精神に残るとてつもない「重量感」の正体は、人間ヒトラーをみたことではなく、「ひとつの国家が滅亡する」という事実の重さである。それはある意味で加害・被害という軸上の話ではなく、もっと冷徹な社会科学的視線だ。人物と出来事をドキュメンタリータッチで実像のままに描こうとするなかで、ある体制、ある国家が滅亡していく細部と全体が、生臭くぼくらに迫ってくる。
 フェストは本書(および映画)のテーマを、こう要約する。

一つの『死に瀕した』国、それが以下のページのテーマである。そこにいたった事情、それを理解するための鍵となる事情、それもまた話題になることは避けがたい」(「まえがき」より)


 壊滅する指揮系統。そのなかでも後継争いを演じようとする愚かな側近たち。あくまで国家意志を貫き通そうとする首脳とその微妙な崩れ。「神話」を信じ忠誠を誓おうとする者、「神話」を信じずとも国家の使命としての国民の保護に殉じようとする者。それを嘲弄するかのような戦争という奔流のような運命……。フーガのように織り成されて奏でられる事実は、連関をなして、「死に瀕した国」という全体像をつくりあげる。

 フェストは、このカタストロフを「挫折」とは見ず、ヒトラーとナチズムが「破滅への意志」をもっていたのだと描く。

「問題はむしろ、ずっと前から敗北することが分かっていたこの帝国に、その断末魔のあがきにいたるまで、一つのエネルギッシュな牽引力が作用していたように見えることである。その牽引力は、単に戦争を長引かせるだけではなく、文字通りこの国を破滅させることをめざしていた」(p.150)

「資料によって裏付けうるあらゆる考察を総合すると、ヒトラーを最後の瞬間まで支えていたのは、まさにとぎれることなく堅持された、この破滅への意志だったといえる。たしかにヒトラーの外見上の衰弱――腰の曲がった姿勢、足を引きずるような歩行、次第に疲労の度を深める声――は、あらゆる証人が一致して描いている。ところが実際にはその同じ観察者たちが、これと奇妙なコントラストをなすヒトラーの意志貫徹のエネルギーについても記しているのだ」(p.159)

 ヒトラーが未成年だった頃に見たワーグナーのオペラ『リエンツィ』の結末は、死と自己破滅を選ぶ物語だった。フェストは、ヒトラーが破滅的状況にいたるほどに、内面的には活気をとりもどしていったのだとする。

 フェストは、歴史上類をみない混乱に満ちた国家の滅亡の瞬間なのに、「少なくとも最終幕の主演者たちを見る限り、悲劇と呼ぶにはあまりに多くの献身と盲目的服従がみられた」(p.201)、「これはあらゆる概念、あらゆる責任を超えた盲従というほかない。この盲従はもはやいかなる原則をも認識させなかった」(p.203)という不思議が起きていることを指摘、「イギリスの歴史家A・J・P・テイラーは、かくも多くのドイツ人が思考を停止し、いわば最終ラウンドが終わった後でもなお、破滅した帝国の廃墟の上で戦い続けたということは『一つの謎』だと語っている」(p.86〜87)とものべている。
 そして、その遠因について、これはナチズム、ひいてはドイツ思想のなかに潜んでいる危険な特徴だとフェストはいうのだ。

「彼らは世界史的悲劇の終幕を演じる登場人物として召し出され、さらに高められるとさえ感じていた」「出口なき状況への偏愛は、はるか以前からドイツ思想の少なくともある一部に特徴的な性格だった」(p.87)

 このようなドイツ思想のなかにひそんでいたものが、ナチズムという政体においては「支配権を得て以来一貫して、『生か死か』の選択を迫るような危機を意図的に招き寄せ、それによって大きな高揚感を繰り返し作り出してきた」(P.88)とフェストはいう。ヒトラーは「多くの演説と対話の中で、『世界制覇か、それとも滅亡か』という二者択一を語ってきた。現実にはそのような二者択一は存在しなかった。彼の眼中にあったのは、単に、破壊のさまざまな形態にすぎなかった」(p.154〜155)。


“勝利できぬドイツ民族は滅びるのが相当”

 だからこそ、映画のなかでも本書でも、ヒトラーやゲッベルスは、敗北の危機に瀕したドイツ国民について吐き捨てるように侮蔑する。

「戦争に負ければ国民も終わりだろう。ドイツ民族がこの先、原始人のように生きていくために必要な基盤など考慮してやる必要はない。それくらいなら、そんなもの自分の手で破壊した方がましだ。なぜなら、この民族はみずから自分の弱さを証明したからだ」(ヒトラー)
「自分の妻が強姦されるというのに、男たちがもはや戦おうとすらしないような国民相手に、いったい何ができるというのかね」(ゲッベルス)

 勝ち抜けぬ弱者は滅びるのが相当だというわけだ。
 制覇の夢がかなわなかった今、ドイツ国民は徹底的に破滅するのがふさわしい。ヒトラーが出した「焦土作戦」指令(ネロ命令)は、単に戦術ではなく、滅びゆく運命にあるドイツ国民には、何も残さぬがいいという思想の体現だというわけである(シュペーアはこの命令を実質的にサボタージュするのであるが)。

 これこそが、本書と映画のテーマである。
 一つの国家の滅亡の瞬間、ナチス政体とヒトラーによる無窮運動の正体が鮮明になるのだとフェストは考えたのだ。だからこそ、彼はこの最期の12日間をドキュメントにしたのである。

「最後の時にヒトラーの決断を支えていた冷血、世界から離反した破壊意志、オペラ風の情念。これらの結びつきは、ヒトラーのきわめて特異な本質について多くのことを教えてくれる。最後の数週間、彼はそれまでにもまして世界から自分を隔離した。ヒトラーを生涯にわたって駆り立ててきたものの出所を、このときの行動ほど正確に照らし出しているものはほかにない。すべてがもう一度濃縮され、高められ、一つとなった。すなわち世界に対する憎悪、年少時から身につけた思考パターンの硬直性、想像を絶するものへの愛着。それは、すべてが水泡に帰す以前には、ヒトラーのあいつぐ成功を支えてきたものだった」(「まえがき」より)


 フェストが、ヒトラーだけでなく終末期のナチ・軍幹部の一人ひとりの行動を感情のヒダにいたるまで詳細に明らかにし、事件の再構成をしようとした意図はここにある。それは冷徹な機械のように作動して一つの国家の滅亡というスペクタクル――それもかなり重量のある――をぼくらに提示する。それゆえに、ぼくらはこの映画を見終わった後、別に薄っぺらな「反戦の決意」をするでもなく、ヒトラーの人間味に「涙」するでもなく、ただひたすら、押しつぶされそうな事実の重さだけを、まったく価値中立的に引き受けることになるのである。



※しんぶん赤旗2005年7月8日付

『ヒトラー 最期の12日間』
ヨアヒム・フェスト:著 鈴木直:訳
岩波書店
2005.8.2感想記
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