近藤ようこ『独りの夜も長くない』

 近藤ようこの描く「今どきの若者」は、どうしてああ不格好なのか。

 「若者」ではない。「今どきの」がつく瞬間、もっといえば、つかせようとする瞬間に、近藤ようこはそのような失敗を犯す。


 『あけがたルージュ』は、スナックのママとその娘という母娘の話だが、娘のほうは女子高校生である。しかし、読んでいて、娘にはいっこうに現代の女子高生としてのリアリティが出てこない。近藤ようこが高校生だったころの高校生が、タイムスリップをして制服を借りて着ているようだ。


 経済的な自立を果たしながらも心が自立できない独身者男女の群像を描いた『独りの夜も長くない』でも、ふだんは地味な事務員だが、休みには出会い系サイトで売春をくり返すという女性・三原玲奈が出てくる。

 だが、まず、描写で肩を落とさざるをえない。
 「お待たせ! キャンディでーす!」と登場した三原は、水商売の女性のようにも見えるし、特攻レディースのようにも見えるし、母親の化粧品を勝手に使った女の子のようにも見える。


どうしたんでしょうか(近藤ようこ『独りの夜も長くない』より)


 つぎに、真情を吐露するセリフでさらに萎える。

「こんなわたしにお金をくれてセックスしたいのかと思うのと、なんだか自分の価値があがった気がするの」
「それは間違ってるよ!」
「わかってます! でも、これ以外にわたしを欲しがる人なんていません。先生だって学校の地味なわたしには興味がないでしょ? だから! 休日ごとにこういう服装で男の人に会うんです! ほんとのわたしを知らない人なら、やさしくしてくれるから!」
「でも……もっと自分を大事にしないと……(登場人物の心の声:あああ、もっと気の利いたセリフを言えないのか)」
「先生にはわからないんです! わたし寂しいんです!」

 そして「……わかるよ……ぼくだって寂しい…君だけじゃないよ」と告げる「先生」の胸にとびこむのである。

 うーん、こう書くと、いっそう困った漫画のように思えるなあ。

 『心の迷宮』のなかでも、ご乱行の日常が続き、やけっぱちで処女を捨てるという若い女性の話が出てくるが、これもどうも。


 石坂啓が少し前に描いた『セカンドベスト』でも、やはり同じような高校生の造形がなされている。ぼくの人生に大きな衝撃をあたえた『安穏族』で、あれほどみずみずしい青春を描いたのに、もはやこの世代を表現する力は石坂には枯渇してしまったのか、とひどく落胆した記憶がある。

 そこに共通するのは、「『現代の若者』は一見理解不能にみえるが、その内面には不安や寂しさや依存が本当は支配している」という理解である。
 その理解の是非はおいておこう。

 問題なのは、そうした理解を、作品に外側からかぶせていることなのだ。

 それは単純に「もうその世代ではないから」という問題ではないと思う。(もともと『独りの夜も長くない』で売春をしているのは、高校生ではなく、23才の女性なのだが)
 たとえば安野モヨコの『ジェリー・ビーンズ』を見てみるがいい。
 安野は、たしかに近藤よりはいまの高校生や中学生に近い世代ではあろうが、それでも、そこからは大きな隔たりがある。
 しかし、主人公のマメに横溢するエネルギー、逡巡や不安は、たしかにいまの高校生や中学生のものだと読む者はだれも疑わぬであろう。いや、そのとき読者は、マメという形象が高校生らしいかとか中学生の造形として成功しているかどうか、そもそも疑問さえもたないであろう。
 「今どきの若者」というカテゴライズはどこかに消え失せ、いや「若者」という範疇さえなくなり、読者は夢、創作、友情、恋愛、ライバルといった普遍的な物語を味わうことができる。

 内的に描破することと、外側から「解説」をかぶせることとの間には、大きな落差がある。


 「関係」を、仕種や言葉、そして絵によってたくみに表していくという、近藤が他の箇所では放っている表現の光彩は、「現代の若者」のところにくると、とたんにその輝きを失う。

 『独りの夜も長くない』は、全編が「若者たち」の話である。
 しかし、冒頭にのべた三原玲奈の「援助交際」についての描写をのぞけば、とりたてて「今どき」ではない。少なくとも戦後民法のもとでの日本の家族にとって普遍的な、依存、確執、自立の物語である。それを「結婚時期」という瞬間で輪切りにしたために偶然に「若者」たちの物語になったにすぎない。そういう意味では「若者たち」の物語でさえない。だが、安野モヨコのときと同様に、読みすすめていくうちに、それが現代の若者の造形としてよくできているかどうかなどということは、どうでもよくなる。
 
 三原玲奈の「援交」の描写だけに失敗したのだ。

 
 「援助交際」という名のオヤジ買春は、右派にとっても左派にとっても、発言意欲を刺激する現象であるらしく、右派にとっては人権意識の肥大化の帰結として、左派にとっては商品社会の極限化の末路としてというアプローチの違いはあるにせよ、しばしば、時代の象徴的な現象として語られつづけている。語りたいのだ。
 近代家族という器の不安定さをしつように描きつづける近藤も、そうした欲望を押さえられなかった一人であろう。

 だが、そこにあるのはむしろオヤジ世代の病理であって、その窓から「現代の若者」のほうを眺めようとしても、おそらく無益な結果に終わるだけであると、ぼくは考える。

 大好きな漫画家の一人なので、あまり不用意なものには手を出してほしくないのだ。



 


小学館ビッグコミックスペシャル
2003.12.21記
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