ホグベン『洞窟絵画から連載漫画へ』

※とあるメーリングリストへ投稿したものを補正・加筆しました。





 まず全体についての理解。

 洞窟絵画、暦、文字、数字(計算)、印刷、共通語、印刷美術、漫画、映像……という具合に、通貫したテーマをもうけずに、コミュニケーションの歴史をまさにありのままの歴史として振り返ろうとしている、というふうに感じました。

 もちろん、そうしたなかにも、ところどころに共通したテーマを流したがっていて、それが「絵画(視覚)的手段をもちいたコミュニケーション」だろうと思います。「絵画的コミュニケーション」に、さまざまな障壁をのりこえる可能性をみいだし、核時代にふさわしい世界連邦の一助としたい、というのがホグベンのねらいではないでしょうか。えーと、全体のトーンとしては「絵画的コミュニケーションのコミュニケーション力の高さ」を随所で言いたいんじゃないかと思うがどうでしょうか。


※これについては読書会で「反撃」というか、異論がでて、「暦、文字、印刷というのは、たしかに視覚的コミュニケーションをこえるものだが、それまで一対一、たとえば対話のようなものをコミュニケーションだという理解があったとして、ホグベンは初めて、社会とか広く第三者のなかでのコミュニケーションを提起したというふうにはいえまいか」といわれました。
 なるほど、それはそれで整合性がつく説明だ、だからホグベンのこの著作を「マクルーハンの先駆」という人もいるのか、と少し合点がいきました。

 もしそうだとすれば、として話をすすめます。

 ボイジャーのなかに乗せたのも、男女の体の絵とか、地球の太陽系における位置図とかだったと思いますけど、まったくの異星人にたいするコミュニケーションの手段は「絵画」だったように、視覚的手段こそ文字のかなりの部分をすばやくうめてしまうコミュニケーション手段だというわけです。

「学校は一年で修得できることを十年もそれ以上も費やして学ぶ精神の屠殺場であり、……精神がことばという餌を与えられる場所である」「何ものも、はじめに感覚にないものは、知性には存在しない。もしも感覚が事物のちがいをよく理解するように十分訓練されていれば、それは、すべての知恵や賢明な雄弁や聡明な一切の生活行動の基礎を築くのと、じっさいはおなじである。……そこで諸君は、新しい学校の参考書、すなわち、世の中や生活行動のあらゆる基本的なことがらをあらわした絵や目録に接するわけである」というコメニウスの引用をするホグベン(p.209〜210)。

 わたしは、以前、「NHKの『映像の世紀』とかいろんなテレビでの番組とかって、精神や思想形成にどれくらい重要なんでしょうね」と、ある友人にたずねたことがあります。
 テレビ番組って、あるテーマについて、けっこう手際よく全体像がわかったりしますよね。こっちが本で理解するのに、もたもたもたもたしているのを、さっくりと解説しちゃったり。「ああそういう話だったのか」と思うことはしばしばあります。
 じゃあ、本を読むなんて、あんまし要らんのではないか――
 本読みとしてはそういう不安にかられるわけです。
 その友人は教養主義者らしく「基本的には(映像っていうのは)見なくてもいいものでしょう」と答えたように記憶しています。

 しかし、わたしは、『大国の興亡』を学ぶときも、池田理代子の『栄光のナポレオン』を読んだり、学習漫画を使ったように、その核になるイメージをつくるために視覚的手段を使いました。そうすることは、ホグベンが強調するとおり、実は精神のコアを形成するほどの大きな力をもつんじゃないでしょうか。
 言葉による概念操作というのは、実は、その上に、薄〜く貼ついているだけではないかとぼんやり思っています。あー、こんなことをいうと、教養主義者除名でしょうか。

 以上が全体にかかわっての話です。


 つぎに、各章について。興味のある章のみとします。

 第1章ですが、ここで洞窟絵画と「トーテム」についてのべられています。
 ホグベンは、トーテミズムと氏族の出現が一体のものだという説にたって、狩猟をする主要な対象動物をそのトーテムに選び、それが氏族の名前となり、かつその動物の行動に適合した季節の星座にトーテム動物の名前がつけられる、とのべています。

 ここでは、セミョーノフ『人類社会の形成』(法政大学出版局)を参考に少しくわしくのべておきます。

 セミョーノフは、このなかで、トーテミズムは、氏族(集団内の婚姻をタブーとした集団。原始共産制社会)よりもさらに古く、無規律性交の時代に出現しているとのべています。ま、それはどうでもいいんですが。
 で、セミョーノフは、ブッシュマンがこれから狩ろうとする動物のかっこうをして狩りをするという例を紹介して、対象動物と自分たちとの一体化がおきる、というのです。狩りのあとで対象動物の毛皮をぬぐことで「人間」になるとしたら、逆に対象動物たちも、毛皮をぬぐことによって「人間」になる、という観念がうまれます。そしていつも狩る動物は食べ物になることによって、自分たちの血となり肉となり、いっそう一体のもとして感じられます。つまり、狩られる動物は自分たちと同じ人間なのだ、と。なお、セミョーノフは、各地の遺骨の比率をしらべ、多くの遺跡でほ、だいたい一つの主要な狩りの対象動物がしぼられてくる、といいます(例:イリスカヤでは60%が野牛、周口店では70%が鹿、チョームナヤ洞窟では75%が熊)。
 エンゲルスが『家族・私有財産・国家の起源』で観察したイロクォイ族は、次の8つの氏族にわかれていました。「熊」「狼」「ビーバー」「ウミガメ」「鹿」「しぎ」「あおさぎ」「馬」。まさにトーテミズムですね。
 セミョーノフは、こうしたトーテム動物の豊穣をねがう「インティチウマ」と、そのトーテム動物を殺害し試食する「食獣祭」(例:アイヌの熊祭り、クリスマスでの食獣)という相矛盾する傾向について、食獣祭のなかには「殺害」につづいて「復活」の要素があり、動物と自分たちとの性行為の模倣の踊りがあることに注目し、両者は矛盾しないと主張しました。
 この時期に、人類は「摂食タブー」すなわち食人習をタブーとしたため、自分たちと同一であるトーテム動物も食してはいけないというふうにしたが、それでは食べ物がなくなってしまうので、「象徴的に食べることを拒否する」という道をえらんだわけです(トーテム動物をタブー視、神聖視する)。
 さらに、この時期の人類の「性=生産タブー」(狩猟とその準備の時期は性生活をひかえる)が生まれ、狩猟期の終了とともに、その獲物を大いに食べることと、性交を一体にした「乱婚オルギ祭」がはじまります。狩猟した動物を供食し、かつ乱交した祭りのあとの受胎は、そのまま自らと一体のものである動物の繁殖を意識させたのです。
 ホグベンでは、トーテム動物の絵をかくことは、氏族制とむすびついており、それはセックスしてはいけない氏族員(すなわち同じ氏族員)のマークでした。
 セミョーノフにおいては、むしろ食べることとセックスすることが渾然一体となった対象の象徴が、トーテム動物でした。


※これも読書会で意見が出て、「通説は、氏族制とトーテムをむすびつける議論で、主要な狩猟動物がそのままトーテムになるという説明は乱暴すぎる」と批判されました。たしかにセミョーノフ自身も、「通説は氏族制をトーテムを結び付けるものだ」と認めています。批判者の話をきいて、なるほどセミョーノフの立論は甘いなと感じました。



 第4章(と、第6章の一部)ですが、「インド人とアラビア人とは、ことばで表現するレベルで、計算の規則を伝達した」(p.130)ものの、「全く言葉だけの表現にすぎなかった」(p.186)。つまりごく簡単な演算を例にとると5×3=15、というのを、「5を3つたすと15になる」と表現することです。さらに複雑になって、ab/k=6(a+c)/7hp……などになっていくわけですが、それをこうした代数記号ではなく、言葉で表現していたのです。けっきょく、ゼロを発見し、原理を創造すること自体は、およそ数学を発展させる上では革命的なできごとだったわけですが(それまで3桁の演算すらたいへんな困難をともなった)、そこで力つきたのです。
 「記号的代数学」は、「多分西欧の商人の会計室や倉庫で生まれたものであろう」(p.187)。
 この問題は、経済学では(非常に長い目でみて)現在生起しつつある問題だといえないでしょうか。
 マルクス経済学では、マルクスの『資本論』の叙述、とくに冒頭の価値形態論は、一見すると何度も何度も同じことをくり返し、しかも非常に難解な言葉で論じているように見えます。
 しかし、そういうなかで、たとえばマルクス経済学者のなかでも置塩信雄氏などは、そもそも叙述を簡略にしたうえで、数理によって表現できないかという試みをたえずおこなってきました。
 むろん、数式化することによって、質や歴史が捨象されてしまうわけで、それは問題じゃないか、という議論もあるわけです。


※これについても読書会で政治学をやっている人が話題を提供。恥ずかしながらぼくは知らなかったのですが(法学部出身のくせに)、アメリカ流「政治科学」ではもう主流は数理化の方向で、ある国がどういう政治の傾向をもっているか、なんていうのを、数値化してグラフに落としている論文を、ちょうどそのとき彼はもっていたので、ぼくにみせてくれました。うへえ。世の中そんなことになっとるんかい。



 第5章と第7章については、ブラセル『本の歴史』を参照しました。くわしくは、こちらをごらんください。

 印刷技術の爆発的な拡大は、準備されていた技術、用意されていた資本、という供給側の問題も重要なわけですが、「グーテンベルクの製品に対して市場を提供する、半ば読み書きのできる人員が、すでにかなり多くいたことを意味する」(p.150)という点が重要ではないかということです。
 ホグベンは、この背景に、15世紀直前において、「羊毛取引、鯡取引、香料取引で、莫大な帳尻差額を残す商人がいる。長い大洋航路を乗りこえて、香料取引の積み荷を運ぶために、渡海便覧に頼らねばならぬ水先案内人がいる。職人の親方や貿易商人が、これまでは地主層にとても近づけなかった快適な家庭生活の利便にあこがれを持ちはじめた都市と、昔ながらの農村との間の、産物の交換にからまりあって、荘園収入の勘定や訴訟が、どんどんふえてゆく」(p.150)という事情を紹介しています。
 つまり商業ネットワークの発展によって、文字を必要とする機会が増大したことを指摘しているのです。
 「今や窓を持った、という事実こそは、読み書きが半ばでき、比較的富裕になって、子弟に一通り読書算数の術を生齧りさせようと古典文法学校へ送りはじめた商工業者の侵攻階級のあらわれたことを、はっきりしめしている」(p.154)
 ミケル『中世の都市生活』(東京書籍)では、次のようにいっています。「(中世ヨーロッパでは)金持ちで、さらに子供に高度な教育を受けさせることのできる人や、才能があって教会が聖職者にしたいと思う子供は、中学校(コレージュ)で学びました。……商業で得た利益、都市にもたらされた富などが、この学問に対する関心をいっそう駆りたてるようになりました。……諸都市は、学校や学業に資金を出しましたが、これは学生に対し神学以外の教育をすすめていたのです。こうして各地に法学や医学の学校ができました」。
 けっきょく、印刷術の拡大は、こうした商業の発展がなくしては絶対に不可能でした。

 第8章は、待ってました、といいたい分野。
 アメリカの新聞連載漫画「ディック・トレイシー」における「フラトップ」の死にたいして、愛読者から花輪がとどけられたという話は、『あしたのジョー』における力石のリアル葬儀を思い出させますし、「漫画の感情的なアピールは、欲求の満足である」(p.234)という話をきけば、漫画というものは変わってないなあと苦笑するわけですが(ただし、この欲求の鏡である、という面は漫画の特質ではないし、筆者はそこに注目しているのではない、という言明があります→p.249)。

 ホグベンが注目するのは、「それが印刷された言葉の競争者として、絵画のもつ驚くべき大衆性をもっているからである」(p.250)「特殊な抽象能力を備えた一握りの人々にしか伝えられぬたぐいの知識を、視覚的方法は、極めてたようなこどもやおとなにはっきりと伝えることができる」(p.251)という部分です。「近代の新聞は大衆に奉仕し、大衆がことばよりも、絵を好むことを発見したことから、漫画ははじまった」(p.235)「人類の歴史で『もっとも驚くべき教材』の一つ」(p.236)。

 たしかに、たちまち民衆の心をわしづかみにしてしまった(たとえばあっとういまに聖書などを追い抜いた)ことは、ホグベンがこの分野に大きな注目をはらった正当な理由だと思います。
 これは、あっさりとテレビや映像によって乗り越えられていってしまった課題なのかもしれませんが、それでも、「学習漫画」「政治漫画」という領域には、もっと開拓すべき大きな領域が残されているようにも思います。
 すでに一時期、「学研のひみつシリーズ」や「歴史学習漫画」はかなり開花したと思うのですが、この手法をなぜ文部科学省は正課に取り入れないのでしょうか。人間の認識が一面的に進化していく以上、デフォルメに最も役立つ、「漫画」という方法こそ、さまざまな用途があると思うのですが。最近の「もえたん」の試みはこの延長戦上にあると思います。
 また、政治漫画をもっとも駆使する政党は、いまのところ公明党です。しかし、これが政治説得力をもつかどうかは疑問です。その点でも、政治において洗練された漫画文化がない。
 この開発は、たとえばビデオ教材、インターネットの画像教材などとあわせて、ホグベンのいう、視覚的衆手段による識字の向上や世界連邦的コミュニケーションに絶対役立つというふうに思うのですが。

 だいたい、以上です。

 あと、何がかいてあるのかさっぱりわからないところも、たくさんありますが、一部を指摘しておきます。たとえばp.283の説明は意味がわかりません。p.302〜303も、わけわかめです。p.184〜p.185は、個々の文はわかるものとわからないものがあり、わかるものも、なんでここにこんなことが書いてあるのかその位置付けがよくわかりません。p.123〜124あたりも、数学が苦手なわたしとしては頭が爆発します。

 もし、説明できるかたがいたら、メールでおねがいします。

 
 


『洞窟絵画から連載漫画へ――人間コミュニケーションの万華鏡』
ランスロット・ホグベン著
寿岳文章・林達夫・平田寛・南博訳
岩波文庫
2004.6.11感想記
メニューへ