二宮厚美『保育改革の焦点と争点』




厚労省保育「改革」の全体像が知りたい!



 娘を通わせている保育園には「運動委員会」があって(正確には園にではなく「父母の会」に)、署名運動を実に旺盛に展開する。左翼であるぼくなどはもう「劣等生」の一人で、ふつうの家のお母さん、お父さんがガンガン署名を集めてくる。今回も1家庭60筆が目標である!

 さて、そんなわが園でいま集めている署名は、厚労省がすすめている保育制度「改革」に反対する署名だ。対抗的政策要求として、予算をふやして認可保育園をふやせ、ということをかかげている。

 後者の要求(認可保育所をふやせ!)はとてもわかりやすい。しかし、前者(厚労省の保育「改革」やめよ)、つまり運動の焦点であるこの問題はとてもわかりにくい。その「改革」ってどんなものですか、というのはなかなか一言では答えにくいものなのだ。

 運動側がつくるチラシを読む。簡単な学習会には参加する。問題点はあれこれわかるのだが、全体像がよくわからない。とくにぼくのような人間だと、財界側がどのようなものを究極的にめざしているのかがぜひ知りたいと思っているのだが、チラシや学習会ではそこまで応えたものはない。一番くわしかったのは、保育園ですすめられてとっている月刊誌「ちいさいなかま」の中にあった特集だった。これは親にとってこの「改革」が何をひきおこすかを書いていて、宣伝としては大変ポイントをついているものだった。
 しかし、「改革」側の意図、全体像にまでふみこんだものではなかった。

保育改革の焦点と争点  その点で、この本は抜群によかった。こういう本を待っていたし、自分が左翼であり、かつ子育てをし、保育の運動(の端くれ)にもかかわっている人間でありながら、この問題を避けてきたことを反省し、この本を開くことにし、この本を読んでよかったとつくづく思ったものである。
 保育園に子どもをあずけている人はぜひ読むべきだと思うが、保育園に入れていない人は関係ないかというとそうではない。端的にいって、新自由主義派のねらっている社会保障「改革」の全体像がつかめるし、民主党政権のうちだす政策もこうしたものとどれくらいの距離にあるのかがつかめるようになるのだ。

 本書は4章からなる。




制度面からの特徴付け



 第1章は厚労省がめざしている「改革」を親や子どもの実態からではなく制度面から特徴づける。運動のビラなどだとどうしても親や子どもにとっての影響をすぐ言わないといけないので、制度にかんする抽象的な話はあまりわからない。むろん、ビラなのでそれでいい。しかし、運動側はもちろん全体像を知っておかねばならないのだ(もっといえばこれは運動側からの本だから、「改革」派の主張そのものにもふれねばならないのだが)。
 制度面から話をしているので、読む人によっては、かなり抽象的で行政チックな話をしているように思えるだろう。しょうがないじゃん。退屈せずに読むのはたしかにつらい、という人がいても不思議はない。
 しかし、ぼくにはここが新鮮だった。
 二宮の説明のキモは、社会サービスの提供の仕方を、現物給付型と現金支給型にわけて、前者の代表例を医療保険、後者の代表例を介護保険だとしてその違いを説明していくというものである。
 行政側がサービスをまるごと買い取って国民に提供するのが前者であり、後者は国民が個別にサービスを買う(そして行政はその買取費用に補助を個別に与える)というものである。
 前者が後者へかわることは単なる手続きの違いではなく、制度の考え方そのものが組み換えられてしまうことを意味する。後者は自由選択、直接契約、応益負担という原則にもとづくことになる。これは市場原理がかねそなえている原則である。つまり現物給付型から現金給付型への転換が、市場化のうえでどれほど親和的な転換なのかがよくわかるのだ。
 この転換によってなぜ保育所探しの困難化(自己責任化)、保育料引き上げ、格差のもちこみなどが引き起こされるのかが制度面からクリアになる。
 ぼくの娘のクラスの保育士が学習会のときに、「まあ一言でいえば保育制度を介護保険みたいなものに変えてしまうってことなんですよ」と説明していたが、これは急所をついている。

 個人的には長年の疑問だった保育の「措置義務」と「実施義務」のちがい、その改変によって90年代後半になぜ保育園の民営化、民間委託がすすんだのかも理解できた。




新自由主義派の「改革」と厚労省「改革」の違い



 第2章は「保育制度転換の背景と真のネライ」。
 この章はもともと財界側と政府側がどのような政策目的で「改革」をはじめたのかがわかりやすく描かれている。
 ポイントは、新自由主義派の求めている「改革」と、現在厚労省がすすめている「改革」に見かけ上ズレがあり、それが話をややこしくしていることをふまえているということだ。本書ではまず前者、むきだしの新自由主義「改革」の全体像を明らかにすることで、厚労省(の御用学者)がすすめている「改革」がそこにどれほど近いのか、そして原理的にはまったく同じものになってしまっているのかを明らかにする。
 これはレーニンが『唯物論と経験批判論』でやった方式で、まずむきだしの主観的観念論者の主張を提示して、マッハ主義がいかにそれと「同じ」ものであるかを証明していくやり方である。
 新自由主義派の方式は結局バウチャー方式に収斂するものであり、厚労省「改革」の利用者補助方式はこれと同じものになってしまうのである。
 この章で面白かったのは、新自由主義派とは一線を画する体裁をもっている厚労省側の主張は、予算をふやして認可保育園をふやしていくことで対応すればよく、制度原理的にはなんら現行制度を解体してしまう必然性がないことを、二宮が暴いていることだった。これはなかなか痛快であった(保育運動関係者にはすでに痛感しているところであるそうだが)。




「準市場化」批判



 第3章「保育の準市場化による福祉国家の変質」は、前章がむきだしの新自由主義派の「改革」論の検証であるならば、ここは厚労省側の「改革」の検証である。とはいっても、すでに「改革」そのものは1章で検証されており、ここで検証されているのは、「準市場化」というスローガンの持つ意味の検証である。
 厚労省は「私たちは新自由主義派とはちがいますよ」ということになっているから、福祉国家的なものをかかげたまま「準市場化」をとりいれる、という主張をすることになる。これは欧州などで「昔からの福祉国家はだめだ」といって福祉国家が変質していった歴史に重なるものがあり、そういう意味で福祉国家と市場化の関係を検討していく章でもある。
 福祉国家への攻撃と解体は、究極的には(1)ルール・規制の廃止、そして(2)現物給付原則の現金給付化、その(3)現金給付の低水準化と抑制ということになる。(1)と(3)は攻撃されたさいにはとてもわかりやすいんだけども、(2)は重大な転換なのに、気づかないことが多い。本書はそこを暴く役割をもっている。
 この章ではハーシュマンの「Exitとvoice」の選択の話が面白かった。何かの改革をさせようというとき、この二つのやり方があるという。ダイエーよりもイトーヨーカドーにというのはExitの選択で、学校でPTAでモノを言いたいというのはvoiceの選択であるが、前者だけを強調していくと後者が弱まっていくというものだ。保育という分野での改革においてはExitではなくvoiceが大事ではないかという話。




第4章の論立てはおかしい



 最後の第4章「コミュニケーション労働の専門性に根ざす現物給付原則」はタイトルのとおりで、保育労働などのコミュニケーション労働の専門性が現金給付原則になじまず、いかに現物給付原則でなければ保障されないか、ということを論証している。

 しかし、ぼくはこの章の論立てに不満がある。

 二宮はマルクス経済学のタームや体系になじませようとしすぎて、無理をしているのだ。
 まず抽象的概念の問題から批判させてもらおう。
二宮は、使用価値は質であり、交換価値は量であり、保育「改革」においては使用価値=質から交換価値=量への転化がおきているという。しかし、こういう「使用価値=質、交換価値=量」という把握は一面的である。たとえばパン1個が2個になったとき使用価値は2倍に増大している。食欲を満たすモノが2倍になったんだからね。使用価値にはこのように本質的な点で量的な要素がちゃんとある。もちろん同時に(生産条件が同じなら総量での)交換価値も増大している。マルクスも『資本論』の中でこうした変化について、たとえば機械の生産性があがって生産物が2倍になったら、使用価値が2倍になった、というような形で、繰り返し述べている。ちゃんと量的な増大として把握しているのだ。これは別に、質が量になったとかそういうものではないことはすぐわかるだろう。実に自明のことだ。こうした「使用価値=質、交換価値=量」といった把握は最近でも弘兼憲史・的場昭弘『知識ゼロからでもわかるマルクス経済学』のようなものでも披露されているが、粗雑な理解というほかない。
 二宮がこんな変なことを持ち出すのはなぜかといえば、新自由主義派が保育を「単純労働」としてとらえ、量(時間)によって切り売りできるものにしようとしていることを批判したいがためだ。だが、それをこうしたマルクス経済学のタームを無理に使ってやるとおかしなことになる。

 周知のとおり、マルクスは商品に支出された労働が単純労働でなければカウントできないとは一言も言ってない。複雑労働は単純労働の倍数として計算されるというのがマルクスの考えだ。だとすれば仮に保育が単純労働ではなく複雑労働であったとしてもそれ自体としては、その商品(保育サービス)を交換価値として計測できないものではない。

 二宮がコミュニケーション労働の複雑さをこの章であれこれあげているが、それはそれ自体では商品化できない根拠にはならない。ビジネスマンにいわせれば、自分の営業のための労働がいかに単純に時間などでは計れない、微妙なコミュニケーション労働によって成り立っているかを別の言葉でもっと雄弁に語ることができるだろう(ホワイトカラーエグゼンプションはそこにつけこもうとしたのであるが、労働者の求めていたものは「だから残業代はいらない」ではなく、「その分もちゃんと評価してよ」という点だったことには資本は気づかない、気づけないでいたのだ)。
 そうではなくて、コミュニケーション労働の微妙さ、全人性があるがゆえに、1日のなかで保育サービスを時間で切り売りしてしまうと「保育」という使用価値が実現できなくなり、単なる「託児」になってしまうことがここでは問題のはずである。だからこそ保育のような社会サービス(という商品)は行政が丸ごと買って現物給付するほかない、ということがポイントになるのではないか。
 たとえていえば、8時間の演劇のチケットを1分単位で切り売りするようなものだ。チケットを売る側は「どうせお前らは出演しているキムタクの顔がナマで見られればそれでいいんだろ」とタカをくくるようなものである。それはもはや「演劇鑑賞」ではなくて「キムタク拝顔」だ。

 まあぼくのこの演劇のたとえが妥当かどうか別として(笑)、この章で二宮の主張は正しいのだが論立てがおかしいのである。

 それにしても新自由主義派はなぜ「保育ではなく託児をサービスすればよい」というふうにしないのだろうか。ぼくが新自由主義派であれば「保育に欠ける児童には保育の実施義務がある」なんていう法律を変えてしまい「託児に欠ける児童には託児の実施義務がある」というふうにするだろう。そうすれば認証保育、認可外保育施設、いやいやそんな「ぜいたく」なものでなく、狭い部屋にバンバン押し込めるような「託児施設」を量産して「待機児童は消えました!」とやれるではないか。
 …でもそうできないのは、やはり保育関係者の強烈な社会運動と世論があるからなのだろう。支配階級がそんなに思うとおりに世の中が動くわけではないのだ。
 
※アマゾンのカスタマーズレビューが09年10月17日現在で1件ついているが、本書の意図を何も読み取っていない、ひどいものである。同レビューは「紋切り型の新自由主義批判」「バウチャー導入批判では論理が飛躍」などと書いているが、ぼくが、本書での二宮の論証の仕方がレーニン式であると述べたように、本書の目的は新自由主義「改革」批判ではなく、準市場化「改革」がいかに欺瞞的な新自由主義の隠れ蓑であるかを暴く点にあるのだから、新自由主義「改革」への批判がおざなりなのは、ある意味で当たり前である。そんなものは相手にされていないのだ。




新日本出版社
2009.10.17感想記
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