樋口裕一『ホンモノの文章力』



ホンモノの文章力―自分を売り込む技術  また大きく出たタイトルである。
 樋口は翻訳家でもあるが、小論文指導の“神様”としての名声を得ている人物で、数々の小論文の著作や進学塾での指導にもあたっている。

 本書は、小論文はもちろん、自己推薦書・志望理由書から、作文・エッセイ、手紙・eメールの書き方にいたるまで多様な種類の文章の書き方を指南する。
 このテの本には、大ざっぱにいって、エッセイ風にいわば「精神」を諭していくタイプの本と、かなり具体的なマニュアルになっている本とがあるが、樋口の本書は後者のタイプのものである。ただし、こまごまとした細目を示すというよりも、文章の種類ごとに幹になる精神をズドンと太く提示してあるので、いわば両タイプのよいところをとっているといえる。

 ぼくがこの本を手にとったのは、最近ぼくのサイトを読んでくれている中高生から(なぜか)小論文の書き方を教えてほしいというメールをもらったからだ。あと、人力検索のような場で、やはり中高生とおぼしき人たちが「小論文の書き方が全然わかりません。どうしたらいいでしょう」とか質問しているのを、よくみかけるからでもある。

 いやー、ぼくの文章というのは、分類すればエッセイだから、後からのべるように真逆にあると思うのだが。それでもあえて、答えてみた。
 なので、そのぼくの答えと、樋口の答えがどれくらい距離があるのかが、ちょっと楽しみだったわけである。



僕の考える小論文を書くポイントは

 まず、小論文。
 ぼくの小論文指導ポイントをここに書こう。
 ここでぼくは、主に大学入試などでの、比較的やさしい小論文を想定している。いわば基礎的な小論文だ。

 ぼくが主張した「書き方」の最大のポイントは、「まず自分の主張の結論を非常にクリアに打ち立てること」。これであった。
 すべての作業に先立ってこれを行うことである。
 小論文とは、そのクリアな結論を証明だてるための道筋でしかない。

 ダメな小論文は、ここがクリアになっていないので、論旨がぼやけるか、論理が泳いでしまうのである。あっちへフラフラこっちへフラフラとして、結局なにがいいたいのかわからない、というようなものだ。そうなってしまうのには、理由がある。
 樋口の本の「小論文」の章の最後に、中央大学の小論文問題が例題(柳田邦男『この国の失敗の本質』の抜粋)として出されているけど、この中大の例題を読むと、文章のさまざまなエピソードや枝葉にツッコミを入れたり言及したりしたくなる。
 ネット上で不毛な論争が起きるときの対応がこれに似ていて、相手の主張の根幹ではなくそれにたどりつくまでの論理のつなぎや、エピソード、果ては言い回しなどに全部かみついてしまいたくなって、論点が無限に拡散していき、もう何が何だかわからなくなっていく状況がそれである。

 これは小論文にたいする一種の「誤解」が大もとにある。
 つまり、小論文とは、知識の多さ、物事を見る視線の多様さを展開することで自分の豊かさをアピールするものだという誤解である。そこまで自覚的に思っていなくても、何となく「あのこともこのことも書いたほうがいい」と思ってしまうのは、根っこにそういう小論文理解があるせいなのだ。
 このやり方はエッセイのような文章だと、独特のフラになって味が出てくるのだが、字数も制限されている「小論文」ではまず通用しない。

 また、小論文にたいする「誤解」といえば、文章や文体、用語に「凝らねばならぬ」という誤解もある。とくに漢語的な言い回しがどうしても必要で、それに伴う格調も必要な気がしてくるのである。
 だが、これもまったく小論文では不要だ。
 極端な話、間違いのない日本語になってさえいればいい。
 結論をまずドカンと立てて、そこへむかってまっすぐに論理の舟を漕いでいけばいいのである。大学院の論文を英語で書くときなども、それが英語として通じてさえいればよく、それ以外の要素はまったく不要だといえる。

 さて、「クリアな主張(結論)をまず立てよ。全体はそれを導き出すための論理にすぎない」とのべたが、その「論理展開」をどうするか、という問題が残る。

 論理をひとりよがりな「意見」にしない手法は、さまざまある。
 その道の権威の言葉を持ち出したり、データをしめしたり……などといった具合だが、これは本や新聞をよくよんでいる学生(中高生)でないとなかなか難しいだろう。
 そこでぼくがおすすめするのは、「予想される反論をいくつかつぶす」という方法である。
 これは漫画『ドラゴン桜』の小論文のところでものべられていた方法なのだが、知識の裏付けがなくても、論理だけで客観性がうかびあがってくる。さまざまな立場にめくばせしたうえで立論されていることも示せる。

 スピノザの有名な言葉に「規定とは否定である」というのがある。
 AはBである、という「規定」をおこなうとき、AはCではなく、Dでもなく、Eでもなく……という「否定」を同時におこなっているということだ。これを反転させるのである。「否定とは規定である」。
 経験的にも、反論をすることで、自分の立論が彫琢されて、しかも相手の論点をとりこんでそれを乗り越えようとする力が働くので、自分の論理全体がより普遍的なもの、豊富なものになっていく、というのは覚えがあるはずだ。

 革命家レーニンの著作は、ほとんどすべて論争、ケンカのための著作である。ロシアにおける西欧的知性の最もすぐれた継承者の一人だった彼の主要な著作をみてみるとわかる。
 若いころに書いた『ロシアにおける資本主義の発展』は、ナロードニキという革命グループの「ロシアでは資本主義はそもそも発達しねーよ」という議論にたいする反論である。
 第一次革命のころに書いた『唯物論と経験批判論』は、「世界とは人間の感覚のうえに起きる現象であり、世界そのものをさぐってもイミないわけよ」と主張するマルクス主義の一グループへの反論として書かれた。
 そして、有名な『帝国主義論』は、「自分の国の戦争には賛成しなきゃ」という戦争賛成派や、「帝国主義戦争つうのは思いとどまらせることができる」といって戦争賛成派のほうへかたむいていったカウツキーとのケンカの本である。
 レーニンの論点は、論敵とのケンカをつうじて確立され、豊かになり、研ぎ澄まされていった。
 もちろん、レーニンは単純に相手の非難をしているだけではなく、それをのりこえる体系をうちたてたわけであるが、まあ小論文ではそこまでしなくとも、反論相手を想定してそれとたたかってみることで、自分の主張はかなりクリアになっていくものである。
 たとえば「中学生に制服は必要ない」という結論を立てた場合、「貧富の差が見えなくなっていい」「華美に走って大混乱になる」などの予想される反論をつぶすことで、この結論は説得力のあるものになるだろう。自分の制服への思いとか、制服は好き/嫌いとか、「中学生らしく」というのは人によってちがう、などを書くだけではあまり説得力をもたないだろう。

 ここで「クリア」という言葉をつけたのは、もう少し意味がある。
 それは定義などの曖昧さをできる限りなくしておく、というニュアンスをこめているのである。たとえば「男女は平等であるべき」という結論をたてたとき、その「平等」の意味をクリアにしておかないと、論理が泳いでしまったり、読む人に曖昧な印象を与えてしまうからである(たとえば「結果の平等」と「機会の平等」というのではまるで意味がちがってくる)。

 さて、長々と書いたが、以上がぼくの「小論文」の書き方のポイントである。



樋口が考える小論文のポイントは

 樋口は、これにたいしてどう教えるのか。

 樋口の小論文指導の根幹は、「小論文とは意見文であり、意見とはイエス・ノーを判断すること」というものである。
 これはぼくの主張「まずクリアな結論をたて、全体はそれを証明するためのものにすぎない」というのに似ていると思う。しかしたしかに樋口のいうように「イエス・ノーを判断するもの」だと問題をたてると、よりハッキリする。教育的・実践的にはこのほうがすぐれているなと思う。

 樋口はこのあと「問題提起―意見提示―展開―結論」という4節にわけた「型」を提示し、ここに流し込めばだいたい書けてしまう、とのべていく。
 ぼくからすると、結論とそれを証明だてるための論理という二つあれば十分ではないかと思うのだが、ぼくのいっているのどちらかといえば「着想」段階のことで、実際に「書く」となったら、樋口のこの4段階論は役に立つのかも知れない。柱立てを先にメモしておくというふうに言い換えるなら、ぼくも受験時代やった。

 「反論」というやり方については、樋口は小論文をより豊かにするというプラスアルファの項目でふれらている。

 ぼくが示したのは、いわばまったく小論文が書けない人のための初歩の初歩なので、樋口はビジネスマンのレポートくらいまでを想定していてもっと様々なことを叙述している。なので、根幹のところは一致したのではないかと思うのである。



自己推薦書・志望理由書を書くポイント

 次に、「自己推薦書・志望理由書」についてふれる。

 これも、根幹となる文章思想は、ぼくと同じだったので、樋口の文章でそれを記しておこう。「自己推薦書も志望理由書も、ともに志望先に対して、自分に熱意と適性があることをアピールするための文章だ」(p.106)――これにつきる。いわば、労働力商品のセールスである。
 いや、文章にかかわらず、面接をふくめ、採用試験にかかわる全てのプロセスが、労働力商品のセールストークだといえる。
 まあ、こういうことは、別に樋口やぼくが得々といわなくても、就職活動においてはいわば“常識”といえることかもしれない。

 選挙などで、政治家としての自分を売り込むビラや、紹介文をのせたチラシをくばっているケースがある。これも同種のものだ。プライベートな記述にいたるまで、すべてが政治家としての自分をアピールし、セールスするためのものでなければならない。
 ところが、そういうことがわかっていない候補者は、無防備なことを書いたりしてしまう。
 「趣味は読書」
などといったプロフィールがそれである。アホか。
 およそ「読書」という超一般的な趣味を聞いて、だれがどんな感興をもよおすというのか。
 合コンやお見合いなら対面だから「へー、何読むの」くらいは聞いてもらえるかもしれないが、ビラではもうアウトである。
 趣味欄をストレートに趣味を書く欄だとしか思っていないからこういうことになってしまう。
 どのような政治家であるかをアピールする場として全てを利用しつくさねばならない。
 「毎月30冊は読むほどの読書家」
 「政治経済の本ばかりを読みあさる読書狂」
くらい書けば、ようやく“勉強家”としての自分をアピールできるのである。仮にそんなに読んでいない場合でも、
「宮部みゆき『火車』が愛読書」
とでも書けば、少なくとも親近感をもつ宮部ファンがいる。「読書」とするよりは1票でも多く集める力にはなるだろう。

 就職の面接や自己推薦書でも、どれもが自己アピールの材料だと考えねばならない。
 「趣味」と聞かれて、ストレートに趣味を書くのではなく、趣味についての回答を通じてどんな自分を演出しアピールしたいのかをたえず考えて回答しなければ失格だ。

「趣味は?」
「はい、音楽を聞きます」
「へえ、どんな?」
「はい、クラシックとかを」
 会話終了、である。
 クラシック愛好にかこつけて、あまり流行りものではなく同世代の人が目をつけないものを探していた自分、みたいなところへつなげてほしいものである。

 で、樋口の本だ。本書には「長所をズバリ書く」「好まれる人格をアピールする」などの項目が書いてあるのだが、たしかに自己推薦文の「基本」はこれでいいかもしれない。まったく何を書いたらいいかわからないような人にはまずこの基本をおさえてもらう。

 しかし、世は就職難の時代。労働力商品のセールスの方法は高度化し、競争が激化している。
 商品のセールスの文句がありきたりでは売れないように、労働力商品の販売も、ただ熱心なアピールだけでは売れないだろう。

 ぼくは、そこに必要なのは「リアリティ」だと考える。
 樋口の「自己推薦書・志望理由書」の指南にはそれが欠けている。
 いかにして不自然でない、「本当らしさ」を演出するのか、という視点が必要なのだ。

 商品販売でいうと、「これはこの商品の弱味だろう」というところに、むしろ目をむけていたりするとリアリティが出る。
「この辞典はたしかに××辞典などと比べても項目は少ないのです。でも、世の中の辞典で実際に使う項目はものすごく少ないのです。それよりも、そのぶん、挿絵や例文を多くし、また持ちやすくしています」
などと。
 面接や自己推薦書でも、自分の短所に目をむけてみるとリアリティが出る。
「自分は権威に弱い。その道のプロ、とかいう人がコメントしたことだと無条件に信じてしまうところがある。だから新聞記者になりたい私にとってはハンディになる短所かもしれない。ゼミで指摘されたこともある。しかし、そのことを自覚しているのは私の強みでもある」
と展開して、克服の過程などを書けば、「本当らしさ」が出る。ウィークポイントの自覚は、むしろプラスである。といっても「公金を使い込むクセがある」などという弱点は致命的なので書いてはいけない。いや、書くなとかいうレベルじゃなくて、就職しないでください。

 その職業の「つらさ」「つまらなさ」を自覚している、というのも大事なことである。
「小さいころ○○さんの××というルポを読んで感動した。戦争のもつ悲惨さだけでなく、あらゆるものが利害としてからんで『やめられない』という構造をあばいていて、これがジャーナリズムの仕事だと思ったのです」
とか答えるのはいいのだが、記者になってもそんな仕事をさせてもらえるかどうかわからない。毎日サツまわりで、発表ものをただこなすだけかもしれないのだ。あるいはスポーツが好きでスポーツ新聞に勤めたはいいものの、フーゾク担当で来る日も来る日も「○○ちゃんの美乳が」とか書かねばならないかもしれない。採用側としてはそれで「疑問に感じ」飛び出されては困るのである。
 そういう単調さや、陰の部分をどう考えているかも、ふまえている、ということをにじませるものでないと、リアリティが出ないとぼくは思う。うわついた職業イメージしか見ていないようだと、そこにリアリティを感じられないのだ。

 というわけで、本書は、ぼくには少し食い足りなかった。
 ただ、文章を基礎から書こうと思っている人には、わかりやすい入門書になっていて、むしろ最適かもしれない。ゆえに「ホンモノの文章力」というのは、ちょっと大上段にすぎるのではないかというのが、ぼくのいつわらざる感想である。





『ホンモノの文章力――自分を売り込む技術』
集英社新書
2005.10.12感想記
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