MATSUDA98『ほのかLv.アップ!』を読みながら、「顔」をいつまでも見ていたいと思うことについて考える




 いつまでもいつまでも「顔」をみていたい、という欲求に思い当たった。以下は『ほのかLv.アップ!』の感想というより、それにひっかけて感じたことである。

ほのかLv.アップ! 1 (1) お嬢様女子高の女子高生・志賀穂乃歌(ほのか)が、叔父のゲーム会社でバイトすることになり、バイトしつつ、自分の進路と将来を見据えるという話。
 うーん、こういうふうにあらすじだけ書くと、行政とか業界あたりが進路啓発用にこんな漫画パンフつくってもおかしくないよなあ。

 いや、じっさい、読んでいくと、何もゲーム業界やゲームのことを知らないお嬢様であるほのかに一つひとつ手ほどきするように説明していくので、そういう啓発としての機能を持っているといえる。

 自分が何者になりたいのかわからない、もう一歩ふみだしている同じ世代の人たちがいる――という高校生らしい焦燥を出発点におく。シンプルだけど、これはこれで少なくとも1巻の物語を貫くうえではわかりやすい主題だ。

 だけどまあ、テーマのことはいいんだ。あと、女子高生ってリアルさのかけらもねーなとか、独立した個人企業的なゲーム会社はもっと修羅場のような状態ダロとか、そういうツッコミも、別にどうでもいい。その種の自然主義的なリアリズムはこの漫画には不要だと思うし。

 表紙をみてもらえばわかるし、「電撃コミック ガオ!」誌掲載とくれば、いわゆる「萌え系」の漫画であることもわかってもらえるだろう。

 伊藤剛は『テヅカ・イズ・デッド』のなかで、近代的リアリズムの一つの到達として『MASTERキートン』を例にあげ、これと「萌えマンガ」といわれる『ツバメしんどろ〜む』を比較している。

 主人公・キートンの少年時代の回想に「同一化技法」といって、登場人物(キートンとバス運転手の中年男)が見たものを登場人物の視線で描き出す映画的手法を紹介し、「瑪瑙色」に広がる海原を描写しているのを紹介する。
 画面は印刷の関係で白黒なのだが、読者は思わず「瑪瑙色」を想像し、世界の美しさと同様に人生の美しさがどこかにあるという確信を抱ける。

〈中年男の内面にしかない「〔人生上の〕決意」と、この時点まで蓄積された「人生」が、「風景」に重ねあわされているのである〉(伊藤p.237)

 これにたいして、『つばめしんどろ〜む』では主人公が「姉さん」に美しい風景を見せようとして、見せるのだが、「姉さんが見た」風景は描かれない。

〈「同一化技法」はむしろ排除されている〉(同p.237)

 伊藤は、『つばめしんどろ〜む』がこのような内面を語る技法を排除していることについて、次のように述べる。

〈ここで、同作を主題のレヴェルだけで見て、思春期前期的な男子の「願望」をただ垂れ流し的に描いたものとして退けてしまうのも、いささか早計に過ぎるだろう。なぜならば、ここに提示した見開きからは、むしろデザイン的な、レイアウトの発想で作られていることが創造されるからである。「萌えキャラ」であるヒロインの「顔」を紙面にどう置くかが工夫され、コマ展開の連続性をむしろ抑制することで、デザイン的な「美しさ」が優先させられているのである〉(p.239)

 「内面と風景を重ねる」こととは別に、一般的な「美しさ」であれば、風景の美しさを書いてもいいのかもしれない。
 しかし、「萌えマンガ」は、「近代的リアリズム」を抑圧することでキャラの存在感や美しさをむしろ前景化しようとするわけだ。

 言い方をかえれば、いつまでもいつまでも飽くことなくキャラを見つめ続けていたいということである。いやもっといえば、「キャラの顔」を見つめ続けていたい、という欲求だ。

 『ほのかLv.アップ!』は伊藤がのべたことが、極端なまでの形で現れている。

 第三話(STAGE 3「自分で気づくこと」)のp.63〜64で、ほのかにたいして、会社の先輩が秋葉原を案内し、会社近くの小さなゲーム売場ではなく、アキバの巨大なゲーム売場を見せるシーンがある。〈あそこじゃ小さくてインパクトがないからね〉(p.63)という理由で。

 この展開からすると、当然次のコマには巨大なゲーム売場が描かれるはずであろうと予想されるのだが、図(※)にしめした程度にしか描かれない。まあ、そもそも「棚」程度のものしかないせいだとか、作者の画力の限界だとかいうことはあるかもしれないのだが、むしろ作者は、ほのかの表情を追うことに一生懸命になっているように見える。

 p.145でも、「コミセレ」(同人誌即売会)に案内されたほのかだが、コミセレの様子はほとんど描かれず、終始ほのかたちの顔だけが追求される。

 ここでは、「同一化技法」は徹底して排除され、〈「萌えキャラ」であるヒロインの「顔」を紙面にどう置くかが工夫され〉ているように感じられる。
 
 
 いやまったく『ほのかLv.アップ!』を読んでいると、顔ばかりだ。本当にこの作者は「顔」が好きなんだなと思う。無論それは先述のとおり、この作者に限ったことではないのだが。
 この本の口絵にある、サクランボやドーナツを食べているほのかのイラストは、ぼくが見てもなかなかにグッとくる。正直いえば、ストーリーのなかで動かされているほのかよりも、はるかに存在感がある。

 いつまでもいつまでも顔を見ていたい。

 そんなことをずっと考えていたら、自分にとって志村貴子の『放浪息子』とは、「いつまでも顔を見ていたい漫画」なのだとしみじみ思った。

 『放浪息子』5巻においては

●p.32の「やたらめったら色気」がある女の子
●p.38の「も〜〜 税所くん なんですぐそういうこと 言うのぉ」の君島さん
●p.77のむくれる佐々さん
●p.102のサインを求められる二鳥真穂
●p.119の高槻くんに尊敬される更科さん
●p.158〜161の真穂・あんな・たまきの3人のやりとり(とくに恥ずかしがっている真穂)
●p.164の汗をかいて現れた高槻くん、およびp.166までの更科さんとブラジャーを買いに行くやりとり
●ラストの、麦茶をもってきて首をかしげるシュウくん、および千葉さんに問いつめられて真っ赤になっているシュウくん

 そいつらの顔をいつまでもいつまでも見ていたい。
 できれば職場に貼っておきたい(家ではつれあいが怒る)。

 『放浪息子』はぼくにとって、内面やテーマの問題を扱う作品だとずっと思ってきたのだが、「ただ顔をみていたい」だけの作品、完全なる欲望の対象、いわば「ポルノグラフィー」ではないかなという思いがよぎった(なにをいまさら)。






『ほのかLv.アップ!』1巻(以後続刊)
メディアワークス 電撃コミックス
MATSUDA98 原作:太田顕喜
※同上1巻p.64より
画像引用の原則はふまえているつもりです)
2006.7.18感想記
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