柊あおい『星の瞳のシルエット』


 「なんか、もう……宗教だよね」

と、この漫画を読んで、そう評したのは、大学時代のぼくの友人でした。

 あの、それは、ケナしているんじゃありません。
 褒めているんです。

 それで、ぼくもわが意を得たりという気持ちでした。
 ぼくが以後、女性の描く漫画にハマる最初のきっかけであり、そして長くつづく女性漫画遍歴のなかでも、ぼくの心のなかで巨峰として屹立しているのが本作なのです。

 あらすじは、こうです。(以下ネタバレがあります)
 主人公の沢渡香澄は小さいころ、「星のかけら」という水晶片をすすき野原で男の子からもらいます。香澄が長じて中学生となったとき、仲良しの森下真理子が同級生の久住智史という男の子を好きになるのを応援するのですが、香澄はしだいに智史に惹かれていきます。
 やがて、「すすき野原の男の子」が智史であることを知ります。智史も香澄に惹かれていきます。
 智史から好きだと打ち明けられ、香澄の恋心は抑えきれないほどになりますが、真理子との友情を重んじ、香澄は身をひきます。智史は、香澄の気持ちがわからぬまま、真理子とつきあいはじめますが……。
 

 この作品をネットでさがすと、まあ、ファンのサイトが多いのですが「少女漫画の王道」という評価をしばしば目にします。

 たしかに、これ自身はそのとおりなのです。

 少女漫画とは、思春期の葛藤をくり返しはじめるけども、依然として幼少期の揺籃のなかの世界であり、基本的にそれは少女の心象風景の域を出ず、客観世界の厳しさと交わることは結果的にありません。

 『星の瞳のシルエット』の世界設定は、すべてが、この心地よい「甘い世界」から出ていません。
 「すすき野原の男の子」が、いま目の前にいる、好きなクラスメイトであったということは、目もくらむような少女の欲望です。幼少期の美しい思い出というものは、胎内にいる胎児よろしく、庇護され、守られ、葛藤のない存在であったこととむすびついています。久住智史は、本作のなかで、ほとんどいっさい瑕疵のないキャラクターとして貫徹され、この「甘い世界」の現実態なのです。
 「いつか白馬の王子様が」「紫のバラの人が」「丘の上の王子様が」という存在の「甘さ」とどこかでつながっています。

 智史と香澄がふたたびすすき野原で会うシーンは、果てしなく広がる、現実にはありえない光景であり、まさにそれは少女のココロの世界そのものなのです。

 しかし。しかし、であります。

 しかし、この作品が多くのファンをつかむのは、そのような基本設定だけではないとぼくは思います。

 香澄の、智史を思う強靱な気持ちと、それを友情のために徹底して抑圧するという自己犠牲が、どこまでも尖鋭化されつづけ、一種の宗教的な頑迷さにまで到達する、その一点にあろうかと思います。

 その圧巻ともいえるシーンが、りぼんコミックスでいうと第6巻の夏合宿のエピソードです。

 夜中に2人だけで星をみていて、ついに香澄は智史から告白されます。
 しかし、友情を尊重させる香澄は、その告白を受け入れません。
 ここで、涙を流す香澄と、それをペルセウス流星群が流れる宇宙、それを受け止める野原が、一体となって表現されるシーンは、尖鋭化されつづけた香澄の宗教的ともいえる敬虔な自己犠牲とその裏腹にある智史への愛情を鮮烈に表現しています。

 本作は、「いつわりのやさしさは誠実なんかじゃない」として、香澄が自分の気持ちに素直になるという結末をむかえる――そしてすべての人間がだれも傷つかない――のですが、それはなんというか、たんなるカタルシスであって、まあそう都合をつけるしかないのです。

 そんなことは知ったことではないのです。

 現実にはほぼ無意味なまでに智史への愛情とその裏腹の自己犠牲をつづける香澄の姿にこそ、萌えるのです。そう、よくよく考えてみれば無意味すぎる。というか、「現実ばなれ」しているほどの感情です。つーか、いねーよ、そんなやつ。絶対に。

 しかし、そのような現実の小賢しさから大胆に飛翔しているからこそ、本作は虚構として素晴らしいのです。一点に向かって、現実からものすごい勢いで離脱してシャープになっていく――このドラマツルギーにわれわれは魅了されています。

 酒場で酒をのんでくだをまき、流れている演歌の歌詞を聞き、そこに歌われている「現実」に思いを馳せて、「あぁ、こいつもおれとおんなじだ……」なんて共感する、そういう「現実」。このようなみじめな「現実」の似せ絵などは必要ないのです。

 すすき野原でふたたび智史と香澄が会う夕暮れのシーンは、どこまでも果てしない地平が広がり、そこに、まるで『ナウシカ』の「その者青き衣をまといて金色(こんじき)の野に降りたつべし」と同じ情景をぼくは見るのです。宗教的な法悦といえるほどの荘厳な情景に、自分たちの恋愛をおいてみるという、およそ現実にはありえないところまで「ぶっ飛んでいける」ところに、この作品の凄みがあります。

 だれが、小汚い現実に似せた薄っぺらな「現実」漫画を読むか。
 飛翔してこそ虚構ではないか。
 おれたちは“ドラマ”が読みたいのだ。

 そういう、〈ぼく〉の、「ある一面」が叫んでいるのです。




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全10巻 (文庫版あり)2004.2.21記
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