志村貴子『放浪息子』2巻



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 ああ、もう、なんてかわいいんだ!

 「シュウくん、だいすき!」と新宿の雑踏でふと叫びそうになるぼくを、だれか後ろから抱きかかえて止めてくれ。

 萌えツボ、なんてもんじゃない。
 全身これツボと化し、寝ても醒めてもぼくは『放浪息子』のことを、二鳥修一のことをかんがえている。会議中、ぽけっとしているぼくを見かけたら、それは二鳥修一のことをかんがえているのだとおもってくれて、まずまちがいないでしょう。ノートにナニゲにNOVAうさぎのラクガキをしているようでも、シュウくんのことで頭がいっぱいなのです。

 一度、劇画的なリアリズムの画風に(ちょっとだけ)進出した志村は、1巻の中ごろから撤退をはじめ、むかし(『敷居の住人』後期)のタッチへと回帰している。それでよい。二鳥修一のかわいさを描くにはこのタッチのほうが断然似合う。

 志村のセリフのもつリアリズムの破壊力もさることながら、同じ構図を連続したコマで描く手法は、日常のわれわれの何気ない仕草のもつ意味や表情のちがい、ちょとした情動最大限に強調させ、どんな小さな隙間にもそのリアリズムの視線を浸透させていってしまう。この漫画家が「起承転結」や「クライマックス」を極力排除し、徹頭徹尾「ダラダラした日常」を描き続けているのにもかかわらず、いやそれゆえにこそ、志村のもつセリフや間合いの絶妙さが生きてくる。この手法によって、志村は、「日常」を実験台にひきずりだし、徹底的に精査する。志村の方法論は、「ダラダラした日常」のなかでこそ、革命的に作用するのだ。

 『敷居の住人』の1〜2巻のころのつまらなさは、「ダラダラした日常」にもかかわらず、まだこのセリフと間合いの魔力をそなえていないために引き起こされている。志村的な「セリフ」と「間合い」のない「ダラダラした日常」は、ぼくらの目に映じた「ダラダラした日常」そのまんまであり、そんなものをカネをはらって読むやつはいないのだ。(志村が『敷居の住人』のなかで最初に、セリフと間合いによって強靱なリアリティを獲得したキャラは、くるみちゃんのお姉さんである)。
 

 佐々さんのジャイアンのまね、「おおー 心の友よ」のカワイサに爆笑。





補 論

 志村の漫画を「トランスジェンダー(※1)もの」だ、とする見解がある。
 むろん、素材的にはトランスジェンダーをあつかっているが、志村が描きたいのはトランスジェンダーそのものではなく、志村は、それをテコにして「女性」を描きたいのだ。

 「女性とは何か」。

 それに答えるためには、女性というものがどのように生成してくるのかをみなければならない。女性の生成史は、そのまま女性の概念史であり、女性というものの「論理」の歴史である。
 マルクスは、ヘーゲルに学んで、歴史的なものと論理的なものが一致することを見抜き、『資本論』を著した。商品から貨幣、貨幣から資本の生成史は、資本とは何であるかという概念史であり、それは資本とは何かという説明のなかに組み込まれている論理そのものである。


 あるものが何であるのか、という規定をしようとすれば、あるものの歴史を、生成史をみればよい。

(日米安保条約とは何であるかを見ようと思えば、その生成史をみれば、それが占領の合法的継続としてはじまり、侵略的軍事同盟への変質をとげていくのをぼくらは見るのであり、それが安保条約とは何かという規定になる。あるいは、NOVAうさぎとは何かを見ようと思えば、NOVAうさぎが宣伝企画会議のなかでどのようにして生まれ、どう世間に受容され、どうイジられてきたかを見ればよい)


 二鳥修一が「女性」になる瞬間とは、まさしく「女性の生成史」である。
 修一の「女性」としての生成は、女性とは何であるのか、ということを、ぼくらに嫌が応でも示してしまう。

 あるいは、スピノザの有名な「規定とは否定である」のごとく、その「女性」を否定するものをすぐそばに配置することによって、逆に、「女性とは何か」ということは、明瞭に規定される。
 「女性から男性に」なろうとする高槻よしのをすぐそばに配置することによって、あるいは、「女性」にトランスしたはずの修一を「男としての変声期や夢精」が襲うことによって、修一の「女性」性は、ネガのように暴露されてしまう。

 志村の描いているものは、すべて「女性」である。

「少年少女たちの関係は不可逆的に変化していく一方で、ぬいぐるみなどを作って『オカマ』などと呼ばれつつも、ミドリが女性化の圧力に抗い続けて終わる『敷居の住人』は、抽象化すれば、少女たちに翻弄されるのが少女化された少年だという点で、いわばすでに少女たちだけの漫画なのだ。志村はそこで、多様な少女たちの自己愛がお互いを傷つけまた癒すその群像を、漫画による多様な女性性の列挙と精査の過程として、だが軽やかに描き切った」

「女性性の精査と表現の戦略を確認した志村は、もうミドリのように対象化も女性性もおそれず、それらを肯定する漫画へと歩み出している」

「『放浪息子』では、女装に憧れる少年が少女たちと姉妹的な関係を作りつつ、その自分をどう受け入れうるかどうかが描かれる。『もしミドリが女性化を受け入れたら』といった観点では、『敷居の住人』の続編とも読める…」※2




参照:はてなダイアリー「無言の日記」さん(拙サイトへの言及に感謝)

※1:性同一性障害者のうち、解剖学上の性とは逆の性での社会生活を行うが外科的手術までは望まない人。
※2:砂(「ユリイカ 詩と批評」2003.11より)

『敷居の住人』の感想はこちら

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