志村貴子『放浪息子』3巻


放浪息子 (3)

 ああ、至福……。

 紀伊国屋で3巻をみつけたぼくは、いそいそとケンタッキーに入り、暗くなるのも忘れて堪能しましたとさ。
 そういえば、今年の漫画ベストなんとかみたいなのが発表される季節になったのだが、ぼく的に挙げるとすれば、志村の『放浪息子』および『どうにかなる日々』は外せないところである。これに、こうの史代『夕凪の街 桜の国』を加えたいなあ。


 水面に映った自分の姿に見とれ、それに抱きつこうとして溺死したのはナルシス。
 ナルシシズムの語源となったこの状態、すなわちあなたは、鏡に映った自分に見とれることがあるか。

 あります、ぼくは

 えー、うそー、やだー、きもーい、という読者はほっておいて、それは通俗的な意味での美醜とはかかわりなく、自分がいまの物理的身体、そこに反映される社会的状況を愛しているのであれば当然におこりうることである。自分が戦前知識人みたいにみえる「瞬間」があれば、そのときは、ぼくは満足なのだ。笑うな、そこ。
 ある日、部屋に見知らぬおばさんがいてぎょっとしたら、鏡に映った自分だった、という女性の話を聞いたことがあるが、女性は、自分の身体について社会的に常に厳しい監視の目にさらされるだけに、ことのほか、この問題で神経をすりへらされる。「なりたい自分になる」という「自分」の幅を極度に狭く設定されたり、自分の本当に望むものとは別のところに設定させられがちなのも、また女性である。

 そんなわけで、3巻の名シーンは、女装した自分の姿をふと鏡で見てしまい、見とれてしまったシュウくんである。これは、その前の「夢精」のシーンとの好対照で大きな効果をあげていると思う。
 自分は女の子なんだから、こんな格好をしてもいいんだ、という「夢のような」夢を見た後、二鳥修一はベッドで目を醒まし、股間に生暖かい粘液を感じる。文字なしの、コマ送りで描かれる修一の描写が実に切ない。
 自分が男であるということを、身体の変化によって否応なく自覚させられるこの瞬間こそ、なりたくもない自分を自覚する瞬間である。
 かわいそうなシュウくん。うう。


 高槻よしのの「女装」にも、相当な違和感があった。
 いや、高槻さん、女性なんですが。
 すっかり、ぼくは高槻さんを男のように眺めていて、たしかにスカートを履いた彼女をみたときは、ぼくもびっくりしたものである。そして、女装した修一が笑い者にされている夢を見て涙を流す高槻、その問題を避けていた自分を恥じ、決然と「私は着たい服を着るんだ」と出かけていく高槻の姿を――あえてこの言葉を使えば――まことに「男らしく」感じた。

 女性はやっぱり「自分」になる、ということにすら、苦労が多いのだなあと、あらためて知るのだった。(二鳥修一は男であるし、トランスジェンダーの苦労をしょっているわけであるが、前にものべたとおり、志村の漫画は女性性にかんする漫画ではないかと思うし、やはり日常的に女性の方が圧倒的にこの種の苦労が多いと思う)

 ところで、終始ぼくがこの漫画にやられっぱなしなのはなぜかと、つらつら考えるに、その一つに、二鳥修一の「ぼく」攻撃がある。
 ちょっと顔を赤らめながら修一が言う「ぼく」。
 たまらんなあ。

 高校の現国の教師が、あるとき作文の指導をする授業で「みんな〈私〉って書いてね。高校生にもなって〈ぼく〉なんて気持ち悪いでしょ」と何気に言ったのが、ぼくには衝撃で、そのとき「ぼく」という言葉が持っている社会的な意味というようなものを認識させられたのである。

「私はね、だいたい〈ぼく〉という一人称を使う男性はみんな嫌いなんです(笑)。まず第一に甘えを感じますからね。三田誠広の『僕って何』もそうだし、村上春樹の小説もそうですが、〈ぼく〉ということばを使うことによって、そういう男性たちはいわば自分の立っている位置の特権性を、社会化された〈私〉から隔離されたところに確保するという戦略をとっています。(中略)一人称のスピーチレベルを私的な局面と公的な局面で、男たちは〈ぼく〉と〈私〉もしくは〈俺〉と〈私〉というふうに使い分けているでしょう。女には〈私〉しかありませんから、そういうふうにスピーチレベルが分かれることはかえってありません」

「私が〈ぼく〉という一人称を使う男の人に対して反感を持つのは何故かというとね。〈ぼく〉という私的な一人称は、普通私的な文体に使いますね。ところが私的な文体のなかで公的な事柄を書くとしたら、それは、公的な事柄と私的な事柄のけじめを踏み外すことによって、私的な世界の中に公的なものを取り込んで、そういう中で泥沼的な処理をする、という甘えの構造の中で書いている気がするのでそれが嫌いだったのです」

(『上野千鶴子対談集・接近遭遇』より※)



 ぼくが修一の「ぼく」に甘い気持ちをもつのは、幼児退行的な甘えである。
 宮崎勤よろしく、そういう「甘い世界」に閉じこもっている自分である。

 そして何より、ぼくがこのサイトで紡いでいる文章こそ、その甘い甘えの世界、「泥沼的な処理」の世界なのである。





1巻の感想はこちら

『放浪息子』3巻 エンターブレイン Beam comix
 以後続刊
2004.12.26感想記
※大塚英志『「彼女たち」の連合赤軍 サブカルチャーと戦後民主主義』より孫引き
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