志村貴子『放浪息子』5巻




※1巻の感想はこちら

放浪息子5  女の子になりたい男の子、女の子になりたい男の子の話は、もう5巻だ。
 いよいよ中学生編に突入である。

 女の子になりたい男の子、主人公の二鳥修一、そして同じく女の子になりたい男の子、修一の親友である有賀誠をふくめて、ここに描かれているのは、小学校高学年から中学校にいたるまでの「女子の社会」。

「そんなに 私がきらい…………」
「そっちこそ 私のこと きらいなくせに」

 みんなで仲直りして一緒に帰った帰り道。一人の言葉を無視したことが発端でケンカがはじまる。

「私は あんたのことなんか だいっ嫌いよ
 〔また別の人に〕あなたのこともすきじゃない
 仲直り以前の問題だからこれからは別々に帰りましょうね さようなら」

 女子の社会、女子中学生の社会というものは、好き・嫌いという、どうにも解決しがたい感情を基準にして社会が編成され(たとえば仕事なら、嫌いな相手でも「同じ目的」のために団結できる)、しかも、そのことが泥沼のようにからみあっている。もう少し幼少ならもっと執着しないだろうし、もう少し年をとれば感情を伏せたりコントロールしたり別の高い共通項(前述の「仕事」など)で結ばれたりできる。

 中学になって、二鳥たちのグループの前にあらわれた「かっこいい人」、更科千鶴(ちーちゃん)が「かっこいい」のは、そんな女子社会の泥沼を超越しているからだ。

 中学生女子が思春期にする拘泥をすべて軽々ととびこえている。

 更科は入学式でツメエリを着てくる。「ツメエリも着たいから着た」し、「今日はなんかスカートの気分だったから」スカートできたし、「明日 私服の気分だったら 私服で来るかも」という人だ。いや、体育の水泳の時間、ビキニで来たりするほどであって、なんつうかもう……。

 千葉さおりも超越しているように見えるが、まったく逆である。
 自分の嫌いな人間には、妥協してあわせるということがない。
 女子中学生らしい、無根拠な感情に徹底してこだわり、上記のようなセリフを平気で相手にぶつける。

 その千葉に「あなたのこともすきじゃない」と真正面からいわれた更科は、そのセリフに逆に感動してしまう。

「なんて はっきりした人…………
 ちーちゃん〔一人称〕あんな人がすきだよ」

 自分のことがきらいだといわれて、こんなセリフを返せる女子中学生がいるだろうか。
 好きと嫌いが支配する共同体のなかでは、「嫌いだ」と公然と、しかも面と向かって言われることは、自分が相手のことをどう思っていようと天地が終わるほどのショックをうけるはず。

 それなのに、その感情をスルーして、「あんな人がすきだよ」と宣言してしまえる人というのは、女子の社会において超人というほかない。そう、更科は超人のようだ。

 ところが。
 
 作者の志村は、「ちーちゃん」をクールで知的な超人とは描かない。
 更科は、自分にインネンをつけにきた上級生女子を殴り倒したあと、まるで決めゼリフのように、

「ちーちゃんは ケンカ強いんだぞぅ!!」

などと拳をつきだして叫んでみせる。
 自分のことを「ちーちゃん」と呼ぶ幼稚なナルシシズム。そしてまた、「ちーちゃん」は、男女だれかれかまわず後ろから腹に抱きついたり、高槻よしのの胸を後ろから揉んで、どやされたりする。

 更科の「かっこよさ」は、クールとか大人びているというより、幼稚さとセットになっている。幼稚ゆえに感情の拘泥を超越できる。女子高生の社会を描いた、志村の『青い花』では、登場人物が「かっこよさ」を感じるのは、当該人物の実際に大人びた様子についてなのだが、それとくらべても、更科の造形はいかにも女子中学生らしい「かっこよさ」なのである。


 だから、ぼくは、志村貴子という漫画家が、いかに女子中学生の感情社会の空気のリアルさを描いているか、そして、その空気を超越する「かっこいい」更科を配置することで逆にその空気のリアルさがデフォルメされてうかびあがり、さらにそのキャラクターが「ありえないような」造形なのにリアルさを離れない――その妙に、ほとほと感心してしまうのだ。


 そういうキャラクター造形の妙は、二鳥修一についてもいえる。

 5巻のなかには、「岡保存会 イシデ電」の描いた「特別寄稿」漫画「夕日の岡」が載っている。
 修一をいじめた岡についての2ページの二次創作なのだが、ここに出てくる修一は、描かれ方も泣き虫度合いも、非常にわかりやすい単相のキャラクターに変えられてしまっている。
 この特別寄稿漫画のおわりの方にでてくる「……かむ?」と岡の持っている飼い犬にたいして聞く聞き方は、「いぢめる?」に近い愛玩キャラの属性の発揮でしかない。

 「女の子のような男の子」を描こうとすれば、修一をこういうふうにベタにしてキャラクターで遊ぶことも可能だったかもしれない。『敷居の住人』の主人公の「ミドリちゃん」のように、女子たちの気持ちのサンドバッグなだけの存在になったかもしれなかったのだ。

 だが、修一がときおりみせる、脚本や日記といった文章創作にみせる情熱や、女子になりたいということへの内省、高槻よしのへの未分化な恋愛感情という複雑な内面をもつことをみてもわかるように、志村はキャラクターでは遊ばなかった。

 これだけベタなキャラクターに堕しそうな境界線上をさまよいながら、二鳥修一はぼくのなかでずっと、複雑な内面を抱えたリアルなキャラクターでありつづけている。

 だから、困るだろう。この巻も。
 二鳥修一は、相変わらずぼくの気持ちのなかに染み込みすぎるんだよ!

 この巻の終わりで修一が麦茶をもってくるシーンがあるけども、首をかたむけながら「お茶…………」といって持ってくるシーンとか、そこで千葉さおりに詰問されて真っ赤になっているコマとか、一体どうしてくれよう

 あと、二鳥修一がそっくりだという、修一の担任が中学時代初恋をした「君島さん」のセリフと笑顔。

「も〜〜〜
 税所〔さいしょ〕くん なんですぐそういうこと言うのぉ」

って、おれが好きだった女の子そのまんまなんだよ!

 なんなんだよこの…………
 俺の中学時代を再現したみたいな漫画…………






エンターブレイン ビームコミックス
1〜5巻(以後続刊)
2006.7.1感想記
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