志村貴子『放浪息子』1巻
とにかく志村貴子である。
いま、ぼくは、志村にむちゅう。
すでにどれも読んだが、再読・精読をしはじめてしまった。
『敷居の住人』からはじまり、『ラヴ・バズ』ときて、現在『放浪息子』。
もう何十回読んだかしれない。
朝、昼と、メシを食いに外に出かける。そのたびごとに、休み時間をめいっぱいつかってコマの隅から隅までナメるように読む。あぁ、プロントのおねいさん、さぞぼくをキモいやつだとお思いでしょうね。
『放浪息子』は、小学生の男の子が、女の子になりたいという気持ちをかかえつづける話。対照的に同級生のハンサムな女の子は、男の子になりたがっている。(以下、ネタバレあり)
内気な主人公・二鳥修一が、かわいい。
ちょっと顔を赤らめる。すぐ赤らめる。
ひんぱんにはいる逡巡の記号「……」。「……二鳥修一です」「ぼくは……いくじなしなんかじゃない……」「ごめんなさい……」。
すぐどもる。くり返す。「み 見た?」「あの やっぱりぼく あの」「全然 全然そんなこと」
留守番中に、ヘアバンドをつける修一。恥ずかしそうに、うれしそうに自分の姿を鏡にさらす。そこに、家にたまたま来たセールスマンに「おじょうさん」とよばれ、その「おじょうさん」の一言が修一を暴走させてしまう。
女の子の服を着てしまうのだ。
「着ちゃった……」
ああ、かわいすぎ。
いつも少女の勝手な心のなかしか描かない少女漫画。そこでは男の子の形象はいつも極度に理想化されている。強かったり、まっすぐだったり。修一のようなナイーヴさ、内気、逡巡は、少女漫画の男の子にはほとんど登場しない。(くらもちふさこや萩尾望都などは例外としても)
むろん、「勝負」と「ウンコ」にしか関心がない少年漫画にも、修一のような造形は出てこない。
志村漫画の基調をなす独特の「間合い」と「セリフ」は、志村的世界が、虚構やファンタジーではなく、客観世界だという印象を読む者に与える。志村の「間合い」と「セリフ」は実にリアル(=ここでは客観世界的)だ。
「あっ やらしい人だ 今日こいつやらしいことしてた」
「えっ!」
「なーんか 女子と けっこうかわいい女子と」
「やらしいことってあんた」
「してないよ!」
「なにこれー! 生理? 生理に使うやつ!?」
「出たよ 相川 進歩ねぇー」「さーいてぇ」
「見て ヘアバンドしただけでもう完ペキ 女の子に見える」
「なんなのこの人…」
「いや〜これで女の子の服なんか着せたらどうなるの〜」
「あ あの ぼく もう そろそろ……」
「あ 逃げる気だ」「逃げる気だ」
こうやってしたてあげた志村の世界は、恐ろしいまでに破壊的な客観力を獲得する。ファンタジーとして安心してみておれない。
志村の世界は、ぼくたちの生活に、個人史に、強力な作用をもって浸潤してくる。
内気な少年。
多感な思春期。
それは、ぼくが後からふりかえり、自分の個人史に貼りつけてみたい装飾だ。
高校時代、ヘッセの『車輪の下』を読んだ後、かくのごとく多感な少年でありたかった、とつよく願った。が、歴史はとりもどせない。やはりぼくの少年時代は、「ウンコ」と「勝負」にしか興味がなかったのだ。
ゼットンとレッドキング、どっちが強いかが、生活の主要な関心事であり、ウンコの歌を高らかに歌い上げていたのが、わが少年期である。
そのガサツさは、この作品のなかでいえば、ロザリーを愛らしく演じる修一ではなく、むしろ女子の生理をからかう相川のほうに似ている。
ぼくは、二鳥修一だった――
という歴史の偽造をしたいのだ。
修一になりたい。しかしそれはどうあってもかなわない欲望。
ぼくは、その作品世界に入り込みたいと強く念願し、それがかなわないとき、強烈な寂寥感が襲ってくる。「なぜぼくは、この作品世界の一員じゃないんだ」と。今回もそれが襲ってきた。
なんとか修一を所有したいぼくは、穴があくほど読み返し、何コマか絵を描いたりする。しかし、それはかなわない欲望なのだ。ああ。
1巻のおわりに、セーラー服をきた修一と、学生服をきたハンサムな女の子・高槻あやのが、喫茶店とおぼしき場所で、雨をみつめながらすわっている。「もうすぐ6年生だね」というあやのの言葉に、強くなるばかりの雨をみつめる修一の姿は、取り戻せない個人史の瞬間をあらわしているようで、もうたまんない。
じぶんの性を意識はじめる、二度と戻ってこない瞬間。
「個人史を、歴史を書き換えることはできないのだ」とぼくが宣告されているようだ。
志村は、はじめこれを女子高校生の物語として描こうとしたが「男の子、それも成長期前の方が悩みやつらさもハッキリしていくかな」と思い直し、小学生、それも生活や対人関係がリセットされた転校生という設定に変えた(志村インタビューより)。それは、まさにこの書き換えられない歴史の瞬間を描こうとしたからだ。
1巻は、女の子の姿をした自分に修一が夢のなかで出会うシーンで終わる。
ぼくのつれあいは、「ここで終わってもいいんじゃない」と言ったが、たしかに、この話を思春期の切ない物語としてまとめようと思えばそれが一番いい。
しかし。
志村の客観主義は、容赦のない方向へとつきすすむようだ。
志村はインタビューにこう答えている。
「(小学校高学年は)変化が顕著ですからね。実はそこを描きたくてしょうがないんですよ。体が変化して、わーっと悩んでいく深い展開のところを」
ああ、やめて。そんなむごいことを描かないで。
※ 志村『敷居の住人』の感想はこちら
エンターブレイン
2004.2.29記
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