陽気婢『えっちーず』『内向エロス』



 陽気婢の漫画は、ぼくの妄想の、実に精確なトレースである。

 短編集『えっちーず』に出てくる主人公の男性は、たいてい、気が滅入るくらい気弱で、おどおどしていて、臆病で、受動的である。なにより、その姿態はきわめて中性的だ。「メガネかけてヒョロッとした」(短編集『内向エロス』より)というのも多い。「マッチョな男性」というものの対極にあり、そこにある「男性」的な属性をすべて剥奪したような形象である。(絵柄をみたければこちらを)

「セックスの途中で泣いちゃった私をずっと抱いててくれた
 ときどき見るとあの なんだか
 気の弱そーな笑顔を私に向けた
 やさしい男の子」 (『えっちーず』より)

 その男の子とは、「ぼく自身」である。といっても現実のぼく自身ではなく、性的妄想のなかで、美化され、もっとも心地よい形に抽象化された「ぼく」である。

 日本のラブコメの伝統として、主人公の男の子が受身であるというのは、しばしばなされる指摘ではあるが、たとえばその伝統をまっすぐに受け継ぐ星里もちるの主人公をみても、主人公は「意志的にふるまっている」というイデオロギーをまとっている。それとわかる受動性ではなく、状況による強制や、女性側の「押し」によって、「やむを得ず」流されていくという体裁をとる。
 だが、陽気婢の男の子たちは違う。
 彼らは実に積極的に(?)受身なのである。
 臆病で気弱で言い訳がましく、いつもうじうじしている。
 そのことを何ら隠そうとはしない。

「おどろいたのは、立案者の(石田)三成自身であった。こう、驚くのは智者である証拠であるかもしれない。智者はつねに仔馬のように驚きやすい心をもっている」
                      (司馬遼太郎『関ヶ原』より)

 そうだ。
 臆病とは知性の証拠なのだ!
 と、文系えせインテリヲタは凱歌をあげるにちがいない。
 ものに動じ、慎重をきわめ、自分は傷つかない位置にいつづけようとする「ぼく&彼ら」のツボをつきまくった男性像が、陽気婢の描く男の子なのである。マッチョなもの=反知性と絶縁し、その対極に存在する。行き着くところまで行った受動性こそ、陽気婢の重要な特徴だ。

 だからこそ、陽気婢の本領は、「年上の女性」が「年下の男の子」を翻弄するという作品にこそあると思う(そりゃ、お前のシュミだろうというツッコミもあろうが)。そこでこそ、受動性は全面的に開花する。
 『えっちーず』の1巻だけみても、冒頭の「かえってきたおねえさん」は年上彼女との同棲の話、「ばーじん☆ママ」は血のつながらない「母子」の恋愛、「シングルウーマン」はOLと男子中学生、「アシスタント」は年上の女性漫画家と年下アシスタント、「大人になったら」は従姉妹の年上の女性と男の子……とまあ、そのオンパレードである。2巻になっても、「初めての唇」は若い叔母と家庭教師をする甥、「優等生」は男子生徒と女教師、といった具合に、とどまるところをしらない。
 『内向エロス』では、知的障がい者の青年を、女性がやさしく性的にリードするという話が出てくるが、それは作者が障がい者の性を描きたかったのではなく、徹底した受動性をそこに仮託したかっただけであろうと思う(実際には知的障がい者は、性愛に限らず、能動的でもあれば消極的でもある)。
 その意味で、陽気婢が描くセックスは、あらゆる攻撃性から解放されている。これは「男はリードせねば」うんぬんの強迫観念にとらわれた性観念、そして攻撃性を特徴とする日本の多くのポルノを考えた時、実に貴重なことではあるまいか。

 主人公の男性(男の子)を中性的に描くことと裏腹の関係にあると思うのだが、陽気婢は、男性側の恍惚と絶頂感を実に懇切丁寧に描く。だから、陽気婢を始めて読むと、女性の裸のみを即物的に描く、または、男性の表情や感覚にまったく無関心な「ポルノ」とは大きく隔たっていることに、軽い衝撃をうけるのだ。
 そこには、性的な快感に酔い、絶頂にいたる「自分自身」がいる。
 男性的な要素をすべてどこかにおいてきたうえで、心置きなく「性的な自己」を受け入れ、それを謳歌しつくそうという、文系えせインテリヲタ男性たちの、巧妙な「自意識」が、陽気婢の描く「男性キャラ」ではないか。
 
 他方で、陽気婢の描く女性は、おそらく当の女性がみれば、リアルさのかけらもないことに驚くであろう。陽気婢の描く女性を評した大塚英志は「陽気婢は……まず、性的な身体をそのままにかかえ込んだ少女たちを描く。そこには、自分たちの性行動を規制する内省や葛藤はなく、彼女たちはただ屈託もなく自分たちの性的身体に忠実である」(「大塚英志のおたく社会時評」より)とのべる。
 しかしそれは、おそらく、読者である男性が性的な自己を解放するために、必要な身体と内面を備えたキャラなのである。このまったくリアルさのない女性キャラ、大塚の言い方を借りれば「屈託もなく自分たちの性的身体に忠実」な女性たちによって、男性キャラ=読者である男性たちは、性的な自己を自由に展開できるのだ。もっと極端にいえば、陽気婢の女性キャラは男性の性的な自意識の反射体でしかない
 正直――それはぼくだけかもしれないが――陽気婢の作品を読んでいるあいだ、女性側の性的な快感さえ、それをぼくは自分のものとして受けとめて読んでいる。
 陽気婢の『内向エロス』という短編集のなかには、「ヒトリアルキ」という作品があって、ここでは男性の心が読める女性が、男性の快楽と自分の快楽を一体のものとしてしまう。

「あなたの快感がわたしの快感になるの…」
「区別できなくなってくよ… …ぼくとわたし――」

 また『えっちーず』のなかの「デュアルナルシス」という短編では、セックスする双子の男女(兄妹)が登場するが、「れっきとした同一人物」「一個の自我で二個の身体を操縦している」「つまりふたりの行為は自慰行為にすぎなかった」という設定になっている。
 まさに、そこには自分の性的自意識しかないのだ。だからこそ、陽気婢の女性キャラは、ぼくらのどのような性的行動をもやさしく受け入れてくれる。

 たぶん、陽気婢と同じ感性のない人が読めば、刺激の足りない、うす〜いエロ漫画のようにしかみえないだろう。ところが、いったん陽気婢のツボにハマってしまった人からみると、それはまさに「性的な自意識の一人芝居」なのである。自分の性的自意識を、飼い馴らし、管理し、生涯長くつきあっていきたいと思えば、迷わず読むべきである。






『内向エロス』(全4巻)
内向エロス 2 (2)

『えっちーず』(全4巻)
えっちーず 2 (2)

ワニマガジン社 ワニマガジン・コミックス
2004.9.12感想記(05.3.17補正)
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