柳沼行『ふたつのスピカ』/68点

 農作業用ズゴックというのは、ぼくの某MLでの投稿用PNだが、これは実は、小山田いく『すくらっぷ・ブック』のなかにあるギャグのひとつなのだ。

 『すくらっぷ・ブック』は、70年代末から80年代初頭にかけて少年チャンピオンに連載されていた漫画で、信州の中学生グループの「青春・恋愛漫画」である。他に形容しようがないほどにそうなのである。
 二頭身の「晴ボン」を主人公にして、十名ちかい主要登場人物が、「友情」と「恋愛」、あるいは「裏切り」「闘争」をくりひろげる。

 小学生から中学生にかけてこの漫画を読んだぼくは、疎外感におそわれた。

 「疎外感」は、ぼくにとって、絶大なほどの感銘をうけた作品に必ず襲ってくる感情で、「なぜ自分はこの作品世界の登場人物=住人ではないのだろう」という絶望のような気持ちが「疎外感」となって現れるのだ。家庭科室で悶々としたことを昨日のことのように思い出すなあ。

 小山田はほかにも同じテイストの作品、『星のローカス』『ぶるうピーター』などを描いている。

 ところが、家にこうした作品群をおいておいたところ、兄がこれを手にとった。
 そして、こっぴどい酷評にさらされたのである。

 「くさい。よくこんなものが読めるな」

 それがぼくのトラウマとなって、以後、小山田いくから急速に遠ざかっていくことになる。兄はそれほどぼくにとっては大きな存在だったということもある。

 80年代は、70年代的なものを追放していく時代である。
 バブル的な価値観とサブカル的な欲望が全面開花するもっとも不毛な時代で、政治的には幸福な「社共共闘」=革新統一の時代が終わり、「保守化の時代」と形容される。世界的には「社会主義」(※)の大義が決定的に崩壊していく時代で、アフガン侵攻にはじまり、ポーランド戒厳令、二つの大韓航空機事件、そして天安門事件と東欧の崩壊により、終局をむかえる。社会の対抗軸が表面的には喪失していく時代である。
 「学生運動は大学紛争をもって終わった」という認識が世間では強いが、これは実態に反しており、むしろ組織化された学生運動が大学の最深部で広がっていくのが70年代である。しかし、この急速な瓦解が80年代に起きる。
 文化的な表層は不毛なものが被いつくす。
 歌謡界では、この時代の露払いをした、もっとも不毛なものが「たのきん」であり、この内実のない集団が、ベストテンでつねに上位を占めるという異常事態で80年代は幕を開ける。

 70年代的な友情や希望は、駆逐されていく。

 兄は80年代初頭に大学生だったこともあって、この80年代的な空気を色濃くまとっている世代である。
 兄が好きだったのはジャンプの『1・2のアッホ!』(コンタロウ)のような漫画で、これはぼくも好きだったのだが、70年代的なものにまったく共感を示せなかったところに、ぼくと兄の決定的な分岐があった。ぼくは左翼になれたが、兄はならなかった。


 魚喃キリコのところでも書いたように、ドライさや過酷さのなかで友情がうまれることこそリアリティであるとする風潮は根強く、それが定向進化すれば、「友情」などというものを徹底否定して、あるのは利害にもとづく共闘だけだ、という『ドラゴン・ヘッド』や『賭博黙示録カイジ』のような世界観もうまれる。
 それはそれで一面の真実だろうと思う。

 80年代的なノーテンキさが消え、かわりに閉塞感が腐臭を放って変質し、過酷さや「サバイバル」の空気となって時代を支配するのだ。
 そのなかで、「夢」「友情」や「希望」は窒息しかけている。
 「夢」はない。「友情」を描けば、かならずディスコミニュケーションの問題として描かれることになり、「ひとの気持ちはわからないね」というような話を聞かされることになる。あるいは、いろんな照れや変化球を使って、ようやくわれわれは「夢」や「友情」や「希望」を口にできるのだ。

 ところが。

 柳沼行『ふたつのスピカ』は(ようやく登場)、この70年代的な「夢」や「友情」や「希望」、まっすぐに生きるということを、なんの照れやけれん味ももたせずに、いきなり復活させてしまった。こうしたことを描くのにためらわず、照れもないというところに、この作品の最大の特徴があるといってよい。

 2010年代、巨大有人ロケット獅子号は墜落し、大惨事となる。事故で母親を亡くした主人公の鴨川アスミは、そのときの事故で死んだ宇宙飛行士の幽霊が見え、宇宙をめざすことのすばらしさを教えられる。アスミはロケットの乗組員をめざし、東京の宇宙学校を受験、合格。そこでの学校生活がはじまる。

 まだ完結していないので、なんともいえないのだが、どこまでもまっすぐに生きる、というアスミの姿勢が強く伝わってくる。たとえば、そのまっすぐさに、宇喜多マリカという同級生は次第に心を開いていく。
 アスミの宇宙にかける情熱も人一倍で、入学の面接で、面接官の印象に強烈に残るほどに、希望に満ちた目で宇宙について語る。

 主要な登場人物たちが、いっしょに学校をがんばって卒業しようと誓いあうのに、全員が手を差し出して重ね合わせるというシーンがあり、これは今、「照れ」なしには絶対にできない友情の表現であると思う。また、「宇宙」と「ロケット」への情熱と、星を媒介にしてロマンを語るということも、見る人によっては時代錯誤という印象も受けるだろう。

 だが、柳沼はどこまでも「照れ」を用いない。
 アスミのようにまっすぐで、少なくとも「あとがき漫画」くらいにはジョークや「照れ」をみせるだろうと思ったら、その片鱗さえもみせない。柳沼の絵は、少し吉田基巳(『恋風』『水と銀』)に似ているし、演出の調子は冬目景(『イエスタデイをうたって』『羊のうた』)に似ているのだが、吉田や冬目のような屈折や欲望がほとんど見られないのだ。とにかくまっすぐ。

 現代でこの作風は、奇跡にちかい。

 赤面して本を閉じたくなるかといえば、そうではなく、つい読み進めてしまう。11月1日(2003年)からNHKのBSでアニメ化される予定があり、それだけ広範な支持を受けているのだろうと思う。

 ただ、ドラマツルギーが冬目に似ているといったように、情感ある情景というものに頼り過ぎたきらいがあり、『すくらっぷ・ブック』のときのような感動は、正直、ない。

 いま少女の「夢」を描くなら、安野モヨコ『ジェリー・ビーンズ』のように描かねばならないのだよ。

 だが、これほどのまっすぐさは、どの漫画にもない長所と思うので、苦情ではなく、もう少し精進をしてもらうよう期待をこめておきたい。


※ぼくは、ソ連も東欧も中国も北朝鮮も、「社会主義」だとは思っていません。くわしくはこちら


メディアファクトリー MFコミックス 1〜5巻(以後続刊)
採点68点/100 年配者でも楽しめる度★★★☆☆
2003.10.26記
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