今市子『百鬼夜行抄』



 ぼくに、「厄年」の身内がいて、実際に不幸が重なった。

 その身内は、もともと、地元の神社で厄除けのお祓いをすることとか、厄除けのための年越しのおつとめをウザがっていたので、それみたことかと、わがハハは、息巻いた。

 ――厄除けを馬鹿にしているからそういうことになるのだ。
 お前(→ぼくのこと)も厄除けを馬鹿にしちゃあいけないよ。

 ぼくは車を運転しながら、助手席で気を吐くハハの話をじっと聞く。

 ――厄年っていうのは、慎重のうえにも慎重にならなきゃいけない。お父さんはそうやってきた。だから、いままで無事で来れたのだ。それをあの人〔その身内〕は初めから馬鹿にしていた。厄除けも、村の寄り合いもちゃんと意味のあることなんだから、お前も素直によく聞くんだよ。

 ハハの言っていることの合理的核心をとりだせば、“健康や人生の転換点にある年齢期には、謙虚で慎重に生きねばならない”ということかもしれない。
 そう翻訳し直して、

「なるほど。そうかもしれないなあ」

と答えた。ハハは「そうだよ、ほんとに」と言って同じ趣旨の話をくり返した。

 ハハが特別に迷信深いということはない。田舎から一歩も出て生活したことがない人間のなかでは、たとえば仕事のうちあわせをしているときなど、合理的な部分をもちあわせている部類の人間のようにみえる。
 しかし、人間の運命や幸福という問題がからむと、不意にまったく別のハハが顔を出す。
 この人の人生観や幸福感の、ある一定の部分が、たとえば「厄年」といったような考え方に支配されており、その部分は、「厄年」なるものを軸に世界観が構成されている、ことが垣間見えてしまう。

 そして、そのような厄年といった運命から人間は逃れがたく、それへの畏敬を忘れてはいけないという謙虚さと、その裏側に運命への無力感が透けて見える。

 「BSマンガ夜話」でこの漫画――今市子『百鬼夜行抄』がとりあげられたとき、主人公たちが、一定の霊視の力と、ささいな対抗能力はあっても、根本的にはおきている霊的な現象には太刀打ちできない、ということが話題になったが、確かにその点はこの漫画のユニークさである。他の「お化け」の出てくる漫画だと、主人公たちは妖怪退治の力をもっていて、妖怪とのバトルが見せ場なのに、ここに出てくる主人公たちは、妙に情けない。

「晶ちゃん……確認しとこう 解決しようとか供養しようとかは絶対考えない!」
「わかってる! とにかく逃げる事 それが最優先ね この三人で……」

などと。

 この、適度に対抗はできるけど、大もとでは対抗できない無力さ、という感覚は、ぼくらが自然や社会の不合理、あるいは不運、運命というものにたいする「無力感」と、実によく符合している

 ぼくはマルキストであるから、物質世界にたいする人間の法則的変革という立場をとるのであるが、同時に、それは主体的意志さえあればなんとかなるという主観主義とは無縁のものである。ぼくらの意志をこえた客観的な法則が鋼鉄の力で貫徹されるということのまえに、しばしば、ぼくらは「無力感」にとらわれる。


 ぼくのハハが「厄年」ということにたいしてもっている無力感は、『百鬼夜行抄』で主人公たちがもっている能力の無力さとけっこう似ている。『百鬼夜行抄』が描き出す無力さというものは、ぼくらが自然や社会、そして人間の運命にたいして感じている「無力」さと似ているために、ぼくはそこにこの作品の「リアル」を見い出してしまう。

 さらに、『百鬼夜行抄』にぼくが陰湿なリアルを感じるのは、「イエ」が話題にされる瞬間である。

 ぼくがハハのことを、「こわい」と思う瞬間は、彼女の世界像の深遠に、闇のような因習が澱のように沈澱しているような気がしてならないからだ。
 とりわけ、なにがこわいかといって、「家運」、イエにかかわる話になるときだ。
 ハハから噴き出してくる、得体の知れない臭気は、すべてこのイエにかかわっている。

 ハハは、そして田舎の人々は、イエごとの盛衰、イエを単位にした幸運と不運を、論じる。
 冒頭に述べた「厄」の話も、悪いことがかさなったのは、その身内個人にたいしてではなく、一族という単位でみたときに、悪いことがかさなったというのである。
 同郷の、別の知り合いの話だが、娘の不運のことで、親が百万円を払って祈祷師を頼んだ。おかげで娘の運勢が立ち直り、立派な新築の家屋を建てて、安定した職にもつけたという。

 そういう話を聞くと、たまらない。

 日本は、戦後、農地解放によって半封建的寄生地主制が解体され、戦争の温床となった前近代の諸条件を除去した。その後に来るさまざまな日本社会の「おくれ」とは、それとは別の、もっと近代的な現象だとぼくは考えている(この問題については、渡辺治『企業支配と国家』p147〜150が参考になる)。
 農村部においてさえ、社会の主要な部分からは、前近代的なイエにまつわる課題は、ほぼ確実に消滅したとぼくは考える。

 しかし、それでも、どこかに固まってそれが残存しこびり着いて落ちない、という場合がある。
 すでにその澱みの残存物にたいする免疫も対処法も記憶もなくしてしまいつつあるぼくらの世代は、そういう闇に出会って、気分を悪くするばかりだ。

 ぼくが、今市子『百鬼夜行抄』を「怖い」と思う瞬間は、イエにまつわる話である場合が多い。

 一家の数と同じだけの人形が「小さな棺桶」とまごうばかりの箱のなかに入れてある話、「人形供養」。呪われた家に越してきた一家の悲劇を描いた「魔の咲く樹」。父に死なれ家から出られない女性の話、「秋しぐれ」。そして、長い間イエの祭をしないために、家守の妖怪が出ていってしまう「逢魔の祭」。
 話の細部や整合性というものはどうでもいい。
 一家が壊滅したり、家運が傾いたりしていく話では、たいていは、一家の人々はおきる事態にたいして無力であり、外=社会からの助けも借りられずに、自滅するように滅んでいく(そうでない話もありますが)。

 このイエの澱みよう、カビ臭さは、どうであろうか。

 お化けなんていないさ、お化けなんてうそさ、寝ぼけた人が見間違えたのさ、と強がっている子どもが、実は墓場の前を通るのが一番怖かったりする。
 ぼくは「イエという課題はすでに終った」とうそぶいている子どもである。だからこそ、イエの話をこれほど怖がることができるのだと思う。


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2004.3.22記
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