小谷野敦
『評論家入門
 清貧でもいいから物書きになりたい人に



評論家入門―清貧でもいいから物書きになりたい人に  あとがきにこうある。

「詳細な目次つきの企画書による書き下ろし依頼は時々あるが、たいていはくだらない人生論なので、断っている。本書を引き受けたのは、こういう題名の本がほかにないからである」

 ここから推測できることは、本書はもともと、小谷野のここにいたるサクセスストーリー、とまでは言わないにせよ、評論家になるまでの人生を語る、小谷野ほそうで繁昌記、として構想されたが、それは「くだらない」ので形にしなかった。しかし、「評論家入門」としてなら、同じ題材を扱うにしても書いてもいいなと食指がうごいた、ということであろう。えーと、まったく勝手な推測なのだが。

 ネット上での本書への評をみると、タイトルをみて集蛾灯に集まる蛾のようにむらがり、目を血走らせ垂涎しながら濃いハウツーたるを期待したが、がっかり、羊頭狗肉じゃん、というタイプのものがちらほらある。
 ぼくもそうやってむらがった一人なので、気持ちはよくわかる。
 これは、タイトルから想像されるようなベタな指南書ではない。

 本書は、小谷野の評論家人生の生成、すなわち「評論家・小谷野」が形成される論理と歴史、認識の発展史を、タイトルの「評論家入門」「清貧でもいいから物書きになりたい人に」という角度で再構成したものである。
 だから、ぼくらは、小谷野の評論家としての軌跡を読むようなつもりで買い、そのなかに評論家の生成=どうしたら評論家になれるのか、評論家になる条件はなにか、ということを探るつもりで読めば、期待外れだといって怒る必要はなくなる。

 章タイトルをならべてみよう。
  • ものを書くという仕事――まえがきにかえて
  • 第一章 評論とは何か――「学問」との違い
  • 第二章 基本的な事柄とよくある過ち
  • 第三章 評論をどう読むか
  • 第四章 『日本近代文学の起源』を読む
  • 第五章 評論家修業
  • 第六章 論争の愉しみと苦しみ
  • 第七章 エッセイストのすすめ、清貧のすすめ

 このうち、ぼくが楽しんだ章でもあり、また、評論家になるにあたって、実は最低条件というか、クリアされるべき「資格」だと思われたのは第六章、すなわち「論争」ということだった。
 ちなみに博識であるとか、文章が面白いとかということは、「資格」ではなく「資質」にかかわる問題であるとぼくは思う。

 もう少しいうと、評論家あるいは物書きとして世に出るということは、「論争」にたえうるということ、「論争」が大げさなら「苦情」にたえうるということではないか。
 「たえうる」とは、しんぼう強く我慢しているという意味ではなく、「たたかえる」という意味であり、すなわち「ワキが甘くない」という意味でもある。もっとぶっちゃけた話、「不用意なことは書かない」ということ。
 どれほど文章が読ませるとか、面白いとか、ものすごく博識(または深い知識)があるとかいっても、評論家のような稼業の場合は、ワキが甘ければそもそも評論家へのパスポートさえ持っていないということを意味するんじゃなかろうか。

 これは政治の世界の論戦でもそうであるので、よくわかる。
 ビラや議会で不用意なことを言うとたちまち敵陣営につけこまれて、大打撃をうける。この点では、公明党と共産党のガードの固さは天下一品である。

 最近、民主党が国会で、“公明党支持団体が住民票移動をしている疑念がある”というむねの発言をおこない、公明党がこれに猛然抗議し、ついに「遺憾」を表明させられるところまで追い込まれたという事件があった。
 これにたいし、共産党の不破が、東京の目黒区を例にあげて、公明党は中間選挙である都議選では莫大な票が出るのに、総選挙など全国いっせいの選挙になるとガタ減りするということをとりあげて「人為的な票の積み増し作戦」とのべたことがある。これに公明党がかみついたのだ。しかし、こちらのほうは、結局不破にかわされてしまい、逃げられてしまった。

 「住民票移動」では明確な証拠が必要になる。しかし「不自然な票の積み増し作戦」というのは、たとえばビラや電話を特別に集中して支持を広げるというのでもそれにふくまれるので、まことにあいまい。これを直接たたくことはできない。民主党は寄り合い所帯、いわば個人の勝手な活動の集積であり、集団的検討を経ない場合が多いから、どうしても論戦などはワキが甘くなる。これにたいし、公明党や共産党の論戦や対応は、スキがない(これは、たとえば共産党の安保破棄論を政策的に批判するのとは次元のちがう話である)。

 ま、上記の例は「大打撃」という例ではないが、地方選などでは、不用意なビラの一言がたたり、派手に攻撃されて落ちている例をしばしば見る。

 ぼくも組織左翼の一人であるから、政府や与党を批判するビラを出すが、一言ひとこと、つけこまれないように細心の注意で書く。それでもぼくはアホなのでワキが甘くなるのだが。

 別に、これほどギリギリのところで争わなくても、とにかく公的なメディアでモノをいう人間、とりわけ何かを評価し批判する評論家という人間にとって、クレームや攻撃、論争というのは一種の宿命のようなもので、ガードが甘いことは“命取り”になる。
 ぼくが感心するのは、小谷野などの評論家連中が、組織の力をもたずに個人技でやっていることである。組織をもっているということは、実に心強い。安心感がまるでちがうのである。
 これにたいして、評論家のように論戦を個人でやることは――たとえ編集者が手伝うにせよ――いかに神経をすり減らし、胃に悪そうなものであるかは、想像にかたくない。

 小谷野が、

「いま述べたように、論争というのは、なかなか精神的にきついものである。胃が痛くなったり、自律神経失調症になったり、いろいろある。これを免れるいちばん簡単な方法は、徒党を組むことである。たとえば、論争でなくとも、共産党や創価学会に所属していれば、何者かと戦うにも万事都合がいい。だから私も、共産党に入ってしまおうとか、と考えたことがあるくらいだ」(p.207)

というジョークをとばしているのは、その心情の表現にほかならない。
 小谷野が六章で、メールをつうじての細かいやりとりの論争椿事までご開陳しているのは、けっこう笑える。当の本人には、腸が煮えくり返る思いのことだったり、身を裂かれるような話にちがいないのだが、他人のぼくらには喜劇にみえるのだ。

 そういう具合に、けっして無味乾燥なハウツー本でもないし、かといって、自分の人生を飾り立てただけの自慢本でもない。

 とくに第五章は生々しい。売れないという時代にどんな焦躁に見舞われるかが、赤裸々に書いてある。大学の三年先輩である佐伯順子が売れてどんどん有名になっていくのに、自分は売れないという気持ちをかかえ、くさっていたことを、小谷野はこう書いている。

「この年も、佐伯順子さんは、『太陽』『宝島30』その他、四つくらい連載を持っていた。『日本の美学』などという商業学術誌にまで連載していた。そういう雑誌の発売日が来ると、短大の授業で疲れて帰ってきた夕刻、駅の最寄りの書店へ行って立ち読みし、憧れと嫉妬でぎりぎり脂汗を流した。のちに私は佐伯さんの仕事を厳しく批判することになるが、その根底にこの時の嫉妬と怨念があることは、否定できない」(p.148)

 まあ、こういう話は、後で周囲から憶測されたり揶揄され本人が否定するなどという構図にもちこまれるより、先に書いておいたほうがラクだという狡猾な意図もあるだろうが。

 それでも小谷野のスタートポジションは、世にあふれる「物書き」志望者のそれにくらべれば、はるかにマシで、かつ華やかである。26歳で本を出し、その後も途絶えがちではあっても依頼が来るのだから。

 ブログを回っていると、「書きもの引き受けます」という看板や、連載・執筆歴を付しているものなどを頻繁に見る(当研究所もそうしているわけだが)。他のことだけは軽やかに切ってみせても、そういう自意識にだけは、どの人もなかなか触れられない。それが澱のようにネットの下の方にたまっているのがわかる。「書かせて書かせて書かせてーっ!! ハアハア」というどす黒い(?)エネルギーがネットには満ちみち、鬱屈し逆巻いているのだ。

 そこに目をつけた小谷野の商魂はなかなかたくましいものである。

「いまインターネットのホームページなるものを覗くと、まあ実に多くの人が、たくさんの本を読んではその感想文を日記のようなものに書きつけている。実のところ、レヴェルの高いものは高いが、低いものは恐ろしく低レヴェルで、読んでいて不快になることも少なくない。おそらく彼らは、自分の書いたものを人に読んでほしいのだろう。ホームページに目を止めた編集者から連絡があるのを待っているのかも知れない。それなら、私はこうした人々に、やはり活字の世界へ浮上することを勧めたいのである」(p.18)






『評論家入門 清貧でもいいから物書きになりたい人に』
小谷野敦 平凡社新書
2005.8.15記
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