吉村昭『漂流』
『サバイバル』『まだ、生きてる…』にもふれて




 すこぶる有名な小説だそうだが、ぼくは知らなかった。これほど面白い小説を読んだのは久しぶりだ。かなり気が滅入ることがあったときにこの小説を手に入れたのだが、その憂さを晴らすには十分な魅力をもっていた。

 江戸後期(天明年間)に土佐(高知県)から漂流し、東京から600キロ離れた伊豆諸島の鳥島という無人島に漂着した船乗り・長平についてのドキュメンタリーである。

 もともとなんでこの小説を手にとったかといえば、『資本論』関連の話で、商品経済(市場経済)というものが必ず他人のために生産をおこなうことを特質としていることと比較して、自給自足経済というものを示すわかりやすい例をさがそうと思っていたからである。
 『資本論』のなかでマルクスが使っているのは、ダニエル・デフォーの『ロビンソン・クルーソー』である。そこで同じ無人島モノで何かないかと探していたのである。

 もっともこの長平の物語自身は、以前テレビで見た記憶がおぼろげにあり、それで「鳥島」「漂流」みたいなキーワードで探してこの本に漂着したという次第。

 さいとう・たかを『サバイバル』は大地震発生の日本を描いた空想漫画であるが、孤島になった山頂に取り残された14歳の少年がサバイバル生活をする様子が出てくる。
 苦労して魚や鳥を獲る様子、手持ちの道具でどうやって火をおこすか、ネズミとの格闘など、サバイバル生活の技術について一つひとつウンチクを傾けるような描写が楽しい。こういうの大好き。
 とくに学校で習った中途半端な知識が毒キノコと食用キノコを誤解させ、主人公が悶え苦しむというのが、他人事ながら面白かった。
 本宮ひろ志『まだ、生きてる…』ではさえない定年サラリーマンが死ぬつもりで始めた山の生活の描写がそんな感じである。イノシシによって腹部を傷つけられ生死の境を彷徨うが、生き残ろうとする強い意志のもとで山にあったさまざまなモノを駆使してそれをのりこえていく描写や、イノシシをとらえたり、塩をどうやってとるかなどのウンチクがやはり面白い。
まだ、生きてる… (ヤングジャンプコミックス)  余談であるが、『サバイバル』も『まだ、生きてる…』も孤独なサバイバル生活に突如「美女」が登場する。どう考えてそこはヤルだろ

 『漂流』における小説の楽しさの一部は、こうした他の「サバイバルもの」の楽しさと同じである。
 漂着した島には、水が出るような泉もなく、井戸もつくれない。また、これといった食用の植物も存在しない。海産物もわずかしか捕獲できない。
 そうした中で、どうやって生きていくかを読むのが楽しいのだ。『ロビンソン・クルーソー』について「物に淫する」と題したレビューを書いたのはそんな気持ちからだった。

 しかし、本作がそうした「サバイバルうんちくモノ」(そんなジャンル名はないが)とは違うのは、「サバイバルもの」では必ず基調になっている「生き抜くための強い意志と知恵」というテーマが、実録ゆえに非常に説得力あるものとしてぼくらの前に提示されるということだろう。

 『漂流』の主人公たちは海難に遭って死んではない。そして漂着した場所も絶対的に食物がとれないという場所ではない。また、最終的には工具なども手に入る。
 つまり、最悪の事態に対して、いくつもの「幸運」を手に入れているのだ。まあ考えてみれば当たり前の話なのだ。途中で死んでないわけだから。

漂流 (新潮文庫)  しかし、その「幸運」を漫然と「偶然」の領域にしておかず、それを最大限に生かして、生存の次のステージへつなげ、ついには脱出を図ってしまうというところに、おそろしく強靭な意志、知恵、力を読者に感じさせるようになっているのだ。

 たとえば、アホウドリである。
 島にはめぼしい海産・植物由来の食料もなく、井戸や泉もない。そうしたときに、島を埋め尽くすほどのアホウドリが生息していることを知る。アホウドリは、人間が近づいてもまったく警戒せず、ほとんど労せずして捕獲できてしまうのだ。

〈長平たちが近づいても、鳥は、なんの反応もみせず逃げる気配もみせない。音吉が、大きな石を一羽の大鳥の頭にたたきつけた。鳥は羽をばたつかせたが、二度、三度石で頭部をたたくと動かなくなった。
 音吉が鳥を殺しても、近くの鳥は少しも動揺せず、眼を半ば閉じて居眠りをしている鳥もある。長平たちは、次々に鳥をたたき殺した〉(p.117)

 それが島を埋め尽くすほど生息しているのだ。
 これで万事食料の問題は解決、と思ってしまうはずである。
 ところが、アホウドリは渡り鳥であり、夏になるといっせいにいなくなってしまうのである。そうなると、食料事情は一変する。
 そのことに長平たちは、すんでのところで気づくのだった。
 アホウドリが次第に減っていくことからそれを敏感に見抜き、干し肉を大量につくっておくことを提案するのだ。すでに白骨になっている大昔の漂流者たちはおそらくそれに気づかなかったのではないか、と長平たちは推測した。
 さらに、鳥の干し肉ばかりを食べて、洞窟でじっと動かない生活をしていると体をこわしてしまうということにも、経験的に気づく。

 このようにアホウドリという豊富な食料の存在という「幸運」を目の前にしたときに、そこに安住してしまわずに、そこにある落とし穴に気づき、克服しようとするのである。その長平の姿に、ぼくらは生き残りのために強い、そしてリアルな意志を感じる。

 あるいは、後で別の漂流者たちがたどりついたとき、大工道具などをかなり手に入れる。それがたしかに長平たちの島での生活を多少は快適なものにするのだが、驚くべきはそこから長平が脱出のための船をつくろうと言い出すことだった。
 船の材料となる樹木が島にはない。漂流してくる流木や難破船の素材をかき集めるという気の遠くなる作業が必要だった。さらには、船をつくるためのクギ、その素材となる金属(鉄)がほとんどなく、これも漂流物などから、やはり気の遠くなる時間をかけて集めるよりほかなかったのである。さらにいえば、造船に必要な形のクギに鋳直すために、それを溶かすのに使うふいご(金属加工に使うために、火力を強めるために用いる送風装置)を、誰も作ったことがないのき記憶を頼りにつくろうとするのである。

 小説中最も強い人間の意志というものを感じる箇所はおそらくここであろう。大工道具を入手したという「幸運」は、ただ島での生活を快適化させるためだけに使うと考えるのがぼくら凡人の発想なはずだ。
 そこから材料もなにもない状態で船をつくって脱出しようなどと誰が考えるだろうか。「無人島に流されれば誰だってそれくらいは追い詰められるだろう」というふうには、ぼくには思えなかった。
 できるかどうかもわからない船、船ができてもどこへ行けばいいのか皆目見当がつかない自分たちの地理感覚、万が一うまく船ができて正しいコースを歩めたとしても航海が何日かかるかわからず気象悪化による沈没の危険にたえずさらされること——そんな悪条件があるのに、そもそも船を造ろうとかまず考えねーよと思ってしまう。
 しかし実際にはやってしまうのだ。それが史実だからこそフィクションでは決して構築できない説得力が生まれてくるのである。

漂流記の魅力 (新潮新書)  吉村は『漂流記の魅力』(新潮新書)の中で、日本に遺された一連の漂流の記録を〈日本独自の海洋文学〉(同p.187)とのべ、高い位置づけを与えようとしている。また、吉村は〈二十代の頃、この日本という島国に漂流記という充実した記録が遺されているのを知り、それにとりつかれた。/千石船と俗に言われている江戸時代の日本の荷船が、暴風雨に遭遇して漂流する。激浪にもてあそばれ、乗組みの者は飢えと渇きにさらされて大半が死亡するが、中には辛うじて異国の地にたどりつく者もいた。かれらは、病いにおかされたりその地の者に殺されたりして息絶えるなど、さまざまな苛酷なドラマがあって、百に一つのような幸運で日本へ帰りつく例もある〉(同p.186)とその魅力を述べている。

 漂流記が単なる「奇譚」にとどまらない魅力をもつのは、そうして手に入れた幸運=偶然を、意志の力によって生存と帰国の必然にまで高めてしまおうとするその近代性にあるのではないか。

 ところで、先ほど紹介したさいとう・たかを『サバイバル』には〈いまから二百年ほど前に書かれた“座臥記”には、無人島に流れついた日本の船乗りたちが、船釘を打ちのばした釣り針やナイフで……魚をとり…鳥をとり……十数年生きのびた事実の記録が、くわしく記されている〉とあるのだが、これはまさに長平の話ではないか。そしてあたかも『座臥記』というタイトルの本があるかのように書いてあるのだが、そんな本はないのではなかろうか。





新潮文庫
2009.7.1感想記
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