きづきあきら+サトウナンキ『いちごの学校』


※以下の感想にはネタバレがあります。ただし、この作品はストーリー展開を「知らない」ことで面白さは付加的に増すとは思いますが、ストーリーを仮に知ったとしても作品そのものの価値はまったく減じない、何度でも再読に価するものだとぼくは思います。




 これは……重い。
 ずぅぅぅぅぅんとみぞおちあたりに来た。
 赤ん坊を寝かしつけながら読んだだけになおさらかも知れないが。

 オビには「元教師と元生徒+赤ちゃんのほんのり苦くて切ないラブストーリー」とあるが、いやいやそんな「ほんのり苦くて切ない」どころじゃなかった



「責任」をめぐるあまりに重い議論と展開


いちごの学校 (ヤングキングコミックス) ソツなく教師生活をこなし周囲の評価も高い主人公の男性教師・大宮壱吾が、女子高生・板橋くるみにハマってしまい、くるみもまた強く惹かれてしまう。
 やがて妊娠し、大宮は職を失い、くるみは退学となるのだが、高校での二人の関係の進行と、大宮・くるみの結婚生活が交錯しながら物語が展開していく。

 何が驚いたといって、妊娠が発覚して「責任」をめぐる騒動になる、まさにその「責任」という問題について、この作品のメインといえるほどにページを割いていることだった。

「できる限りのことをしたい
 たまたま教師と生徒だったのが
 ひっかかるかもしれないけど
 よく話しあって出した結論なんだ

 彼女はまだ…子供かもしれないが 賢い子だ
 あちらのご両親も認めてくれたので年令的にも…
 自分の意志で結婚を望んでいる

 悪いのは俺で 俺に選択権なんてない
 彼女をこれ以上 傷つけたくないんだ
 一生俺がそばにいて守ってやる事で 責任を…」

 これは、大宮が自分の父親の前で「責任」について語るセリフである。教師と生徒の間に性的関係がむすばれ、妊娠という騒動になったとすれば、おそらく最も「常識的」に唱えられる「責任」の言葉であろう。
 そして、この大宮の陳腐な「責任」論は、父親の「黙れ!」という一喝によってさえぎられてしまう。

 一番最初に大宮が「責任」を語るのは、事件が発覚した後で同僚教師の前で、とぎれがちにしゃべるシーンである。

「森田先生 僕は
 僕達はいい加減な
 気持ちでつきあった
 わけではなくて」

 この「責任」論も、これまた安い。教師が「教え子に手をつける」という問題の重さをほとんどひきうけていないからだ。同僚教師によって、このチープな「責任」論は、粉々に砕かれていく。「もう君自身には選択の権利などあると思うな」。
 選択はお前にはなく、生む側にのみある――この同僚教師の説諭はまったく正しい。最近ぼくが書評を紹介した『フツーをつくる仕事・生活術 28歳編』でも「妊娠」について次のように言っている。

「子どもができたから責任をとって結婚する、というケースが非常に多いと思いますが、私たちは子どもを産むか産まないかという選択と、結婚をするかしないかという選択は分けて考える必要があると思います。……女性の視点から見ると、子どもができたからと言って、子どもの父親と結婚することだけが子どもや自分にとって幸せであるとは限りません。信頼し合っていない両親のもとで育つのは、子どもにとって不幸だと言えるでしょう。……男性の視点から見ると、話がかなり複雑になります。産むか産まないかを決めるのは女性で、女性の決断に合わせて自分のすべきことを考えなければならないからです。男性が決めることができるのは、結婚するかしないか、ということだけです。……男性の側は性行為の段階で、本人の気持ちはどうであれ、子どもをもつことに同意していることになります」(『フツーをつくる仕事・生活術 28歳編』p.200〜202)

 いわば同僚教師の立論は、ある種の「常識」をうがつ正しさをもっている。大宮はこの同僚教師の説教に従ってくるみに「選択の自由を宣告する」のであるが、作者はこうした「責任」の取り方さえも許さない。作者は同僚の「正しさ」に身を委ねるようにしてくるみに接する大宮を、その「責任の重さを引き受けていなさ」ぶりにおいて許していないのではないかと思えるほどだ。

 あるいは、大宮は行政的処罰(懲戒解雇)を受けることで、カタルシスを得ようとする。自分はもう十分に罰せられたではないか、というポジションを得たいのであろう、とぼくは推察する。そして、作者は大宮に対しそのような精神的「満足」さえ得させようとはしない。
 学校と教育委員会にとって「恥ずかしいこと」だから、と生徒だけを退学にして、大宮は「クビ」にならず「自己都合」での退職という形をとらされる。生徒だけ罰を与えられて教師だけはのうのうとしている、という格好の非難の的となるのだ。

 作者は、まるで旧約聖書で神がヨブにあらゆる試練を負わせたように、大宮に責任の重さを突きつけ続ける。
 そして、本当に一人の女子高生だった若者の未来を奪うつもりがないのであれば、大宮が子どもをひきとったうえでくるみを「解放」する「選択の自由」を与えるべきではないかというところまでつきつめるのだ。
 親子3人での「ハートフル」なシーンをさんざんに描いてきたあげくに、こんな選択肢をつきつける展開に身悶えする。貧しいながら心温まる3人家族の「現在」と、するどい緊張の走る事件のあった「過去」とを交錯させて描いたのは、ラスト近くに読者へこうした鋭利なナイフを突き立てるためであったかと慄然とする。

 くるみは、「…そうだね その方がいいかもしれないね…」といって、父子のいるコマから退去するような仕草でその章を閉じる。読者は「ああ、くるみは行ってしまったのだな」と当然に思うところだ。

 しかし、作者はもう一つの章「LAST LESSON」を最後に用意する。
 大宮とその老いた両親、そして幼児が歩いている。老親と大宮は「責任」について文学作品――有島武郎の『小さき者へ』の言葉をまじえながら論じている。
 読者はくるみがいなくなって赤ちゃんをひきうけた大宮の身の上を思う。

 ところがである。
 「あ かあしゃん」とにわかに子どもが叫ぶ。
 そう、コマの先の方にいただけで、くるみは去っていなかったのだ。
 読者は本当に明るい、何か救われたような気持ちでこの「ラスト」を受け取るだろう。「いろいろあったけどもこういう幸せの形に落ち着いたのはよかったじゃないか」と。「卒業式」が学校の日常をすべて清算してしまう「儀式」であるように、あらゆる「責任」をめぐる論議は、おそらく読者の心のなかでケリをつけられてしまうだろう。読者は「救われる」のだ!

 ところが。
 これが「きづき+サトウ」流である。さらに「ところが」なのだ。
 親子3人で帰る最中に、ふと女子高生の一団に目が行く。
 くるみは、大宮が「その動物みたいにぴかぴかした目」と評したその目で女子高生の一団を眺める。「その動物みたいにぴかぴかした目」とは何か。大宮は「何を考えているかわからない目」とも評している。動物の目はある種の生き生きとしたものがあるけども、何も見ていないかのような空虚さも同時にある。そのような「うつろさ」がある目なのだ。自分が失ってしまった一つの未来の選択肢を、とりかえしがつかないという目線で眺めるくるみがそこにはいた。作者はそれを見開きいっぱいを使って描く。
 安堵していた読者はまたしてもヤラれる。
 安心しきった後に後頭部からバットでフルスイングされる心境。

 物質の重量は半永久的に減じないように、引き受けたはずの責任の重さは1グラムも変わっていないのだ。そのことを作者は決して読者に忘れさせない。そのうえで、夫婦はもう一度手をとりあう。大宮の力のない目の光をみてほしい。それほどまでに重くても前に踏み出す、という重さなのだ。なんという凄絶な光景。

 作者は、有島武郎の『小さき者へ』の中にある、「前途は遠い。そして暗い。」という言葉を、ただのかざりではなく、肺腑をえぐるような深刻さで受けとめたうえで、「然し恐れてはならぬ。」という言葉で有島が続けている意味を、考え抜いている。

 現実はこれほど過酷ではあるまい。
 もう少し要領のいい始末のつけ方というものがあろう。
 しかし、「きづき+サトウ」はあえて「責任の重さ」ということをとりだして、徹底的にデフォルメをほどこした。それゆえに、この作品はヌルい現実をはるかにこえた、現実以上のリアリティを読者の心に刻み込ませる傑作となっている。



現実の重さと、欲望と、叙情を鼎立


 以前ぼくは、性的虐待をモチーフにした、きづきあきらの短編「suiside note」(『氷が溶けて血に変わるまで』所収)について、

「きづきが描く双子は、いくら『無気力で眠ってしまう』とか『「パパ」とは呼べず「あの人」と呼んでしまう』という設定を構築してみても、表情においても行動においても、あまりにも豊かすぎる。現実がもっているディープさや深刻さはこの漫画からはいっこうにただよってこない。この漫画が、『重かった』り、『胸をえぐる』ということはない。/じっさい、この短編の終わり方は、きわめてリリシズムに満ちている。/月の美しさを感じ取れることを生の喜びと結びつけているのだが、それは現実世界に展開している虐待の深淵からの脱出とは縁のない、抒情にすぎない」
「話にふさわしい絵柄というものがある」
「きづきあきらの絵柄は、もともと欲望や『萌え』をさそう絵柄で、現実のリアルを描くには飛距離が短すぎる。それは欠陥がある、という意味ではない。活躍場所が違うというだけの話にすぎない」

書いたことがある


 しかし、ぼくはいまこれを撤回しよう。というか、見解を発展的に解消しよう(←よくサヨが使う便利な「撤退=転進」的用語)。
 『いちごの学校』は、現実の重さも、自分の欲望や感情を強力に込めることも、そしてある種の叙情も、すべて同時に成立させているすばらしい作品である。抑制を効かせながら、大宮とくるみが最初にキスをするシーン、セックスを思わせるシーンは、ぼくが感情や欲望をこめるに十分な絵柄だ。そしてなおかつ、上述のとおり、鉛のような責任の重さをぼくらに突き付けてくる。

 そして「叙情」も。
 作者は親子3人の生活の描写はきちんと出産と育児の現実にのっとりながら、そこに叙情を配置することに成功している。
 1カ月検診のあとで赤ちゃん用のベビーバスから普通の風呂桶に入浴させるというキメ細かい描写、気持ちよさそうに、そして無心に体をあずける赤ちゃんの描写も堂に入ったものである。「ふふ 安心しきってる」と入浴する赤ちゃんを見ながらうれしそうにつぶやくくるみに対し、大宮が「まったくなあ 俺達がとんでもない悪人だったらどうすんだ こんな頼りない 俺に命をあずけちゃって…」というのは、まことその瞬間に味わう父親の気持ちである(ちなみにぼくの知り合いは「二度湯舟に落としました」と言っていたが)。そして、「……姿が見えてなかっただけで お腹にいた時からそうだたんだよ」とくるみが優しく諭すのも、また男女の敏感さの差というものであろう。

 お出かけのさいの荷物の周到な準備、出産の時の子宮口の開き方の「遅さ」への驚き加減、赤ちゃんの成長の「段階」ごとの細かい描き分けなどがどれも「リアル」である。よく取材しているか、身近にこうしたケースがあったとしか思えないほどだ。赤ちゃんといえばただふぎゃふぎゃしているものを描けばいいというわけではなく、1カ月ほどの新生児は首がすわらず、入浴時には本当に体をあずけるように入っているのだ。

 草原のようなところに、くるみがあかちゃんを抱いてたっているシーンに、こう書き付けてある。

「結婚して 父親になった俺は
 まるで別人になってしまった

 住んでいる世界も 価値観も道徳も人生観も文化も
 全く変わってしまって 言語も通じない生き物の世話をしながら
 未知の世界を旅してるみたいだ
 でもそれは不安だけど 刺激的で楽しくて
 退屈なんてしてる暇もない」

 ぼくは、出産を境に人生の調子がまるでかわってしまい、「未知の世界を旅してるみたい」と描写される気持ちが何となくわかる。

 最近『ご出産!』シリーズや『赤ちゃんのドレイ』、阿部潤『はじめて赤ちゃん』とかばかり読んでいるので、出産や育児にかんする「瑣末的リアリズム」はいささか食傷気味なほどである。
 赤ちゃんを持ったということを、少々リリカルに感じさせてほしい、しかし寝言ではなく――と思っていたところにこの描写であった。
 あとがきで作者は「最初の方では『ハートフルファミリー物語』とかついていたのが消えてた気がします。…す、すみません」と書いているが、前半部分はとりわけこうした叙情的なテーマの作品になるのかなと思わしめるほどに、微妙で繊細な親子の幸福感が漂っている。

 これらがすべて「きづき+サトウ」の作品の中で同居している。すばらしいことだ。
 そもそも手塚治虫が描きはじめた頃、「漫画で複雑な内面など描写できるわけがない」と言われていたのを日本の漫画はくつがえしたわけだから、絵柄で限界を論じるのはたしかに軽卒だった(まあ、それにしたって、あるタイプの物語に親和的な絵柄というものはあるのだけどね)。


 厳密に言えば、『氷が溶けて…』はきづきあきら名義の作品である。
 サトウナンキが共同の名義に加わるのは、ぼくの体験では『ヨイコノミライ 完全版』の後書きからだった。ぼくの印象では、共同作品になって、俄然よくなった。『氷が溶けて…』ではあれだけ厳しいことも書いたけども、『ヨイコノミライ』は新聞書評でもとりあげさせてもらったし、ムックで年間のベストの一つに入れさせてもらった。
 ぼくが不明だったのか、サトウの協力が功を奏したのか、果てまたはきづきが大きく変化したのかはわからないが、ぜひ今後もこうした方向を進化・深化させていってほしい。

 題名の『いちごの学校』について。主人公の大宮壱吾が、冒頭で現代国語――夏目漱石の「エゴイズム」について教えているシーンが出てくる。大宮壱吾の冷めた目。知識としての文学。この物語の出発点において、大宮壱吾の経験と概念は完全に分離している。
 しかし、この騒動の渦中に身を置くにいたって、大宮壱吾はかわる。泉鏡花、中原中也、武田泰淳、有島武郎、サン=テグジュペリの文章が一つひとつ食い込むように自分の人生の叫びを代弁するものになる。もはやそこでは文学は「ゲンコクというメシのタネとしての知識」ではなく、「人生の切実な言葉」として再登場してくるのだ。皮肉なことに、それは大宮壱吾が学校を辞めるにいたって「学んだ」ことであった。
 「いちごの学校」とはこのことである。

 決して、「この単行本表紙に載っている女の子がいちごっていうのかなあ…」などと考えて、「いちごの学校」→先生が好き→プライベートレッスン→(;´Д`)ハァハァ……などと考えてこの本を買ったぼくエロオタの欲望のことではない。
 タイトルは『いちごの学校』。萌えを感じさせるきづきの表紙。そして「先生が好きで…興味があります。」「元教師と元生徒+赤ちゃんのほんのり苦くて切ないラブストーリー」などというオビ。もうこの一連の小道具がトラップとしか思えない。なぜならこのようなオビに惹かれて、ぼくのような色ボケのエロオタが鼻の下を伸ばしながらうっかり一読しようものなら、猛毒に苦しむことであろうから。毒いちごである。

 そして、同時に、本作はすばらしい傑作である。




きづきあきら+サトウナンキ『いちごの学校
少年画報社 ヤングキングコミックス
2007.8.7感想記
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