おおひなたごう『遺伝子レベル剣』

 80年代のしりあがり寿の短編のなかに「お母さんは落ち武者」というのがある。
 「お母さん」というものが附随させている空気と、「落ち武者」というものがまとっている雰囲気という、絶対的に相容れない異質さを組み合わせるというパターンは、90年代から今日にいたるまでギャグ漫画の一つの流れをなす。

 おおひなたごうが真骨頂を発揮するのはこの流れのなかにおいてである。

 この短編集のなかには そうでないギャグも多数存在する。
 冒頭の「死神魔球」はなんだか古典的なコントとか落語のようだし、「(巨大ロボ)藤井フミヤのFMスナイパー」の空中分解図のおかしさは、『ゴールデン・ラッキー』のおかしさである(大笑いしたが)。ここには、おおひなたの本領は存在しないのだ。


 この短編集のなかで、「異質なものの組み合わせ」の精華は、「はなまるマーケット」であろう。

 藤子不二雄+赤塚不二夫ふうの家族団欒の夕食の横で、タケシが十露盤板(洗濯板みたいなやつ)の上で体をしばられて正座する「石抱き」の拷問をうけているシーンで始まる冒頭は、もうかなりキている。
 ラスト1ページのギャグの勢いは鬼気迫るものがある。
 「変わり身の術」で石抱きの拷問を受けるタケシが丸太にすり替わっているのだが、ただ丸太の着ぐるみを着ていただけで、「なーんだ」といってこの着ぐるみを剥ぐお父さん。(こう文字で解説していても、読んでいない人には9割がた意味不明であろう)そして、藤子不二雄+赤塚不二夫ふうのお父さんが「どうやってこれをかぶった! え?」というまったく筋違いな追及をするのである。
 「言え! 言わぬと…」とお父さんが迫ると、タケシは舌を噛み切って死ぬ。
 「舌を噛み切って死んだか… 忍びとして立派な最期だったぞ タケシ…」
 三日月の下に黒く浮かび上がる天守閣の大写しで終わり。

 いま述べた通り、どうやって丸太の着ぐるみを着たかなどというのは、意味不明というか、「すごく知りたいけど、拷問を科している側が気合いを入れて追及することじゃねーだろ」みたいな、拷問と質問のあいだに激しい違和感が生じている。
 また、おおひなたは、「横山光輝の忍者マンガはすぐ舌を噛み切って死ぬ」というので、タケシにもやらせてみたという。そして、いつの間にかタケシは忍びということになっていて、ここでも冒頭の家庭団欒からは極度に乖離した異質な組み合わせが挿入される。いつからタケシは「忍び」だったのか。
 「舌を噛み切って死んだか… 忍びとして立派な最期だったぞ タケシ…」――この横山忍者漫画では悪の首魁がいいそうなセリフを、藤子不二雄+赤塚不二夫ふうのお父さんが言うところにも、やはり強烈な違和感が生じきたっている。
 最後の大写しの天守閣は、この「忍者」という連想から、「必然的な場違い」のかっこうで出てきたもので、大写しになって情感を無意味に盛り上げているところに、ぼくなどは大笑いしてしまう。

 同じように、ラストの「ほがらかに! 斎藤!」では、最後の劇画のシーンがこの流れにあたる。
 敵に囲まれた斎藤に味方が叫ぶ。
 「今日はお前が練馬区に転入して14日目だぞ!」「しまった!」
 以下、このような「異質な窮地の組み合わせ」が続くのである。

 このほか、「フライパン先生」という短編で、フライパン先生が飛んでいっているときにつけられた独白セリフ「私はどれくらいの間飛んでいたのでしょう」にも同様の精神を見ることができる(激しく笑った)。まったく無意味な事情で、空に飛ばされながら気を失っているフライパン先生にたいして、やけに深刻な劇画タッチのセリフが付け加えられるのだ。


 おおひなたの「異質の組み合わせ」は、定型の漫画表現――赤塚や藤子、横山、あるいは劇画など――を徹底的に解体する。言葉を苛めて苛めて意味を解体させてしまった筒井康隆の行為は「言語姦覚」と名付けられたが、おおひなたの行為はまさに漫画表現のこれにあたる。
 横山、赤塚、藤子といった、漫画界の巨匠の表現は、たんなるパロディやパスティーシュされるにとどまらず、バラバラに破壊され、のたうちまわり、いいように嬲りものにされているのである。
 異質なもの同士を巧妙にパズルするという手法で、おおひなたはこの解体作業をやってのけてしまったのだ。

 これは、赤塚や藤子、横山などへの深い愛着なくしてはできない行為である。
 愛着ゆえに対象を苛み弄ぶという行為は、同人誌のノリの一変種であるが、おおひなたのすごさは、この破壊行為を革命的なまでに徹底していることである。

 おおひなたのエピゴーネンは後をたたないであろうが、対象への愛着の深さとその破壊の徹底性において、おそらくおおひなたを超えることは容易ではない。


イースト・プレス
2003.1.8記
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