内田春菊『怒りと共にイキまくれ』



怒りと共にイキまくれ 内田春菊が4コマからストーリーものに進出していったころの作品、たとえば『物陰に足拍子』や『水物語』を、うちの親父が以前読んでいて、意表をつかれた記憶がある。田舎者で俗物、かつ男権的なうちの親父がなぜ、と自分もその分身であるにもかかわらず、学生時代のぼくは帰省して驚いたものである。

 だが、そのころの内田作品というのは、男も馬鹿だが、女も馬鹿そうだった。男も女も気持ちをそのまま放り投げて示してみせるようなタッチ、そうさな、いまの南Q太にちょっと似ていた。

 これは見方によっては、女性がミステリアスとか不思議ちゃんにみえたのかなあと、今にして思う。それはうちの俗物親父の欲望をくすぐる女性像だったかもしれんな、とか思ってみる。


 しかし、内田春菊のある部分は、年をへるごとに確実に先鋭化していき、男の馬鹿さ加減にたいする容赦のない戦闘性の発揮になっていった。その戦闘性は、イデオロギー教本といっていいほどの「政治的」主張をおびていく。男とそれに追随する女は、1ミリも存在する余地がないほどに苛烈に批判されるのだ。この時期の作品を、うちの父親は果たして読めるのかどうか、興味がある。

 ただ、それは必ずしも内田への悪口ではない。
 男であるぼくは、「うわーこんな馬鹿な男がいるんだー」などと他人事のように眺めながら、ときどきその中に「自分」をみてドッキリしてしまうというあぶなさを楽しんでいる。まったく油断のならない漫画だ。

 本作は、そういう馬鹿な男ばっかりが出てくる6つの短編で構成されている。

 冒頭の「ベビードール」は泡姫すなわちソープランド嬢(源氏名はルル)の独白の形式で描かれている。この短編のなかだけでも無数の馬鹿な男が出てくるのだが、いちばんエッジが効いている形象が、いちばん「まじめそうな男」の話だろう。
 笑顔も友人としてのつきあいもさわやかで誠実そう。しかもつくったような「誠実さ」ではなく、おそらく少女漫画あたりの主人公として登場したなら確実に「相談にのってくれてカゲでささえてくれるいいヤツ」的キャラに抜擢されそうな、そういう。

 ルルが約束して街で会い、突然この男にセックスをしようと申し出たとき、男は彼女ができたのでセックスを断ろうとする。まあ当たり前なんだけど、しかしやはり誠実だろう?
 だが、ルルのほうは、「しよ?」「ね…しよ?」としつこく迫る。そういう気分だからだ。

「大丈夫だよ 言わないよ」

 うわー、出たよ。
 この攻勢に、男はとうとう陥落してしまう。迷いに迷う男はついに口にするのだ。

「これで最後…でもいいかな」

 けっきょくこの一言でこの男の愚かさがすべて暴露されてしまう。
 ぼくが身にしみるのは(いや実体験でそういうことがあったとかそんなアレではないのですが)なんだか「いい人そう」とか「誠実そう」という社会的評価をぼくがうけているので、「そんなものの内実や厚さというのは男においてはしょせんこの程度のもんですよ」と内田春菊が実にあざやかにこの短編でしめしているからだ。
 この「誠実男」と、短編冒頭に出てくる、ルルのニセ手紙に入れあげて会社の金を横領しちまう馬鹿親父と、その愚昧さにおいてどこが違うのか。

 2本目の短編「ラリエット」は、セックス批判だ。いや、「いまそこにあるセックス」への批判つうか。

 男権的なセックスはどうしても征服感を求めることが強すぎる、という批判は世の中によくある。「アダルトビデオのセックスなんか最たるものだ」とか。
 で、むろんぼくもその批判には同意するわけだけど、どこかにそういう気持ちはしのびこんでいる
 この短編では、女が快感や絶頂にいたることを男が「自分の手柄」のように思うことへの違和感が表明されている(まあ人によって全然ちがうのだろうけども)。

「セックスするのは好きなんだけどなあ
 セックスのとき
 大きな声を出したり
 変になったり
 するのは
 スポーツみたいなもんで…

 スッキリしたいから
 気持ちよくなりたいから

 でも

 男はみんな『俺の手柄』とか
 『俺の体がいいから』とか
 思ってるみたい

 あと『俺にほれてるから』とか…」

 主人公の女はそれを「演歌」だ、とグサリと刺す(頭の中で)。
 そうです、ありますよ。「俺の手柄」感
 作品では主人公がセックスの後、余韻にひたっていると、「大丈夫かよ」と聞く男の馬鹿さを徹底的にあげつらう。「大丈夫かよ」と体をいたわるかのようにみせながら、実は「やっべー、俺の絶妙なセックステクでこんなにイカせちまったよ」的に勝ち誇るこの「手柄」感の表現は絶妙である。
 そして男は「どうだった」と聞く。
 「大きかったよ」と女がいえば「やっぱり…俺よく言われんだよ」と眉を八の字にして何か迷惑をかけちゃったなというような顔つきで男が女に言うのが途方もなく可笑しい。
 それを聞いた女は「あ 『勝ち』に回った…」と頭のなかでそっとつぶやくのだ。「『勝ち』に回った」。最高。ぼくはこのやりとりとこの言葉を、セックスのあとでときどき思い出すようになったほどだ。「あー、いま自分は征服感や手柄におきかえてるよなあ」とか。

 この短編では、セックスのあとで女はこういう。

「なんで
 『お互い楽しむ』じゃ
 だめなんだろうなあ?」

 まったく見事なまでの反男権の教科書、相互的なコミュニケーションを最大価値とするセックスの称揚であり、内田春菊の強烈な戦闘的主張ではないか。そんなことを書けば内田は「はあ? 当たり前のことじゃん」とうそぶくであろうが、いやいやどうして、ぼくをふくめて世の中に馬鹿な男性が多いなかでこれは実にすばらしい教科書である。

 セックスは人間の生活にとって一部でしかない。でも大事な一部だ。
 なんとも奇妙なことなのだが、内田春菊の漫画は、その内容が戦闘性をおびるにしたがい、次第に(ぼくからみて)実に健全なセックス観へと発展しつつある。
 一般にあるエロ漫画においては、セックスの相手は欲望を引き出すための対象とか道具のように描かれているし、「純愛」のようにみせながら随所にそういうセックス観が潜んでいることが多い。
 ところが内田の戦闘的漫画というのは、どれほどセックスを念入りに、そしてどれほどセックスの快楽を執拗に描いてあったとしても、必ずそこには自分(女)を道具のように扱おうとする男、すなわち「俺様セックス」への厳しい批判が横たわっていて、あくまで内田はおたがいが気持ちよくなれるようなコミュニケーションとしてセックスを追求しようとするから、快楽の描写はまったく人間的である。
 ぼくからみると、内田の漫画には、世のエロ漫画にあるような淫靡な空気がまるでない。かといって、そこで描かれているセックスというのは、幸福な感じがするというのでもない。
 毒があって笑える。納得もできる。すなわち「明るい」のである。

 ぼくが内田の本を読んでいると、左翼仲間の一部には「=エロ漫画を読んでいる」かのようにみるむきがあるのだが、それはセックスをみれば(いやそれどころか裸をみれば)反射的にエロだと思う、究極の思想的貧困にすぎない。

 だからって勤務中に読むなよ。




祥伝社
2005.9.23感想記
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