池田信夫vs五十嵐仁



 新年からまた池田信夫の話題で申し訳ない。新しい年をこんな話題から始めることのショボさといったらない、ということぐらい本人が一番よく自覚しておりますので。
 書評系のエントリが3連続で信夫。どう見ても粘着です。本当にありがとうございました。

 さて、五十嵐仁『労働再規制』(ちくま新書)を池田が「読んではいけない」指定をしてボロクソに書いたのだが、五十嵐が自分のブログで6エントリにわたる反論を書いた。
 これにたいして、新年になって池田が「五十嵐仁氏への回答」なる文章をアップし、さらに五十嵐が再反応している。
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/cc70fa4fe347edaa216a5e5402cd3e16
http://igajin.blog.so-net.ne.jp/2009-01-04

 09年1月5日時点でこの論争をみて、観客のように他人事として言わせてもらうと、池田の惨敗である。

 五十嵐が1月4日のエントリで〈私が問いかけた事柄に対して、何も答えていない〉と述べているとおりなのだ。

 池田が相変わらず〈この文章は冗談なので〉とハナから白旗ムードのエクスキューズをつけているのには、読む側としてはもう全身脱力であるが、彼は五十嵐が出した論点のほとんどを〈6本もある記事も一つ一つ反論する価値があるとは思えないので〉と「かわして」いる。五十嵐の本を読んでもいなさそうな池田ブログのとりまき連中だけを相手にするならいざ知らず、ぼくのように五十嵐の本を読んで池田の「反書評」を読んだ身からするとそうやってかわしたらダメな論点ばかりなので(理由は後述するが)、これはあまりにミエミエの「逃げ」でしかない。
 はっきり言って池田は反論不能という状態である

 おまけに、〈著者からの通告メール(先月20日)がGmailのスパムボックスに・・・〉だの〈署名入りの批判は歓迎するので反論したいところだが、残念ながら『労働再規制』は年末にゴミに出してしまった〉だのと言うに及んでは、池田本人は「軽やかに揶揄」しているつもりかもしれないが、ぼくにいわせれば品性の下劣さだけがうっすらとにじんでくる感じで、気持ちの悪いことこの上ない。

 五十嵐のメールがスパムボックスに入っていたからどうだというのだろう。五十嵐のメールなど「無価値」であることを印象づけたいのか、それとも五十嵐の反論にどう答えようか悩んでいて日を過ごしたわけではないということを言い訳したいのかどうか知らないが、メールがスパムボックスに入っていたということは単に池田の事務管理能力の低さを暴露しただけなのだ。
 そして、同じく〈年末にゴミに出してしまった〉と書くことで、「ゴミに出すような無価値なもの」という姑息な印象操作をまぎれこませているわけだが、ぼくなどは「へー、池田はお金出して買ってたんだぁ」「そして年末までは持ってたんだぁ」という別の感慨がわいた。貨幣を出して本を買うっていうのは相当な関心ですよ。
 やはり池田は五十嵐のことが気になって仕方がないのだなあ。アレかな? 好きな女の子のリコーダーの唄口の部分とかを隠してしまうタイプかな?
 五十嵐もこの部分に反応し、〈拙著は本屋での立ち読みではなく、ちゃんと購入して読まれたということです。「立ち読み」なら、ある程度の読み間違いはやむを得ないかもしれませんが、ちゃんとかって読んだのであれば、話は別〉として、読み間違いとしては見過ごしておけぬ、と息巻いている。
 〈年末にゴミに出してしまった〉という表現は「だからきちんと反論できません」という言い訳にも聞こえるが、〈署名入りの批判は歓迎するので反論したいところ〉とまでいうのであれば五十嵐のいうように、図書館に行くなり再購入するなりすれば容易に読めるはずだ。このあたりの信夫のみっともなさといったらない。

 さて、そうやって他の論点をすべてスルーしておいて持ち出してきた唯一の論点は「労働力商品の価格は需給で決まるではないか」という話だった。

 (゜Д゜)ハア?

 自分の土俵にひきずりこみたい気持ちでいっぱいの信夫だが、五十嵐も〈拙著には書かれていない事柄〉と述べているように、五十嵐の著作をどこからどう読めばそんな論点が出てくるのかさっぱりわからない。まあ、五十嵐がこのトラップにひっかかってこのフィールドでチャンチャンバラバラやりはじめる可能性はあるんだけども、それはもうぼくの知ったことじゃない。
 だいたい、『労働再規制』は、賃金を人間らしくしろとかしなくていいとか、そんなことはテーマになっていない。読み手がそんな立場にあるかどうかなんてことは1グラムも関係のない本である。規制緩和一辺倒だった労働「市場」分野が規制強化に転換することを、審議会議事録や事態の経過を追っていくことで示していく一種のドキュメンタリーなのであって、規制緩和派にとっても十分〈おもしろい〉(by池田)、貴重な文書のはずなのだ。
 そういうタイプの本なのに、いきなり「イデオロギー批判」ともいうべき批判をあびせることはどれほど野暮か、立場をかえてみたらわかるであろう。
 たとえば『戦後日本の資金配分』を読んで、ある種のマルクス主義者が「これは国家独占資本主義を擁護するブルジョアイデオロギーの本である」と書いたらその書評の的外れぶりにあきれるはずだ。

 池田がスルーした論点は「ささいな」ことのように見える。
 たとえば五十嵐もぼくも指摘した、NHK番組根拠問題。池田は、格差社会の〈根拠〉として五十嵐がNHKの番組を挙げたと「反書評」で指摘しているが、そんな事実はどこにもない。池田はそのことに反論の中では完全に沈黙している。

 これが「ささいな」ことでないというのはなぜかといえば、池田の書評(「反書評」)は、相手がいかに基本的な学問マナーさえもおさえていないトンデモ本であるかということを粉飾するための印象操作としてそのエピソードを使っているからである。

 「読んではいけない」などという刺激的なリストを作った以上、池田は当該書籍がいかに「トンデモ」であるかを指摘しなければならない。池田の揶揄の軽口は、その本が「トンデモ」であるという前提からこそ許される洒脱さになる。
 ゆえに、池田の「反書評」にとって、NHK番組を格差社会の根拠に使ったかどうかなどの論点は「本質的」なことなのである。〈反論する価値があるとは思えない〉と池田が逃げることはできないものなのだ。
 ところが、結局は都合が悪くなって反論不能になってしまったのである。

 そうなると、「揶揄の軽口」であったはずのものは、よく本を読みもせずに不当に相手を攻撃しただけの危険な爆発物に化けてしまい、それをのぞく池田の主張は「五十嵐は労賃は需給では決まらないと主張する社会主義者だ!」などという、五十嵐の本を読んでいればまず出てくることはありえない外在的「書評」部分だけが残ってしまう。うわー、どんな書評だよ、それ。

 もしぼくが池田であって、五十嵐に嫌がらせをしたいのなら、別の国会答弁や審議会資料を使って、いまだに規制緩和の流れがなくなっているわけではないこと、五十嵐の資料の読み方はあくまで推論にすぎないことを書くだろう。
 そのうえで、「まだ確定もしていない流れを『再規制』などを叫んでしまい、そこはかとなく官僚の再規制の動きに目を輝かせてしまうあたりに、官僚と同じ発想である社会主義者たる著者の面目躍如がある」などとバカにした一文をつけるだろう。いや別にそんなことをぼくが本気で思っているわけじゃないですよ。念のため。

 いずれにせよ、池田の文章というのはツッコミどころ満載なのだ。小谷野敦がプロの物書きの条件として論争に耐えうることを挙げていたが、その点から見て、信夫はスキが多すぎる。
 いやー、週刊ダイヤモンド編集部は、よくこんな人間に書評なんかやらせてますね。
 かわりにあっしにやらせてくださいよ(漫画だけ)。




2009.1.5感想記
この感想への意見はこちら
メニューへ戻る