雨宮処凛・萱野稔人『「生きづらさ」について』



 この前、サヨのあつまりがあった。若いサヨと年配のサヨが「懇談」をするというのである。若い人の気持ちとか実態とか知らんといかん、ということで。
 冒頭にネットカフェ難民について報道した映像を観たのだが、そのあとの懇談で年配、というと怒られるので、若いとは言えない女性活動家がまず言ったのは、

「この人(映像に出てきたネットカフェ難民になった若者)には生きる目標がないんだと思うのよね。最近の若い人にそういう人が多いと思う。私は若い頃そういうものを持っていたんだけど、やっぱり生きる目標をきちんともたないとこうなってしまうんじゃないかしら」

 あの、ここは保守系の集会ですか? もしくは奥谷禮子あたりが主宰する啓発セミナー? ぼくなんかよりはるかに多くの市民と接したりしているまじめな活動家なのだが、その人にしてこれである。この懇談は、そのあと自分の娘や息子の境遇などを発言していく他の年配者が何人もあらわれ、会場の空気もかわっていくので、年配の左翼がみんなこうだというわけではないのだが。

 年配の左翼のなかには、若い人が「生きづらい」という問題提起がわかりにくい、そういう人が少なくない。非正規雇用によって低収入と不安定にさらされることはわかるが、それが「生きづらい」という表現になるとよくわからなくなってしまうのだ。あるいは、単純に「お金がない貧しさ」というふうに脳内変換して話を聞いている。

 と、エラそうに書いているぼく自身が「生きづらさ」について何かわかっているのだろうか、といわれると自信がない。



精神的「生きづらさ」と経済的・社会的「生きづらさ」



 そもそも「生きづらさ」とは何か? どういうことか?

 この問題というのはものすごくシンプルに基準をたてることができるものだと思う。すなわち「オマエ自身は、『生きづらい』と感じたことがあるのか」ということだ。
 ポイントは、「生活が大変だ!」とか「夜まで働いてクタクタだ」とかそういう苦労一般ではなくて、そのことが「生きづらさ」という表現になって出てくるかどうか、ということなのだ。

「生きづらさ」について (光文社新書 358) 本書の著者の一人である萱野稔人は、冒頭でこう言っている。

「いま、この社会では多くの人が『生きづらさ』をかかえながら生きています。たとえば、人間関係のなかで精神的な『生きづらさ』をかかえている人もいれば、貧困からなかなか抜けだせなくて経済的に『生きづらい』という人もいる。社会のなかで疎外感や居場所のなさを感じて『生きづらい』という人もいます」「まずは人間関係における精神的な『生きづらさ』を取り上げることから始めて、そのあと社会的な『生きづらさ』や労働の問題へと議論を広げていくことにしましょう」(p.8)

 つまり精神的な「生きづらさ」と社会的・経済的な「生きづらさ」と、大きくわけて二つの分野があるというのである。そして両者は「どこかで重なっている」(萱野本書p.9)というのが本書の認識だ。

 左翼の立場からいわせてもらうと、前者、精神的な「生きづらさ」というテーマは弱いところである。いや、そんなふうに左翼全体をくくると怒る左翼も出てくると思うから、少なくともぼくは、と訂正しておこう。

 本書では最初に雨宮が「いじめ」や「リストカット(手首などを切る自傷行為)」の具体的なケースについて話をする。
 「いじめ」とか「リストカット」とかそういう言葉の字面だけをみて、「精神的な『生きづらさ』」というふうにいわれても、まず「自分には関係のない話」と感じてしまう。自分とはぼくのことだ。なぜなら「いじめ」にも「リストカット」にも遭遇していないからである。
 雨宮は「いじめ」や「リストカット」の具体例を「空気を読む」問題として解析していく。萱野もそういうふうにカラんでいく。

「よく、いじめの原因について、若者たちの人間関係が希薄になったとか、規律が弱くなったということがいわれますよね。安倍内閣のもとでできた教育再生会議なんかも、そのような議論をしていましたが。……何もわかってないんですよね。いじめは、子供や若者たちのコミュニケーション能力が下がって、人間関係が希薄になったから起こっているのではありません。逆に、コミュニケーション能力がここまで要求されて、何らかの緊張緩和がなされないと場を維持することができないから起こっている。そこで実践されているのは、空気を読んで、相手の出方を先回りし、まわりに配慮しながら場を壊さないようにする、という高度なコミュニケーションです」(萱野本書p.31〜32)




コミュニケーション能力と承認



 そして、この問題は「承認」ということと結びついていく。
 萱野は次のようにのべる。

「空気を読んで、まわりに過剰に同調するというコミュニケーションのあり方って、いいかえるなら、それだけ人びとが他者との関係に依存しないと自分を維持できないってことをあらわしていますよね。他者から否定されたら自分の存在を支えられなくなるからこそ、空気を読んで、まわりに自分の存在を受け入れてもらおうとするわけです」(同前p.36)

「やっぱり、人から認められることが、自分の存在価値を証明する一番の回路だと思いますよ。もともと人間って、自分の存在価値を自分では証明できないから、他者にそれを認めてもらうしかないんです。どうしても他者の承認を求めてしまうんですよ」(同前p.37)

「ただ、どれぐらい他者からの承認を必要とするかという度合いは、人によっても時代によっても違ってきます。おそらく、高いコミュニケーション能力が要求されるいまの社会ってその度合いが強い社会なんでしょう。そうした社会では、他者とのコミュニケーションのなかでそのつど自分の能力や価値を認めてもらわないといけないという圧力がものすごくあって、そうした社会の圧力にあわせて、個人のほうも『自分の価値を証明しなきゃいけない』『他者に認められないといけない』っていう衝動に強く駆られてしまうんです」(同前)

 いじめというものが「空気を読めない」人間を攻撃するという形で現れることをぼくも見聞きしなかったわけではない。また、承認を多くの人が求めている、ということも思い当たるフシがある。
 だからここで語られていることは一見よく聞くことのように思われるのだが、承認を求める回路がコミュニケーション能力にたいする過剰なまでに高い要求となってあらわれ、それがいじめにつながっている、ぼくらのあらゆる生活に激しい圧力になっている、という結びつけ方は、ぼくにはなかった。

 雨宮が「私も、自分病みたいな状態がすごく長く続いて、自分の存在意義を得られなくては生きていけない、生きている意味がないとずっと思ってきました」(雨宮本書p.37〜38)といっているのは、すごくわかる。わかるぞ。

 ぼくは同人誌『クラルテ』の創刊号で、近藤ようこの漫画『遠くにありて』を評した時、自分のなかにある「文章で名を成したい」という飢餓感にも似た承認要求について書いた。

「萱野 社会全体のあり方がそういう方向に突き進んでいますよね。みんながみんな有名になりたいって思うのも、モテることがここまで重視されるのも、そのあらわれですよね。いまや、モテないとすべてがダメみたいな勢いですから。

雨宮 小さい頃から、好きなことや、やりたいことを仕事にして、それで自己実現しなさいといわれ続けるのも大きいですよね。そうでない生き方はよくない、そうできない人は負け組だ、みたいな空気がすごく強いような気がします」(本書p.38)

 「いじめ」や「リストカット」という、「ぼくには関係ない(体験が無い)」地点から出発して、こんなにも自分が強く感じているところに話がすすんでいく。
 そうだよ。
 承認されたいんですよ。ぼくは。承認されなきゃ、無価値なんですよ。この世にぼくというものが生まれてきて、何も「名を成さず」、「ひっそりと片田舎で死んでいく」ということの耐えられなさ!

 ひとは自分の価値というものの承認を、職場なり学校なりで築いていくわけだが、そのときにかなりハードルの高いコミュニケーション能力によって構築していくことになる。他者から否定されないようにする技術としてのコミュニケーション能力。あるいは他者に自分の価値の承認をしてもらう技術としてのコミュニケーション能力。

 そういうコミュニケーション能力がない=「非モテ」であるということ、もしくは「自分には価値がない」「自分の価値を認めてくれる人がいない」という思いがあることが、本書第一章のタイトルである「(精神的)『生きづらさ』はどこからくるのか?」の答えであろう。

 そうなれば、社会的・経済的な「生きづらさ」へは、あと一歩である。

「こうして見てくると、精神的な『生きづらさ』のなかに、すでに社会的な『生きづらさ』の要素が一通りあることがわかります。
 たとえば貧困や不安定労働における『生きづらさ』って、たんにお金がないから生きづらい、ということだけにとどまりませんよね。そこには、社会からまともに扱われないとか、居場所がないといった生きづらさも含まれています。そういった生きづらさの原型は、すでに精神的な生きづらさのなかに見いだされるものです。
 もともと、要求されるコミュニケーション能力がどんどん高くなるなかで、多くの人が生きづらさを抱えるという状況があって、そのうえで、ある時期からいきなり就職が厳しくなり、労働条件も厳しくなっていったということでしょう。それによって『生きづらさ』が、もっと社会的な問題のほうにまで広がってきたわけです」(萱野本書p.39)

 これは見事な解明だ。この萱野・雨宮対談は2007年11月におこなわれているのだが、このモデルに沿う形で秋葉原殺傷事件がおきていることに注目しないわけにはいかない。




ぼく自身は「生きづらさ」を感じているか?



 はじめの問いにもどったとき、ぼくは「生きづらさ」を今現在、少なくとも自覚できるような形では感じていない

 一度自分が激しくそこへ落ち込んでいく危機を感じたのは、高校時代だった。田舎中学のトップだった自分が、進学校である県立高校に来たとたん、一気に学年の中位程度のテスト成績しか出せなくなった。秋葉原殺傷事件の加藤も同じ体験をしたらしいが、ぼくも激しいアイデンティティ・クライシスに見舞われたものである。

 自分が日本はおろか世界でもかなり「頭のいい」人間だと思っていたのに(すいません、中学時代ホンキでした。許してください)、そうではなかったという事実。進学校でたかただ成績が中位になったくらいで自分を無価値だと思い込むのもアレであるが、無価値だと思い込んだ。
 成績だけではない。中学時代のように文化的なリーダーとしてみんながチヤホヤしてくれるわけではないのだ。まあよく「透明な存在」という言葉があるけど、ホントに自分はいてもいなくてもいいような存在に感じられた。
 「会社の歯車となる」という表現があるけども、歯車は一つでもなくなったら機械は動かない。組織人でもなかった高校時代のぼくは、歯車にもなれなかった。存在意義や居場所が見いだせなかったのである。

 思えば、それが自分の感じた生きづらさだったかもしれない。

 ではなぜいまぼくは生きづらさを感じていないのだろうか?

 理由は3つある。

 一つは、ネットで書いているということ

 自分の書いたものが何らかの反響を生む。ネットのない時代というものは本当に闇夜にむかって書いているようなものだったんだろうなあと想像する。あるいはせいぜい友人どまり。だいたい漫画みたいな趣味が分化したものを共有できる人がまわりにいる確率なんておそろしく低いんだぜ?
 おまけに、ぼくは紙の媒体で書かせてもらっている。本まで出させてもらった。
 そういうことの一つひとつが自分は無価値なものではない、という確信を与えてくれる。いや、ベタで、そしてダダもれみたいな感じで、みなさんすみません。

 二つ目は、子どもが生まれたということである。

 ぼくら夫婦の場合、ぼくは薄給ではあるが正規雇用だし、つれあいも然りであるので、「貧困」ラインからはまぬかれている、という前提があるのだが。
 パートナーがいるというだけでも救われるという人は多かろう。
 しかし、子どもという存在ができることは、自分の価値をつくりだすうえで破壊的な威力をもつだろう。つまり自分がいなければこの子はどうなってしまうのか、という認識だ。もちろん、そういう認識をもてない親もいるだろう。だが、少なくともぼくの場合はこの子のために自分がいるのだ、とまさに理屈ではなく、強く体感するのである。

 これは乱暴な仮説かもしれないのだが、家族をもち、子どもをもつということがあれば、苦しみの質が「生きづらさ」というものではなくなるのかもしれない。たとえば生活苦や子育ての大変さ、あるいは親の介護の不安とかいうものはあるのだろうが、それを「生きづらい」という言葉で表現することはなくなるんじゃないだろうか。
 別のエントリでも書いたが、非正規雇用の増大で格差が拡大するとともに、晩婚化や非婚化がすすむなかでは、独身である人や期間がふえ、「生きづらさ」を感じる機会はふえているのではないだろうか。





「生きづらさ」克服装置としての左翼組織



 そして、ぼくが生きづらさを感じていない最後の、三つ目の理由は、ぼくがサヨク組織にいるということだ。

 ぼくは高校時代の途中にサヨク組織にくわわったのだが、高校時代に感じていた激しい危機感、「生きづらさ」はそのときに大幅に緩和された。

 昔小林よしのりが薬害エイズ運動に集まっている若者たちを批判して、運動そのものじゃなくて自己実現とか居場所づくりのために来ていやがる、というむねのことを言ったことがある。
 それを読んだとき、思い当たるフシがあるなあ、左翼運動というものは、そうならないようにしないといけないよなあ、と思った記憶があるのだが、今にして思えば、実は自分の価値を認めてもらうことや居場所として左翼組織や運動を考えるというの非常に大事な機能なのだ。

 まあ、今は「同志」なんていわないけども、そういう言葉に代表される雰囲気はまだある。悪くいえば「排他的」になってしまう部分があるんだけど、組織の内部にいるものからすると、とても居心地がいい。入ったことがない人はわからないかもしれないが、それはもう信じられないくらいだ。
 最初に少しだけハードルがあるわけだが、それをクリアしてうまくなじんでしまうと、無条件で、とはいわないが、かなり低い条件で存在を肯定してくれる。

 いまサヨの組織で若い人が地域の組織に居着いているのを目の当たりにする。
 そこには、「政治を変革したくて」とか「マルクス主義の正しさを確信して」みたいなやつはいなくはないけども、やっぱり居心地がいい、居場所がある、っていう要素がかなり大きい。
 だいたいぼく自身もそういうところが大きかった。
 高校時代、サヨのアジトにいくと、だいたい他の高校とか同じ高校のサヨがコタツで寝そべっていたり、お菓子を食べて談笑していたりする。また別の事務所にいったら、そこには女子高生とかもいるわけじゃないですか(笑)。
 それで学校ではあまりできない政治とか社会のまじめな話ができるってわけですよ。

 左翼の組織がみんなそうなのかはよくわからないのだが、たとえば共産党についても事情は似ている。
 共産党の事務所に行くことがあるが、そこに引きこもりの青年がきている。しかしみんな普通に接している。いや、意識的に声をかけて普通に接している、といったほうがいいだろう。ときには叱ったりしているのだ。仕事の手を休めてその青年と長々と話している人もいる。
 ぼくも漫画の話をしたりした。「紙屋さん、『二十世紀少年』ってどうなんスか」とかね。
 その青年はだんだんと引きこもりから外に出るようになり、共産党の仕事もちょろちょろと手伝ったりしていた。これって、引きこもりの若者のためのNPOみたいなもんだよなあと思いながら見ていた。
 まあ、冒頭のような発言もあるんだけど、だからといって関係が破壊されたりするようなわけではない。善意のおばちゃんの発言なのだ。
 
 サヨク組織にいる人は自分でちっちゃな事業をやっていたり、会社や組合をやっていたりして、「働き口」をもっていたり知っていたりする人が多い。だから、そんな青年にも「あそこでちょっと働いてみないか」とか「こんど募集があるから受けてみたら」という話にもなる。

 組織の事務所だけでなく、部屋を借りたりして、若い人のためのスペースをわざわざつくるサヨ組織もある。

 さらに、地方議員などが頻繁に出入りして、若い人に声をかけたりするので、生活保護とか住居とかの相談も受けやすい。

 こうしてみると、左翼組織というのは、その事務所において、たまり場であり、サポートセンターであり、行政や雇用への窓口であるということを兼ね備えたところになりうるのである。そして、思想的連帯感という前提はあるものの、なにより居心地がいい。「他者とのコミュニケーションのなかでそのつど自分の能力や価値を認めてもらわないといけないという圧力」がない、もしくは非常に弱いのである。
 それは自分の「居場所」を定め、「価値」を無条件で承認してくれる、「生きづらさ」緩和組織たりうるのかもしれないのである。

 本書の第四章で「『超不安定時代』を生き抜く」として、この「生きづらさ」とどうむきあい、解決していくかという展望を語っているのだが、サヨク組織というものが実は「生き抜く」ための基地になれるかもしれないと、本書を読んで思った。





雨宮処凛・萱野稔人『「生きづらさ」について 貧困、アイデンティティ、ナショナリズム』光文社新書
2008.9.1感想記
意見・感想はこちら
メニューへ戻る