間瀬元朗『イキガミ』



 漫棚通信ブログ版でとりあげられていて、触発された。
http://mandanatsusin.cocolog-nifty.com/blog/2007/01/post_6654.html

 ずっと前に1巻を読んだとき、どっちつかずの読後感が残っていたんだけど、その正体がつかめない感じで、そのままにしているうちに忘れてしまっていたのだ。

イキガミ 1 (1)  あらすじ紹介は、面倒なので同ブログの紹介文をコピペ。

〈パラレルワールドの現代、日本。国家繁栄維持法は、国民に命の尊さを認識させるため、無作為に選ばれた国民を1000人にひとりの確率で死亡させるという法律。小学校入学時に注射されたナノカプセルが肺動脈にひそみ、18歳〜24歳で破裂して若者を突然死させる。本人にその死亡予告証=「逝紙(イキガミ)」が届くのは死亡の24時間前です。
 主人公は死亡予定者に「イキガミ」を届ける公務員。24時間後の自分の死を知った若者たちは、どのような行動をとるのか。主人公はそれを目撃してゆきます。〉

 似た作品というのはいくつもあるらしいけど、ぼくがすぐ思い出したのは、星新一の「生活維持省」というショート・ショートだった(志村貴子がコミカライズしている)。設定だけはそっくりである。

 漫棚通信ブログ版では、ヤンサンのサイト広告やこの漫画のオビについていた読者の「感動」の感想を紹介し、〈どうもみんなホントに泣いたり感動したりしてるみたい〉とそのナイーブさに驚きを表明している。
 ネット上での感想をひろってみても、作品世界の背景設定(国家による個人への死の強制)は「それは〈限られた時間の中で生きる若者たちの姿〉を描くためのたんなる装置だろ?」ということであっさりスルーし、残された人生を自覚的に生きる姿に心を熱くしている人が多い。本当に泣いたという人もけっこういた。

 生きる残り時間が外側から強制的に設定されることで、その人は否応なく自分の残された人生について考える。
 厳密に設定された死ぬまでの残り時間を認識している人生というのは、「自覚的な生き方」をする瞬間である。その瞬間、生命は驚くほどの輝きを生む。その極限において、輝きをとらえようというのがこの漫画である。

 たとえそれを負のベクトルにおいて生きようとしても(自暴自棄とか)、そのことによって自分の人生の空しさが逆照射されてしまうのだ。この作品の冒頭でイキガミが届いたある青年は、自分を高校時代いじめてきたやつらに復讐をとげようとする。そしてそれを達成するのだが、その復讐の空虚さを逆に浮かび上がらせてしまう。別の言い方をすれば、その人の人生の空しさである。

 この男は、別の、まったく見ず知らずのいじめられている少年にたいして、死の間際に、キレるなら今キレろ、変えるなら今変えろ、と「説教」する。お前は「そのうち仕返しを…」とか思って、この現状に屈服している自分を合理化しているかもしんないけども、「生まれ変わった強い自分」が将来やってくる日なんて、あるかどうかわかんないんだぜ、というわけである。

〈その日がくるまで、生きられる保証なんてないんだ〉

 1巻の裏表紙に〈死んだつもりで生きてみろ〉と書いてあるが、それがこの作品のテーマである。

 これがひとに感動を与えるというのはそう不思議なことではない。
 がんなどの闘病日記というのは、その一変種だろう。

 ぼくが田舎に帰ると、立正佼成会の幹部をしているおじさんによく長時間説教されるのだが、この間うけた説教は「まず毎朝起きたら『はっ! 今日も生きとった!』と驚いてみろ。そうして生きていることに感謝しろ」というものだった。その感謝が毎日を自覚的に生きる糧になる、というわけだ。
 宗教においても応用しうるのである。

 残された時間がカウントをはじめたときから、自覚的に生きることが人生の輝きを生む――このパターンにおいてどうしても思い出してしまうのは、「特攻」・「出征兵士」の「悲劇」あるいは「美談」である。

 戦争への動員は、国家による強制死そのものである。
 しかも、戦死は公務死として、死に大きな公的価値が付与されている。

 死への時間を意識した自覚的な生、というテーマには、がん闘病のようなテーマから、特攻兵士の死までが幅広くふくまれている。その境目がきわめてあいまいになっているので、この種の感情は無防備なまま簡単に利用されてしまう
 「新しい歴史教科書をつくる会」の歴史教科書が「特攻隊の遺書」を掲載してその「悲劇」を示すとき、このスライドを利用している。美しさや称揚が微量に、しかし決定的な量、そこには含まれているのだ。

 ぼくがこの感想の冒頭に「どっちつかずの読後感」とのべたのは、このテーマは取り扱いがきわめて危険だと感じたからである。
 しかも、設定にはわざわざ「国家による強制死」という戦争動員とそっくりの問題がふくまれている。

 しかし、1巻は辛抱して、「虚心」に読んでみた。
 他のブロガーたちが言うように、それは単なる「設定」にすぎず、この作品は「リミットがある人生の輝き」「死んだつもりで生きてみる」ということを味わうための作品なのだ、と。
 だから、1巻の冒頭で、主人公がどれほどこの世界設定に違和感を覚えようと、その前提に抗議した市民(公務員)が「退廃思想者」として連行されようと、それはリアルさを出すための単なる演出なのだろうと考えた。


 3巻のEpisode5「命の暴走」において、主人公の上司が次のように諭すことが、実はこの作者の思想を表しているのではないかと思う。

〈国繁がなければ「生命の価値」すら認識できない――そんな社会にこそ問題があるんじゃないかって〉

 これをうけて主人公は次のように心のなかで煩悶する。

〈こんな社会だから国繁が必要なのか、国繁があるからこんな社会になったのか――その答えはわからない〉

 主人公は国繁(国家繁栄維持法)はおかしいと感じている。おそらく、作者もこのような法律はあってはならぬものだと感じているにちがいない。根源的には国繁を用いて命を輝かせてしまうような状況にある社会の現状にこそ問題があるのであって、作者はそれを問題にしたいのだ、と。

 ゆえに、国繁はこの社会状況を浮かび上がらせるための道具にすぎないというわけである。なるほど3巻にはこの法律の廃止をもくろむ決意をする人間も登場してくる(それはまだ肯定的にも否定的にも描かれていないのだが)。
 国繁による国家体制を作者はたしかに肯定してはいない。


 にもかかわらず、ぼくは、どうしてもこの作者が「国家による死の強制」という問題を単なる設定だととらえているというふうには思えなかった
 2巻のEpisode4「出征前夜」を読んだとき、この物語が実に危険なスライドをしてしまっていることにぼくは危惧をいだかざるをえなかったのだ。

 介護の現場で働く若者・武部にイキガミがやってくる。
 それを慰める施設の老人。

〈おい、メソメソすんな!! こいつぁ名誉なことじゃねーか、え!! いいか、俺がガキのころにゃ赤い紙切れ1枚で、にーちゃんみてーな、若いもんがたくさん戦場にかり出されたんだぞ まだまだやりてーこともあったろうに、みんな愚痴ひとつこぼさず、お国のために潔く命を捧げたんだ!! このにーちゃんだって、潔く覚悟を決めてこうしてお別れにきてくれたんだろーが! なのにてめーらがそんなんじゃ、にーちゃんだって逝くに逝けねーだろ!! にーちゃん、昔と今じゃ事情が違うかもしれねー。でも、お国のためなのはおんなじことだ。だから俺はあんたを誇りに思う。自信を持って…胸を張って逝けよ。な。〉

 武部は、ふだんはトロくて施設の労働においても厄介ばかりかけている。しかし、認知症のすすんだある老女の亡夫であると勘違いされるようになって以来、彼はその老女を特別に介護し元気づけられるという存在意義を与えられる。

 老女は実は立てるのに立とうとしなかった。
 彼女の記憶は、亡夫が出征していった戦前の記憶と結びついていて、自分が立てなくなることで夫の後ろ髪をひこうとしているのだ。

 イキガミによって余命いくばくもないことを知らされた武部は、亡夫になりかわったつもりで、泥田のなかにしゃがみこむ老女に呼びかける。

〈わしゃ、しばらく帰れん… いや、もしかしたらもう二度と会えんかもしれん。けんど、おめえら守るためじゃけぇ、覚悟はできちょる。なのに、おめえがそんなんで子供らどーするつもりじゃ!?〉

 武部の介護施設における存在意義と、国家による強制死の「意義」とがすべて重なる。ここでは「お国のために命を捧げる」ことが、何の留保もなくストレートに美談へと流れ込んでいるのだ。
 しかもネット上で見ると、このエピソードに涙を流している人がけっこういて、ぼくはまたびっくりした。

 さらに、武部を諭すセラピスト・久保七湖の次の発言は作者によって、肯定的に使われている。

〈自分の存在が消滅した後も、自分の願いがこれからも生き続け誰かに引き継がれ…。その誰かがその願いの実現に向けて必死に生きようとする姿を――そしてその願いによって、まだ見ぬ未来が少しでも正しい方向に導かれていくさまを――それをもし、あなたが想像することができるなら…その瞬間から、あなたは永遠に生き続けられます〉

 このロジックが、神風特攻隊員の次の遺書と奇妙にかぶるのをぼくらは発見するだろう(引用文中で「彼」とは自分自身の比喩としての枯芝のことである)。

〈彼はこの若々しい自分の後継者に、次のゼネレーションを逞しく生きてゆく希いを何の懸念もなくかけているのだ。その生涯は苛烈なる生の闘争であった。うららかなる春の陽の下訪れ来る楽しさも今はなく、伸びんとしては踏みにじられ、彼は無限の忍耐と逞しさをもって生き続け営み続けた。何のための努力であり、苦闘であるか。それは少くとも「自己の生存のために」ではない。彼の身裡に通う血のためであり永遠の持続と発展のためである。第一義的なものは血であり永遠の生命である。彼はその中に自己の真の姿を見る。彼は血を継ぐもの生命を継ぐものの若い希望に充ちた姿を眺めながら、満ち足りた心で母なる大地の暖かき愛のもとに帰入する。そして静かに永遠の生命の発展を祈っているのである。私はこの小さな一本の枯芝に、日本人としての人間の生きる姿を見出したように思った〉(御厨卓爾/1945年神風特攻隊員として南九州沖にて戦死。22歳)

 ここに書いてあることがそのまま心をうつのではなく、書いてあることの誤謬と苦悶ゆえに心をうつのである。
 「悠久の大義」のために自分が死ぬことで「永遠の生命」につながっていく、というロジックは、「悠久の大義」の正当性が確保されてこそ、はじめて成立する。
 「悠久の大義の正当性などは誰にもわからないのだから、その人が大義だと思ったことはそういうことにしておいてあげればいいじゃん。他人がとやかくなんていえないよ」などという主観主義に逃げ込むこともできよう。しかし、そう主張する人も、「邪悪なシオニストであるイスラエル民族」を殺害する「大義」に殉じることで「永遠の生命」を得るのだ、という人がいたら、あるいは、グルのために人込みのなかで毒ガスを撒いて自分も死ぬのだという人がいたら、それを首肯できるだろうか。


 Episode4「出征前夜」によって、この作品は台無しになった。
 「国家による強制死」という設定は、単に極限状況を生み出すための道具だという言い逃れはこれによって効かなくなってしまったのである。


 つうかさ。

 そもそも、お前ら死んでるみたいに生きてるだろう、と言われたって、説教としか思えねーよ。文字通り「必死」な人にだけその緊張は生まれるんであって、客観的にその状況にない人が主観的に決意したって無理なんですけど。





小学館ヤングサンデーコミックス
1〜3巻(以後続刊)
2007.1.21感想記
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