伊藤聡『生きる技術は名作に学べ』




 書評本である。しかも、中高時代に「課題図書」として並べられたような本ばかり書評している本だ。紹介されている古典10冊をここに並べてみよう。

  • カミュ『異邦人』
  • ヘッセ『車輪の下で』
  • トゥルゲーネフ『初恋』
  • アンネ・フランク『アンネの日記』
  • ヘミングウェイ『老人と海』
  • モーム『月と六ペンス』
  • マーク・トウェイン『ハックルベリイ・フィンの冒険』
  • スタンダール『赤と黒』
  • ジョージ・オーウェル『一九八四年』
  • トーマス・マン『魔の山』

〈おそらく、こうした小説を読むことができる機会は、十八歳になるまでのあいだに限定されているのだと、わたしは気がつきました。もし、十八歳までにこれらの小説を読まなければ、その機会はほぼ永遠に失われてしまうのだと。あの、クラスにひとりだけいた読書熱心な子ども、彼らだけが、名作を集中して読むことのできる、とても限定されたタイミングをみごとにとらえ、その読書経験からたくさんの滋養をひきだし、たくわえたのです〉(本書p.4)

 このうちいくつかは読んだことはある。しかし読んだことのない本の方が多い。〈とても限定されたタイミング〉をみごとに逃したのである。おそらく人生において永遠に手にとることはないであろう。
 確立されすぎた古典だけに、それをめぐる文芸批評も山のようにおそらく存在し、それらは過去の批評を幾重にも前提にした堅牢な壁に覆われているに違いないと想像し、挑戦する気さえ失せる。
 40近い男を導くガイド本など存在しないと考えるのが普通である。
 しかし、あるのだ。
 この本がそうである。

 まず、本書で『車輪の下で』の書評がどのように書かれたかを追いながら、本書の特徴のようなものを見てみることにしよう。

 どの章にも「Outline(あらすじ)」が1ページほどで書かれている。
 書評を書いていると実はこの「あらすじ」を書くことには一つの才能が必要であることを痛感させられる。ぼくはなかなかうまく書けないのだ。
 ヘタなブログは、書評を書くつもりが長々とあらすじ紹介をしてしまう。逆に要約しすぎると抽象的になってしまい、伝わらなくなる。ぼくは書評に必要な最小限のことだけを書く意図で後者の方向をとることが多いが、もし「この本を読んでほしい」という意図があるのであれば、簡潔でいて、それなりに面白そうにしあがっていなければならない。

〈主人公ハンス・ギーベンラートは、町いちばんの成績を誇る優等生として日々勉学に励む少年である。趣味の釣りも禁止され、ただひたすら勉強に打ちこむハンスは、周囲からも一目置かれる存在となり、将来を期待されていた。努力の甲斐あって、難関とされる神学校にみごと合格。当初は神学校でも順調な成績を残していたハンスだが、問題児へルマン・ハイルナーとの友情と別離、学内でのいくつかの騒動を経験するなかで、かつての優等生の面影を失っていった。まったく勉学に身が入らず、これ以上の神学校での生活は無理だと判断した学校側は、ハンスを生まれ故郷へと送りかえす。自宅へ戻った彼を腫れもの扱いする家族に傷つきながら、ハンスはやがて機械工の仕事を始めることになる。エンマという早熟な少女との淡い関係を経験し、また、機械工の仕事にも慣れてくるなど、町での生活になじんできたと見えたハンスだが、ある夜、仕事仲間との宴会の帰りに、酒に酔って川へ落ち、そのまま溺れ死んでしまうのだった〉(p.34)

 なかなか要領を得ていて、かつテーマ性がうかびあがり、それゆえに興味をひくように書かれている。
 『車輪の下で』はぼくも高校時代に読んだことがある古典だ。そのとき読んだ本の後ろの解説には、教育制度のなかで犠牲になる子どもというテーマについて書かれていた。これは『車輪の下で』の評価においてまず挙げられるテーマなのだ。
 伊藤はこれに疑義を呈する。

〈『車輪の下で』は、教育という無慈悲な車輪に、あえなく押しつぶされてしまった子どもの悲哀を描いていると解釈されがちだが、教育システムは、ハンスを損ない、傷つけてしまった要因のごく一部ではないか。車輪とは、教育である、とするのは、おそらく、物語をいくぶん矮小化してしまう〉(p.49)

 ぼくは、高校時代、課題図書に指定されていた『車輪の下で』にあまり興味をもてず、渋々読み始めたのだったが、当時かなりハマって読んだ記憶がある。というのも、ハンスの身上が自分とそっくりだったからである。
 田舎の「優等生」だったぼくは、中学まで学校では成績が必ず1〜2位で、高校は自治体単位の学区をこえてとなりの大きな市にある進学校に来ていた。ところがそこで最初におこなわれた実力テストで200番近いランクになってしまった(学年全体では四百数十人いただろうか)。ぼくにとっては天地がひっくり返るような事態で、そんな「屈辱的」な「下位」をとったことなどなかったのである。
 「難関とされる進学校」に見事合格はしたものの、「かつての優等生の面影を失っ」た自分がそこにはいた。
 そのときに『車輪の下で』を読んで、もうすっかり「これはぼくの物語ではないか!」とびっくりしてしまったのである。川に落ちて死ぬハンスを我がことのように感じていた。

 そのとき書いた感想文のなかで〈教育システム〉の問題として自分のことを書いたかどうか、忘れてしまった。解説にしたがってそう自分を解釈したような気もするし、反発したような気もする。
 伊藤はハンスの悲劇をどう解釈したのだろうか。

〈ハンスが求めていたのはきっと、彼を無条件で受け入れてくれる居場所のようなものだった。たくさんの人が「ハンスが破滅するのに手を貸した」のかもしれないと、わたしもおもう。
 きっと、他者がいなければ、他者のまなざしを受け止めなければ、われわれは生きていけないし、自分の力だけであらゆる扉を開けていくことはできない。扉を開けてくれるのはつねに他人であり、われわれは、他人の開けてくれた扉をいくつも通りすぎて、ようやく自分というものをかたち作っていくことができる。ハンスにはそのきっかけが見つからなかった〉(p.49〜50)

 たぶんそうだったんじゃないかと、今になってぼくは思う。
 いや、ハンスがというよりも自分が。
 おそらく自分と重ねあわせたハンスをこんなふうに見ることは、高校時代の自分には絶対できなかった。ぼくは「自分ひとりの努力で」成績上位をかちとった優等生であり、学校文化のリーダーであり、そこにアイデンティティをかけていた。まさに伊藤が指摘するように〈むしろ問題は、彼が、勉学以外のいかなる居場所も見つけられなかったことにあるのではないか〉(p.40)というところにぼく=ハンスの問題はあったのだ。伊藤が書いた〈優等生という生き方〉のところを強い共感をもって読んだのである。
 そして「自分の努力で」優等生となったと思い込んでいるような男には、いま自分が居場所がなくなって落ち込んでいるのだ、などという「弱者の溜息」は絶対につきたくないと思うものである。もし高校時代に、ぼくが伊藤の本を読んでいたら身震いして拒否していたにちがいない。
 自分が他人によって支えられているという当たり前のことに気づくのに、ぼくはそれから10年かかってしまった。だから、まさに伊藤的な総括がいまできるのは「タイミング」なのだと思う。

 このように、すべての紹介する古典でそういう手法をとっているわけではないが、伊藤はこの本で、その古典についてのありがちな解釈をしばしばひっくり返す。そして21世紀に生活をしているぼくらにとって身近な解釈を、ネット的な軽妙な文体にのせてそっと提供してくれる。「生きる技術」を「名作」から学ぶためだ。それに従うにせよ反発するにせよ、提示されているのはぼくらと同じ目線だ。だから、とても読みやすい。

 同時に、ブログ的文体ともいうべき伊藤の文章は、作品に、なにか一つのテーマを与えて、それについて論理を集約していくというような張りつめたところがない。作品のなかに描かれている様々な話題やテーマ、その箇所で感じたことなどをかなり自由に書いている。まさに軽妙なのだ。

 軽妙、といえば、『アンネの日記』を紹介する伊藤の文章は、読んでいて大笑いしてしまった。たとえば、ある箇所では、『アンネの日記』を引用しながら、伊藤は次のように書いている。

〈「学校でのわたしは、どんな子供だったでしょう? しょっちゅう新しい冗談とか悪戯などを思いつく張本人。いつもお山の大将で、けっして不機嫌になることがなく、けっしてめそめそ泣いたりしない。みんなが競ってわたしと自転車を並べて通学したがったのも、みんなの注目がわたしに集まったのも、こうして見ると当然ですよね。」

 「当然ですよね」、などと同意を求められても、そんなことは知らないし、ちょっとどうでもいい。この子はいったどうしたものだろう。まったく臆することなく、「私は人気者です」と自称できる神経の太さ。こうして読んでいるだけで、からだがむずがゆくなってくるようである〉(p.86〜87)

 伊藤はさらに、学校時代の友人を遠慮会釈のない言葉でこきおろすアンネに大仰にあきれかえってみせ、「性への関心」をあからさまに書くアンネを、当代一のスケベ人間として(そこまでは言ってないか)、〈放っておけば、何時間でもいやらしいことだけを考えている、アンネはそんな子どもなのだ〉(p.90)と笑い者にしている。
 公開を前提としていない日記なんだから許してやれよw
 だけど、これらは、「戦争と苛政の前に犠牲になった悲劇の少女」という古典的な堅苦しさの檻から彼女を解放し、21世紀の自分たちのところにまで等身大で降りてきてもらうための「神話解体作業」なのである。
 軽妙な伊藤の文体はそのためによく奉仕している。

 書評本を書いた身としては、書評本が読者に受け入れられるのはなかなか簡単ではない、と感じた。まず書評を書いた本についての共通の知識が読者と著者の間でなければならない。もしそれがなければ、まずその書評を読んでみようかなと思えるような体裁と分量を考え出さなくてはならないのだ。
 「生きる技術は名作に学べ」という体裁、1作あたり新書で20ページという分量、そして軽妙な文体——書評本としてよくできていると感じた。


※ありゃ、この文章をアップしたあと、ネットでレビューを検索していて気づいたんですが、上記の文章、下記のレビュー(大山顕氏)と引用箇所や出だし、そして構成や視点までもがかなりかぶってしまいました。もちろん下記のレビューの方のほうがアップしたのは先なので、どうもすいません、という他ないんですが……。
http://blog.livedoor.jp/sohsai/archives/51645693.html


ソフトバンク新書122
2010.2.10感想記
この記事への意見等はこちら
メニューへ戻る