J.K.ガルブレイス『悪意なき欺瞞』




 「経済って、けっきょく金持ちとか大企業が大もうけするように出来ていて、政治もそいつらがもうかるように、いっしょうけんめいやってるんだろ?」

 という言説を聞くと、ぼくなんかは、ものすごいリアルな気がするんだけど、たとえばある種のBBSや人力検索のサイトなんかをみていると、必ずしもそんなふうには出てこない。
 「官僚や役人、コームインのやつらが怠けていて、税金を湯水のごとく使っている」
 というふうなルサンチマンの発揮のしかたがされることのほうが多い。そして「官から民へ。そうすれば競争が起きて、効率がよくなる」というのが「解決策」みたく言われてしまうのだ。
 官僚制度がさまざまな腐敗に満ちていることは言うまでもないことだけど、「民」(企業)と「市場システム」が実に無垢な形でそれと対比されるという構図に、どうしてリアリティを感じてしまうのか不思議でならない。

 たとえば、郵政民営化で“今は公務員だからむちゃくちゃサービスが悪いけど、民間になれば競争になってサービスは自然によくなる”的なことが平気で言われる。ある人力検索ではこうした言説が何の根拠もなくあふれかえっていた。
 しかし、たとえば日経新聞が10月5日付(2004年)をみてみるがいい。そこでは金融機関ランキングを発表していたが(全国8000人調査)、サービス・商品では「郵便局」が他の金融機関を抑えてトップにたち、接客でも第7位だった。総合ランキングでも第2位。もしこのデータからいえば、「金融機関はすべて単一に国営化せよ」ということになるのだろうか。んなこと、言うつもりはないけど。
 「民間になれば……」というのは、ほとんど自動化した信仰のようなものとしか思えない。

 本書(『悪意なき欺瞞』)は、新古典派を中心とした主流派経済学が描いてきた通説の「欺瞞」を、中心点にねらいを定めた簡潔なことばで射抜く。一種のエッセイといってよいものだから、厳密な経済学的証明は一切ない。ただ、言われた方は身に覚えがあることだろうと思う。
 わずか150ページたらず。すぐ読めるが、ガルブレイスの「エッセンスを凝縮」(オビ)というだけあって、スケールはでかい。
 

 ここで批判されるのは、次のような通説である。

「市場システムの社会では主権者は消費者である」
「販促や広告ではなく、需給曲線こそが消費者主権の真理を表現する」
「労働は苦労ではなく喜びである」
「政府組織は官僚制が支配するが民間企業ではそんなことはあり得ない」
「企業統治は株主が主権をもっている」
「官と民があり、両者はその区分をめぐって争っている」
「エコノミストは経済の将来を予測する」
「中央銀行はインフレや不況退治のために実効ある金融政策をうちだす」

などなどである。
 これ以外にも、いくつかの通説の「欺瞞」が暴かれる。

 ガルブレイスはこの本をマルクスの名もあげて、「『資本主義』という死語」から始める。
 いまの経済システムを「資本主義」という歴史的特殊性からとらえる見地が、その言葉を「死語」にせしめ、かわりに「市場システム」と言い換えることにより、完全に欠落していき、経済システム把握はきわめて平板なものになってしまう。

「市場システムという言葉が『思いやりのある資本主義』という意味に解されるようになったのは、法人が現にやっていること、すなわち生産者が消費者の需要を支配し、都合のいいように操作している、という現実を覆い隠すために、資本主義に市場システムという、見てくれのいい変装を施したことに由来するのである」

 また、次のようにものべる。

「かつて日常的に用いられていた『独占資本主義』という言葉は、学術論文からも政治的文書からも姿を消してしまった。いまや消費者は独占資本の支配下にあるのではなくして、彼/彼女は主権者なのだから――実のところはそうではないにせよ――と、教科書にはそう書かれているのである」

 公正な市場により、消費者は自由な選択をし適切な資源配分を受けている――これが新古典派の描く経済像であるが、実際には、「生産者」すなわち企業、とりわけ独占資本という大企業が支配を強いている、というのが現実ではないか。マルクス主義のなかでは実に古典的ともいうべき当たり前の認識を、ガルブレイスはしっかりのべるのだ。

 だれもが、レーニンを思い出すだろう。
「自由競争は生産の集積を生み出し、この集積はまたその発展の特定の段階で独占をもたらす……支配関係とそれに結びついた強制の関係――これこそが『資本主義の発展における最新の局面』にとって典型的なものであり、これこそが、全能の経済的独占の形成から不可避的に発生せざるをえなかったものであり、また実際に発生したものである」(『帝国主義論』)

 いや、昨今のなよなよした一部のマルキストよりも、もっと直截にガルブレイスは次のようにのべる。

「よく考えてみれば、公的セクターと私的セクターを区別すること自体が、無意味なことのように思えてくる。なぜなら、いわゆる公的セクターの仕事の大部分、その根幹となる部分、そして拡張しつつある部分は、私的セクターを潤すことのみを、そのねらいとしているからである」

 政治は資本に奉仕するためにおこなわれている、というあけすけな表現。

 ぼくは、これこそがリアルそのものだと思う。
 新古典派がどのように粉飾しようが、目の前にはこうした事実が広がっているのであり、それを力強く断じる野蛮さというものが、むしろ10年前よりもはるかに「ウケる」中身なのだ。そういえば、山口二郎や渡辺治が政治学会で日本の左翼の現在について報告し「左派の綱領は10年前よりも高く売れる条件がある」といっていたのだが、まさにその通りであろう。亡くなってしまったが、青木雄二のようにあけっぴろげに「世の中ゼニや」と語ることが実はリアルだったりする。

 その解決策として、「市場を廃止して理性による一元的計画を」と唱えるのではなく、現状を不公正な「生産者の支配」だととらえたうえで、「公正な市場をどう構築するか」という課題の提出の仕方をするのであれば、マルキストは修正資本主義者たちとも手を組みながら前進をしていくことができる。


 なお、本書でいちばん「グッ」ときてしまったのは、「『労働』をめぐるパラドックス」の章である。「労働は喜びである」として、それをたたえるだけの言説を、ガルブレイスは批判する。

「一生懸命働く人は褒めたたえられる。しかし、称賛を口にするのは、褒められた人が味わったような労苦を免れた人、もしくは汗水たらすことを上手に回避できた人がほとんどである」

 はは、なるほど、と思う。
 関川夏央でさえ、新井英樹『宮本から君へ』を評した際に、「労働とはやむを得ざる苦役だという昨今流行の西欧型労働観を敢然と否定し、……労働のなかに自己実現をめざしたいという、日本独特の『危険な思想』が居直るときの、暑苦しいすがすがしさとでも呼ぶべきなにものかが、この作品にはある」(関川『知識的大衆諸君、これもマンガだ』)とのべた。少しわかりにくいが、関川自身は後者の労働観をとるものであろう。

 3割も給料をピンハネをされ、今日は北海道、明日は沖縄と飛ばされ、休みもとれずに体をこわしてしまった請負労働者たちに、ナイーブに「労働は喜びである」と誰が説教できるだろう。その軋みが鳴るほどの大量の苦役的労働の上に、「自己実現」可能な「労働」がうっすらと横たわっているにすぎない。

 ガルブレイスはケインズを引用して次のように言う。

「しばしば辛らつな舌鋒をふるったジョン・メイナード・ケインズは、『労働は喜びである』という言説に対して疑問を呈した。ケインズは、高齢で亡くなったビルの掃除婦の墓碑に彫りこまれた次のような銘文を引用する。彼女は働き詰めの人生からようやくにして解放されたのである。

 友よ、私を哀悼することなかれ
 二度と涙を流さないでいてくれたまえ
 私はこれで何もしなくてよくなったのだから
 いつまでもいつまでも久しく」







『悪意なき欺瞞 誰も語らなかった経済の真相』
ジョン・ケネス・ガルブレイス
佐和隆光:訳
ダイヤモンド社
2004.10.13感想記
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