永江朗『インタビュー術!』



けらえいこさんにインタビューしました


セキララ結婚生活 メディアファクトリーの書評誌「ダ・ヴィンチ」2007年2月号で、『あたしンち』で知られる漫画家・けらえいこさんのインタビュアーをつとめさせていただきました。けらさんが1991年に出したコミックエッセイ『セキララ結婚生活』、それにつづく『たたかうお嫁さま』『いっしょにスーパー』の3冊が今回同時に新装版になったので、それをうけてのインタビューです。

たたかうお嫁さま  バブル末期、コミックエッセイそのものはすでに様々な形で存在していましたが、いま爆発的に広がる「日常感覚によりそったコミックエッセイのスタイル」を確立したのは、まさにけらさんであるとぼくは思っています。
いっしょにスーパー  コミックエッセイというジャンルがまだ未発達だった時代に、けらさんがどのような苦闘を経てこの分野を生み出したかという「歴史」をたどることで、コミックエッセイというジャンルがもっている「構造(論理)」がどのように立ち現れてきたのかを明らかにしたつもりです。

ダ・ヴィンチ 2007年 02月号 [雑誌] けらさんの夫、上田さんにも同席していただき、インタビューとしてはなかなか貴重なものになったのではないかと思います。ぜひ手にとっていただければ幸いです。インタビューそのものも盛り上がって、私としては非常に楽しい時間でした。この場をおかりして、けらさんご夫妻、そして下準備をしてくれた編集のみなさんにもお礼を申し上げておきます。ありがとうございました。


ある恥ずかしいインタビューの「思ひ出」


インタビュー術!  さて、インタビューという作業ですが、実はぼくは日常的によくやります。
 いや、正確にいうとちがいます。あとから紹介しますが、永江朗の『インタビュー術!』にも冒頭に〈インタビューと取材は似ているけど少し違う〉(p.16)とあるように、ぼくがよくやっているのは「取材」に近いことですね。

〈ひと言でいうなら、インタビューの主役はインタビュイー(話し手)の言葉である。それに対して取材は、インタビュイーが話す内容や意味が主役となる〉(p.17)

 永江はその違いをわからせる例として、ある作家の新刊本にかんするインタビューでのエピソードを紹介します。なぜこの本を出すことになったのかと永江が聞くと、その作家は「これを読めばわかる」といって新刊本の前書き部分の原稿を永江にさしだしたのです。

〈違うのだ。私はどうして作家がその本を作ることになったのかを知りたかったのではなく、その経緯を語る彼女自身の言葉が欲しかった〉(p.17)

機会不平等  これはよくわかります。たとえば斎藤貴男『機会不平等』が名著なのは、問題をえぐり出す視点もさることながら、インタビューが秀逸だからです。「ゆとり教育」は労働力の選別のために必要なのだ、ということを政府の審議会の責任者(三浦朱門)自身の次の言葉で語られるから、息をのむような迫力が生まれるのです。

〈できん者はできんままで結構。戦後五十年、落ちこぼれの底辺を上げることにばかり注いできた労力を、できる者を限りなく伸ばすことに振り向ける。百人に一人でいい、やがて彼らが国を引っ張っていきます。限りなくできない非才、無才には、せめて実直な精神だけを養っておいてもらえばいいんです〉(斎藤前掲書p.40)

 ええと、話を戻しますが、そういう意味では語り手の言葉を重視する「インタビュー」そのものとその編集的執筆を、ぼくはやったことがほとんどありませんでした。とくに有名人のインタビューというのは皆無でした。
 いや、正確にいうと一度あります。
 学生時代、いまから十数年前ですが、学生が編集する新聞の一員として、ある有名な脚本家の学生時代についてインタビューするためにその人のところにうかがったことがあります。しかし、ぼくはそのとき、その有名脚本家の作品を何一つ読まないまま、見ないままインタビューにうかがい、その人が話のなかでくり返しその作品について述べたのですが、まったく理解していませんでした。そして素直にそのことをインタビューの場でもぼくは吐露したのです(何の罪悪感もなく)。

 永江は〈なにも調べずに行き当たりばったりの出たとこ勝負でインタビューする人もいるそうだが、それはよほど自分に能力に自信のあるインタビュアーのこと。小心者の私にはとても無理だ〉(p.42)と書いていますが、ぼくの場合はこれ以前の問題です。編集部に言われたからその人のところに行ったまでのことであって、正直その脚本家にたいする知識はほぼゼロのままでその人の前にぼくは現れ、通り一遍の学生生活についての質問をしたわけです。
 その脚本家はかなりデキた人で、そういう無礼千万な学生に対しても懇切丁寧に答えてくれましたが、今考えると蛮勇とはまさにこのこと。自分が何をしているかほとんどわかっていないというもので、若さって怖いもの知らずなのね、ということを慄然とした思いで振り返ることができます。

 さて、インタビューにかんするそんな寒い思い出しかないぼくは、そもそも方法論からきちんと身につけないといけないと思い、「けらえいこ」インタビューにあたって、いくつかの本を読んだのです。
 そして、昔ななめ読みした本書を、こんどは非常に切実な思いをもって読み返しました。そしてこの本が一番役に立ったと思ったのでここで紹介している次第です。まったくの偶然なのですが、永江は「ダ・ヴィンチ」誌の常連のインタビュアーであり、そのことも本書が参考になった理由でした。


インタビューの加工 どこを削りゃあいいの!?


 本書は、第一章と第二章が表題のとおりインタビューの技術にかんする記述で、第三章が「インタビューはこう読め」と題して、インタビュー技術を応用して既存のインタビューの「裏」を読む方法を披瀝しています。
 インタビュアーにならない普通の人は第一章と第二章は面白くないかといえばそんなことはありません。今述べたとおり、巷にあふれるインタビューを読み解くさいに、インタビュアー側の戦略、編集と執筆の技術がわかるとまるで舞台裏がわかるような感じになります。

 たとえば、第二章には「インタビューをまとめる」という項目があります。

〈インタビューを読むときは、用心しなければならない。私たちは、人が話したことを、そのまま文章にしたのがインタビューだと思ってしまいがちだ。しかし、実際にはさまざまな「加工」が行われてはじめてインタビュー文になる〉(p.104)

 これ自体は、言われてみれば何となく聞いたことがあるかもしれません。面白いのは、永江はこのあとに自分が実際に雑誌でやった生インタビューデータと、実際に雑誌に載ったインタビュー記事とを比較していることです。
 地方紙から「噂の真相」誌に移った西岡研介というライターのインタビューなのですが、「噂の真相」がごろつき扱いをされ徹底的に嫌われているのでなかなか取材がしにくい、そこを一体どうやって食い込むのか、なんていう話を面白おかしく西岡が生インタビューではしゃべります。
 たとえば警察関係についてはこうです。

〈抱かせはしないけど、飲ませて。こっちの情報をどんどん流す。流して困るような情報は流さないけど、「情報はしゃべるところに集まる」というのが川端の名言で。じゃんじゃん情報を流すと、向こうも心苦しくなって、どんんどん流してくる。貸しを作る。それがわかるヤツとつきあう。わからんやつとはつきあわない。内調公調なんて「おしえてください」というだけで何もくれんし、何も持っていないからつきあわない。情報機関やゆうてるけど、カスみたいなものですから、ゴミみたいなもんですよ。つぶしたほうがええ〉(p.112)

 どうですか。かなり面白いと思いませんか。
 でもこれはほんの一部なんです。永江はこの「生インタビュー」についてかなりの分量を割いて紹介していて、なんと新書のなかで9ページもこんな西岡の面白い話が続くんですね。
 ところが雑誌ではそのときはインタビューを起した原稿の4分の1しか使えないという制約になっていたので、4分の3を捨てないといけない
 正直、ぼくはそれを読んで目眩がしましたね。
 こんなに面白いインタビューのうち4分の3も捨てないといけないのか、と。しかも「噂の真相」とはどういう雑誌かとか、西岡とはどういう人かを簡単にでも紹介するスペースもその中に入れないといけないのですから、本当にもったいない、一体どこを切りゃいいの、なんてぼくは読んでいて思うわけです。

 そして、永江は実際に雑誌にのった「編集されたインタビュー」(一部)をその後に掲載しています。
 実は元のインタビューの「豊かさ」を知っている者からすると、多分にそれが切り落とされているように見えるし、実際に切り落とされているわけですが、しかし虚心になってこの記事を初めて読むような気持ちで読む、つまり一介の読者と同じ視点で読んでみると、ちゃんと西岡の話の面白さのエッセンスが入っているんですね。そしてそれが伝わっている。さっき紹介した部分も、ざっくり省略されて短くなっていますが、本質的なものは伝わります。なるほどプロの仕事とはこういうものか、と舌を巻きました。

 こうした編集の「極意」の一部を、永江はこんなふうに書いています。

〈千字程度の短い原稿に、いくつもの論点は盛り込めない。せいぜい二つ三つだ。そこで、データ原稿を眺めながら、どのポイントを使うか考える。大いに盛り上がったインタビューは、どの部分も切り捨てるには惜しい気がしてくるが、いくつもの論点を盛り込んでは迫力が出ない。まず、いちばん使いたいポイントに沿って原稿を書き、それへの補足として、導入に一点、終わりに一点ぐらいか〉(p.107)

 こうした舞台裏がわかれば、インタビュー記事を読むとき、インタビュイーではなくインタビュアーが何を意図したかをまず感じとることが大事だということがわかります。何が選択されたかという裏には何が選択されなかったのかという事情があり、ぼくたちはインタビュアーの織り成す「物語」を良くも悪くも読んでいるのです。


インタビューに何を着ていくのか


 この本の全体がけらさんのインタビューで生きてきましたが、たとえば、こんなことだけでも役に立ちました。

〈たとえば服装。インタビューに何を着ていくかなんて、どうでもいいことのようにも思えるが、意外とそうでもない。人はまず見かけであなたを判断する。私の場合、若い作家やタレントに話を聞くときは、できるだけカジュアルな服装を選ぶ。彼/彼女は、スーツ姿の中年男に質問をされると、威圧感を受けてしまうのではないかと思う。自分よりも年上の人のときや、一般企業の人に話を聞くときは、もう少しきちんとした服装をする〉(p.54)

 この前提には〈話し手は不安をいっぱい抱えている〉(p.55)という事情があります。そのために〈相手にリラックスしてもらわねばならない〉(p.54)という演出なのですが、取材意図の説明や見本誌の郵送といったこともこうした「話し手の不安解消」の準備にはふくまれているのだと永江は論じています。

 ぼくの場合も「服装」は大事な要素でした。
 なぜなら、ぼくはけらさんに対してはもちろん、編集のかたに対して一面識もなかったからです。もちろんインタビュイーに面識がないのは通常ですが、ぼくの場合、さらに編集のかたにたいしても面識がなかったので、この人間はインタビュアーとして「使える」かどうかがまったく未知数だという関係にありました(インタビューの前日まで編集のかたとは電話とメールだけのやりとりでした)。
 そこで、できるだけきちんと下準備をすることと、下準備をしていることを編集の方に「透明化」することを心がけました。メールや電話の対応もできるだけ「堅実に」しました(もちろん客観的に見て及第点にあったかどうかはわかりませんが)。
 そういうお互いに「ド緊張」「ド不安」のなかにあるのではないか、というのがぼくの推察でした。
 ゆえに、「カタすぎず」「くだけすぎず」という服装をねらうことにし、わざわざつれあいに服を選んでもらって買い揃え、当日出かけました。眼鏡まで「編集のかたに会うときのもの」と「けらさん夫妻に会うときのもの」にわけました。前者は少しだけシャープな印象(仕事ができるという印象)、後者はできるだけリラックスした印象(話しやすいという印象)をめざしたのです。

 永江は、質問項目を準備することをすすめていたので、ぼくもそうしました。というか、これをかなり綿密にやりました。結果的にそれが「綿密」なものになったかどうか、客観的な評価はわかりませんが、遠くの図書館で資料を借りたり何日も夜中まで準備していたので、つれあいが驚くというか呆れていたのは事実です。
 
 そんなふうにがんばってはみたのですが、準備不足を当日痛感することがいくつかありました。実際のところは、編集のかたのサポートや当日のけらさん夫妻の気づかい・受け答えに救われたというのが正直なところだと思います。これを読んでいる方が「ダ・ヴィンチ」誌を手にとることがあって、もし文章化に現れてしまったそのあたりの未熟さを感じとることがあれば、それはぼくの責任なので(当たり前ですが)、どうぞ寛恕いただきたいと思います。

 質問項目を作って臨んでも、インタビューは「生きもの」です。質問項目どおりには必ずしも進みません。
 永江はそのことについてこんなふうに言っています。

〈用意した質問項目に従ってインタビューを進めようとしても、現実は必ずしもそのとおりにいかない。話はときどき逸脱するし、逸脱からさらに逸脱して、質問とはまったく違う話になってしまうこともある。この逸脱こそがインタビューの醍醐味だ〉(p.58)

〈事前にどれだけ勉強したか、あるいはインタビュアーの知識や見識(つまり高級ソープ嬢の「教養」だ)がここで問われる。相手が語るエピソードに敏感に反応できなければ、「こいつに話しても伝わらないな」とそれ以上話すのをあきらめてしまうかもしれない。逆に、「なるほど、それはこういうことですね。××といえば、こういうこともありましたが」とさらに話を発展させる質問や発言をしていけば、インタビューはより広く深くなる〉(p.59)

 永江は質問項目の準備を「楽譜」にたとえ、その項目からの逸脱・発展を「ジャズのセッション」や「連歌」になぞらえています。このあたりも大変参考になりました。


おれが先にやってりゃあ今頃は!


 さて、本書はこうしたインタビュー技術をのべたあとに、出版された有名なインタビューを紹介し、論評をくわえています。ぼくの目をひいたのは、スタッズ・ターケルの『仕事!』への永江の注目でした。

 この本は、アメリカに住んでいる、まさに「何でもない」市井の人々の「仕事」をひたすらインタビューしているもので、〈徹底的にインタビュイーの言葉だけで構成〉(p.177)してあります。永江がのべているように、一人ひとりのインタビューだけでは「本」にはなりえないのですが、これが分厚い一冊となって「かたまり」になるとアメリカ人の職業観、労働観、ひいては哲学や人生観までが浮かび上がってくるという非常に不思議な本です。
 これはぼくが学生のころに目にしましたが、まさに永江と同じように「やられた!」という思いにとらわれました(実際にはぼくが目にしたのよりもかなり早く刊行されています)。
 いや、いまからいえばもう完全にバカみたいな言い分にしかなりませんが、同じ手法で何でもない日本人に大量にインタビューしてその人たちの労働観を浮かび上がらせるという本ができるのではないか、とジャーナリスト志望だったぼくは思っていたのです。先を越されたわけですね(笑)。

AV女優  似たものとして永沢光雄の『AV女優』があります。これはたくさんのAV女優のインタビュー集なのですが、よく風俗記事にあるようなエロインタビューではなく、AV女優の人生をあぶり出すまじめな質問ですべて構成されています。
 実はこれも学生時代に友人と「構想」していた企画だったのですが、永沢はそんなぼくらの構想をはるかに優れた形でしのいでしまったのです。

 本書の巻末にはインタビューというものを考えるうえでの参考文献リストが載っていますが、うちの一つにクリストファー・シルヴェスター編の『インタヴューズ』があげられています。
 これは歴史上の有名人のインタビューをまとめたもので、そのなかにはマルクスのインタビューも入っています。マルクスは著作や手紙は大量にありますが、「インタビュー」というのは珍しいのです。ぼくも刊行当時興味深く読んだ記憶があります。

 このように本書は、インタビューをするライターはもちろん、インタビューを読むすべての読書人にとって大変面白く役立つ一冊です。おすすめしておきます。





講談社新書
2007.1.13感想記
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