谷口ジロー『犬を飼う』
須藤真澄『長い長いさんぽ』




長い長いさんぽ  ビームコミックス  須藤真澄の『長い長いさんぽ』を読む。
 16歳になる老猫・ゆずとの死別を描いた話だ。

 ぼくは、どうしても谷口ジロー『犬を飼う』と比較してしまった。先日文庫版『犬を飼う』を手に入れる機会があったので、出張先にあった喫茶店で読んだ。すでに数年以上前に読んでいた作品だったが、もう泣けて泣けて仕方がなかった。

  『長い長いさんぽ』も『犬を飼う』も、どちらも十数年いっしょに暮らしてきた愛する動物の死を描いた話だし、子どものない夫婦で二人の生活の中心に、犬または猫がいたことも共通している。

 ただ、アプローチがまったく違う。

犬を飼う 『犬を飼う』についていえば、とくに立てなくなってからの描写がもうたまらない。
 痩せこけて食べ物ものどをとおらない愛犬・タムタムの様子を、谷口はくだんの自然主義的リアリズムで丹念に追っていく。
 骨が浮き出た顔、点滴さえもうけつけずに小便でもらしていく様。
 ふつうは、凄惨な描写のように思われる。
 しかし、それを生きることの格闘だととらえる谷口の視線によって、タムの最期の描写は漫画史上の一つの傑作といってよいほどすばらしいものに仕上がっている。

「なぜ、こんなになってまで
 生きようとするんだ?

 なぜ、こんなに
 がんばるんだ、タム?」

 この描写の直前に、壁にもたれてもはや動けなくなったタムに老女が声をかけるシーンがあり、これがそのあとのタムの最期の描写に実によく効いている。
 老女は、寂しさに満ちた表情で、力なくタムにこう話しかける。

「おまえ…
 いつまで生きているつもりなんだろうねえ。
 早く死んであげなきゃだめじゃないかね。
 おまえ……
 わかるだろ?
 あたしもさ、早くいっちまいたいんだよね。

 楽しいことなんかなんにもありゃしない。
 あたしゃね、
 迷惑かけたくないんだよ……

 このこだってそう思ってる。
 そう思ってるんだよ。

 でもね、死ねないんだよ……
 なかなかね
 ……死ねないもんだよ」

 タムの死の描写は、本当に「なぜこんなになってまで生きなければならないのか?」としか問いようがないほどのものだ。なおも生き続けようとするタムの描写には、単純に「生きるってすばらしい」などとはとうてい言えない厳しさがある。生きているということはリアルで、凄惨なものなのだ。
 そこで読み手は、生きていること自体の懐疑にめざめることもあるだろうし、逆に、人生に目的があろうとなかろうと、人生が輝いていようといまいと、生きていること自体の重さを考える人もいるだろう。『犬を飼う』の結論はどちらにも開かれていて、まさに読む者に「生きる」ということを考えさせる。


 これにたいして、須藤の『長い長いさんぽ』は、谷口とはまったく好対照のイラスト化された絵柄(ゆずは2chのモナーにさえ似ている)で、描写も死ぬ前ではなく(須藤がゆずの死に立ち会えなかったことが大きいのだが)、死んでからの須藤夫婦がどのように死を受容していったかがメインになっている。
 そう、「受容」である。
 イラスト化された須藤の絵柄はもちろん本作のために用意されてわけではなく、須藤の以前からのタッチなのだが、自然主義的なリアルさがかけらもないがゆえに、須藤によって描写された世界は、須藤がいったん自分のなかで充分に咀嚼し、再構成した世界であることを、読者は思い知る。

 ゆずが死んで火葬場にまで持っていくまで、ゆずにとって、そして須藤夫妻にとっての最後の「長い長いさんぽ」として位置づける。あるいは、ゆずが荼毘にふされる直前に「戻って来い!」と腿をパンパンと叩いたクセがずっとくり返されてしまう――こうした描写は、まさに須藤の中で起きている「ゆずの死の受容」そのものである。

 かと思えば、火葬する直前に葬儀屋が流す変なテープをずっこける調子で描く「ユーモラス」さも須藤は忘れない。

 須藤の内的な感傷的世界と、それを外側から冷静に眺めるユーモラスな視線とが交錯して、エッセイ漫画として水準の高いものにしあがっている。


 どちらがいい悪いということはないが、ぼくは谷口のような描写のほうが圧倒的に胸にくる。
 谷口は作品のなかで「動物の死は言葉を交えることができないだけに、切なさが胸をうつ」と書いているように、タムを動物として扱うことを徹底した。『犬を飼う』という文庫には、表題作のほかに「そして…猫を飼う」という話も入っているが、この姿勢は変わらない。
 この姿勢が、谷口の自然主義的なタッチによく映えている。

 これにたいして、須藤の場合は、いったん自分で消化して再構成する、という方向性が強い絵柄で、生きていた頃のゆずの描写も同じ本のなかでなされているが、ある程度「人格化」されている。人と「言葉」を交わし、まるで子どものように動物を扱う(じっさい、須藤夫妻は自分たちをゆずの「おかあさん」「おとうさん」と呼んでいる)。愛玩のために動物は存在しており、ここではまさに「ペット」である。

 ぼくは、小さいときニワトリ、インコ、ハトなどを飼い、犬は3匹も飼った。
 犬が死ねば何日も泣いたし、目の前でヒヨコが野良猫に食われたことはトラウマになってしまった。
 しかし、家が農家であったことも手伝ってか、これらを「家にあげて飼う」という風習は一切なかった(インコでさえ外で飼った)。いわば「家畜」の扱いに近い。
 つまり愛玩のための「ペット」として飼ったことはぼくには一度もないのだ。

 親戚の家にいくと、犬(チン)が座敷にあげてあって、幼心に奇妙な感じをうけたし、長じて猫を家で飼っている友だちの家にいくと、その「猫かわいがり」ようにどうしても馴染めなかった。

 谷口と須藤の漫画を読んだとき、ぼくのなかに大きな違いがうまれるのは、こんなところに原因があるのかもしれないと思ってみたりする。




谷口ジロー『犬を飼う』(小学館文庫)
須藤真澄『長い長いさんぽ』(エンターブレイン ビームコミックス)
2006.3.6感想記
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