久々に少女漫画を読んで静かな感動を味わう。
中学2年生の少女・朝倉玉緒が図書館で常々見かけていたすてきな男の子に声をかけて友だちになり、二人の静謐で濃厚な図書館生活がはじまる。
図書館という恋愛
『イロドリミドリ』というこの短編集におさめられた表題作は、まず、このぼくの妄想を微に入り細に入り展開してくれている。
玉緒はその少年——天間緑に本当に声をかける。声をかけてOKをもらうところから物語が始まる。これぞぼくが果たせなかったことだ。
図書館で異性とどんなふうに過ごしたかったのか。ぼくは出会って声をかけるということだけが妄想できた精いっぱいのことだったのだが、「イロドリミドリ」はぼくが具体化できなかった、「その先」を展開してくれている。
玉緒はなぜ図書館にいつもいるのかという理由を緑に聞かれて、いまはもう亡くなってしまった祖母の家に遊びにきていた幸福な体験がその元にあることを話す。図書館はその祖母の家の空気に似ていると玉緒は思ったのだ。
緑は玉緒の話をうけて、「ここは静かで穏やかだからね」と受け止め返す。玉緒は自分が図書館に感じる懐かしさの本質を見事に言い当ててくれたことにときめく。自分がとても大事にしている感覚をそんなふうに共有してくれる人がいることがうれしい。それはおそらく本を読んで同じような感動を味わったときの共有感につながるものがあるのだろう。自分そのものをわかってくれているという感覚を引き起こすものが読書経験の共有と共感なのだ。それが図書館という場所で起こるかもしれない(現実にはほぼ確実に起こりませんが)美しい共有なのである。
そのうれしさの気持ちのまま、玉緒は緑の顔をそっと見つめる。
「どうしてわかったの?
緑くんて
こうして近くで よく見ると
透き通るみたいに
すごくきれいな顔
してるんだなあ…」
自分の言いたかったこと、そして自分そのものをこんなふうにわかってくれている憧れの異性はこんなにもきれいなのだ。ああ、どうしてこんな体験がぼくには訪れなかったのか、と思うしかない。図書館の職員二人がその中学生カップルの初々しさを見守る視線まで「ぼく的」で、いやんなっちゃうほどだ。
「緑くんとの時間はおばあちゃんとの時間に似ている
お喋りに夢中になる日もあれば
一緒に勉強したりする日もある
ただ黙ってふたりで本を読んでいる日もある
そんな静かな日は
なぜか森林浴をしてる気分になる
深呼吸してるみたいに
深くゆっくりと広がって
満ちてゆく」
もうこれはユートピアじゃないですか。
実際には中学生といえども受験があったり部活があったり友人関係であれこれトラブルがあったりと、こんなふうに静かで穏やかな時間はすごせなかったはずだと思う。しかも、ぼくのような男子中学生は「ヤリたいさかり」だったから性欲まみれになってとてもこんな美しさ保存なんかできない。
図書館というものの静謐さがもたらす時間と空間は、永遠にそんなふうに過ごせるかもしれないという錯覚を引き起こす。この描写はそのことをとてもよく引き出している。
羽柴の絵とセリフの巧みさ
大雪で誰も図書館にいない冬の日。
玉緒は緑と二人きりになる。
誰もいないから大声をあげたりしてはしゃぐ二人。
おばあちゃんからもらった『星の王子さま』の中で一番好きなシーンについて玉緒が語る。
「『心で見なくちゃものごとは よく見えないってことさ』
『かんじんなことは目に見えないんだよ』って」
やがて、緑は玉緒にそっとキスをする。
そして緑が玉緒という存在が実は「気になっていた」ことを告げるのだ。
「ちょうど新緑の頃だったかな
図書館脇を流れてるそこの川に
乱反射した光が
天井で ゆらゆらしているのが
すごくきれいで見とれてたら
もうひとり それを静かにじっと見ている子がいて
ほんの一瞬のような時間だったけど
そのときその子と同じものを共有してる気がした」
それが玉緒だったのだ。
ここでも、美しいもの、心を動かされたものを共有できるしあわせについて語られる。読書とはそのようなことが起こりうる体験であり、図書館とはそのようなことが起こりうる場所なのである(しつこいが、現実には起こりません)。
そしてそれはそのまま思春期の恋愛の構造ともいえる。
こういう美しい体験が、引っ越しでバラバラにされちゃって、その体験は一瞬の美しさとしてとどめられる——っていう話かなーと思ったら、とんでもないことであった。もちろんそういう筋書きでも、ある程度の感動をぼくに引き起こしたんだだろうけど、この物語はそんな凡庸なものには終わらなかったのである。
流されない涙、流された涙
「私 緑くんのことが
自分のこの気持ちがなんなのか
もうよくわからない——……」
気持ちに何かの結論や整理をつけているわけではない。その混乱が涙を決して流さない、まぶたを半分とじたその玉緒の表情から伝わってくる。ぼくらは玉緒が涙を決して流さない、その姿を実に印象的に読むにちがいない。
後日、玉緒は図書館の職員から、緑からあずかった『星の王子さま』を渡される。その中に緑から玉緒宛の手紙が入れられていた。
引っ越しのための別れの言葉と、『星の王子さま』の感想だ。そしてもう一つ手紙が入っていた。それは緑が小さい頃から自分が女の子であることについてずっと違和感を抱き続けてきたことをつづったものだった。そしてそのことを玉緒にも打ち明けられず、できれば「男の子の緑くん」のまま玉緒の思い出になりたかったという心情がそこには書かれていた。
しかし、それは決して虚偽の時間ではなかった、と緑は考える。
「私が今までで一番自分らしくいられた
宝物のような時間だった」
そのうえで緑はこう結ぶ。
「でも それでも やっぱり
たまちゃんは僕の
特別で大切な初恋の女の子です」
そこで使われる一人称は「私」ではなく「僕」である。「僕」というふうに語りかけることこそが、緑にとって一番解放される瞬間なのだ。偽りであった時間が実は最も真実な時間であったというあざやかな弁証法がここにはある。
玉緒は手紙を読み終わり、静かに緑のことに思いを馳せる。『星の王子さま』のセリフをかみしめる。「心で見なくちゃものごとは よく見えないってことさ」「かんじんなことは目に見えないんだよ」。玉緒の目に写っていたものは女の子だった緑が男の子であるかのようなフリをしてつきあっていた時間だ。でも心で見た時に、そこに緑のどんな葛藤があったのかということ、そして緑とすごした時間そのものは決して偽りでも不幸なものでもなく、心底幸せな時間だったはずだったこと——その思いがまるで無数の光のように玉緒に浮かび上がってきたその瞬間、玉緒は初めて涙を流す。滂沱として涙を流す。
羽柴はその玉緒の表情をページ全体を使ってとらえる。これほどまでにタイミングを推し量られた涙がかつてあっただろうか?
その涙はただの「美しい思い出」に流されるものでも、「理解できなかったことの後悔」に流されるものでもない。真実がひとをとらえるときに流される涙ではないのか、とぼくは思った。
ここでは「性同一性障害」という「社会問題」としての色彩は消え失せ、ひとりの人間が確かにひとりの人間に恋をした物語として昇華している。その出来映えは見事というほかない。
この短編集に載っているどの短編も水準以上の出来ではあるが、この「イロドリミドリ」はまったく質やレベルが違う作品である。冒頭の「イロドリミドリ」がもっとも新しい作品のようだが、短編集全体を読むと絵柄そのものが微妙に変化し、筋のつくり形や造り込み方も発展しているのがわかる。
それ以前の短編には少女漫画や女性漫画にありがちな筋運び、絵柄、エピソード、感情の削りだし方が見受けられる(十分に達者なものだとは思うが)。たとえば、幼なじみに恋をする「糸と釦」は十二分に楽しめる作品であるが、そこでも涙は「ようやく流される」性格ではあるものの、やはり「イロドリミドリ」の出来とは比べ物にならない。
それほどまでに「イロドリミドリ」はいい。
いやあ、すごい作品である。