居酒屋談義の本音と政治家の本音
来年(2005年)は都議選だというので、「演説会告知」にかこつけた、宣伝ポスターが都内各地ではりめぐらされ、しのぎをけずっている。

これは川井という都議(自民)のポスター。
川井のポスターは、毎回なかなかに工夫されている。
前回「やる」と大書したポスターであったが、「しのご言わずに仕事をします」という意味であろう。もちろん、何をやるのかが問題じゃないかというツッコミはまったく正当にありうることは承知しているが、有権者のある一定部分の気持ちとして、「公約はだれも似たようなもの。問題はやるかやらないか」という気分(まちがっているとは思うが)があるなかで、それにアピールすることをねらったものである。
同じ選挙区から松本という都議(自民)が出ていたが、松本のポスターがほぼ何の工夫もない、たとえば日の丸をバックに演説しているポスターであるのをみると、「ああ、こいつ自分たちの内部にしかアピールする気がねえんだなあ」とわかり、それにくらべると、少なくとも自民党の固い支持票以外にアピールしようという川井の意欲は伝わってくる。
で、今回の川井のポスターは、みてのとおりで「本音で話したい」というキャッチフレーズである。実は、二種類あって、もうひとつのバージョンが「夢を語りたい」である。どちらも写真は同じだ。
まず、モノクロの写真であることに目がいく。
カラー印刷物の洪水のなかでは、逆に目を引く可能性がある。
そして、驚くべきことに、それは飲食店で食事をしている写真なのである。
しかも、テーブルの上のコップは、よく見るとアワがたっている。ビールであろう。少なくともその席には酒が交えられているのだ、と推察できる。居酒屋である、と考えてもそう間違ってはいないだろう。
酒を媒介にした場においてこそ、本音で語り合える。
そして、「本音(=リアルな現実)」だけではなく、「夢(=理想)」をも語り合いたい、という表明をしているわけである。
無党派層を中心に、有権者のなかには、政治の言葉が「本音=リアル」でもなければ、「夢=理想」をも語ってくれないことにたいして、相当の不満が鬱積しているとぼくは思う。川井のポスターはその気分をたくみにとらえてアピールをしているものだ。
川井自身が考えているのか、裏方がいるのかわからないけども、セオリーとしては見事である、といえる。
しかし。
にもかかわらず、この川井の訴えに、危惧を抱かざるをえない面がある。
いや、政治広告として決定的に間違っている。
それは「居酒屋の言葉」「居酒屋の本音」という問題である。
政治の場においても本音を語ってほしい、という欲望は、ある種の正当な要求をもっている。
「非戦闘地域とは自衛隊の行くところである」という言い回しではなくて、せめて「○○という要件が満たされれば戦闘地域である」と言い、それが満たされねば撤退する、という本音を語ってほしいのだろうし、逆に「北朝鮮との関係でもうなにがなんでもイラクに派兵しつづけねばならん」というのを本気でそう思っているなら(ぼくはまちがっていると思うけど)、そのことを本音で話してほしい――という欲望があり、そう思うことに一種の正当性はある。
そして、その「本音で語ってほしい」という欲望は、「居酒屋で語るように本音で語ってほしい」という欲望のすぐ隣にあって、たやすくそのように転形をとげる。
「居酒屋談義」。
酒というクスリの力を借りねば、コミニュケーションは円滑にいかないというのは、それ自身が危険な風潮であるとは思うのだが、そういう言説はいまだ日本的空間において強力である。ぼくの実家(田舎)では、「男は酒がのめないと仕事ができないよなあ」などという言葉が、いまだに説得力のある言葉として年輩者から語られる。
酒の場では、なるほど、人はあけすけである。
たとえば次のような一連の発言を、ぼくらは居酒屋で実によく小耳にはさむ。
「北朝鮮なんてさ、ガツーンとやってやればいいんだよ。ナメられてんだよ。日本はサ。あんなヤツらは、戦争して身の程を思い知らせてやるべきだよ」
「ほんと、子どもを生まない女っていうのは有害だよな。この世の中で一番有害なのはババアじゃねえの」
「憲法なんてさ、破りゃいいんだよ。あんな憲法、俺は認めないよ」
そう思っている人が大勢とは思わぬが、一定の部分の人たちは、そのように言いたいという欲望を持っているだろう。日本的な陰湿の空間は、戦後民主主義が退治しきれなかった暗部であり、それがネットというメディアをえたことによって、開花した。それまでならせいぜい居酒屋に封じ込められていたこの種の言説が、ネットという公共空間に平気で出てくるようになった。
そこに「本音で語ってほしい」というある種の正当性のある要求が結合し、この「居酒屋談義」が政治に持ち込まれる風潮は、加速している。
その「居酒屋談義」の真骨頂が、石原慎太郎という存在である。
以下はすべて石原が、議会、雑誌でおこなった公的な発言だ。
「北朝鮮のミサイルが日本に当たれば、長い目で見て良いことだろうと思った。日本は外界から刺激を受けない限り、目覚めない国だからだ」
「私が総理大臣になったら、北朝鮮と戦争をおっぱじめる」
「これは僕がいってるんじゃなくて、松井孝典がいってるんだけど、“文明がもたらしたもっとも悪しき有害なものはババア”なんだそうだ。“女性が生殖能力を失っても生きてるってのは、無駄で罪です”って。男は80、90歳でも生殖能力があるけれど、女は閉経してしまったら子供を産む力はない。そんな人間が、きんさん、ぎんさんの年まで生きてるってのは、地球にとって非常に悪しき弊害だって……。なるほどとは思うけど、政治家としてはいえないわね(笑い)」※
「(公務員による憲法の擁護遵守義務をうたった憲法)99条違反で結構でございます。私はあの憲法を認めません」
「命がけで憲法を破るんだ。当たり前のことじゃないか」
ぼくは、最後にあげた、「命がけで憲法を破るんだ」と怒鳴った瞬間の石原を見ていたのだが、うちの父親が酒に酔ったときそっくりであると思った。
こうした雰囲気に乗じて、それに連なる居酒屋談義政治家が放言する。
青少年の犯罪の「凶悪化」をうけて、自民党の武部幹事長が、のたまう。
「暴論かもしれないが、(若い人は)一度自衛隊に入ってサマワみたいなところに行き、緊張感を持って地元から感謝されて活動してみれば、3カ月ぐらいで、またたく間に変わるんじゃないか」
かもしれない、じゃなくて暴言だよ。それ。
BSE対策の無能ぶりで首をきられ、数時間の滞在で現地警察に話もきかずにサマワ安全宣言を発し、あとで追及されて「ぬかっていた。自治警察がそんなに整備されてるとは知らなかった」とぬけぬけと言う、あんたの緊張感はどうなんだ。
そして、これもまさに、うちの親父が酒の場でしていた放言そのものだ。
ここにあるのは、「居酒屋の本音」がだらしなく政治の場でタレ流されている様子である。
政治の言葉とは、「統合」する力を持っていなければならない。そのことは、別に保守であれ革新であれ、関係ない。すなわち、自分の支持者だけでなく、反対者が聞いても説得力のある言葉を探すところにその妙がある。良きにつけ悪しきにつけ、政治が統治の力であり、統合の力であることをみれば、それは明らかである。
支持者にしか通じない言葉で語ることは、簡単だ。
「日本は神の国」とは、支持者の中でしか通用しない言葉である。
日本の伝統や宗教観念を大切にすることを主張したいのであれば、それはそれでよい。しかし、問題は、それを、たとえ相手が賛成はしなくても、少なくとも「通じる言葉」に変換しなおして述べるのが政治家の責務であるということだ。くり返すが、反対者が必ずしも賛成に変わらなくてもよい。通じることが重要なのである。
政治の言葉がこのような役割を義務づけられているがゆえに、その堕落した形態は、「あいまいな言葉」となる。すべての立場の人をケムにまくようにしゃべるスタイルとなる。
そこから本音が欲求されてくることになる。
しかしだからといって、そのアンチテーゼは「居酒屋談義」であってはならない。
欲望のおもむくまま、普遍性を切り捨てた「本音」の言葉とは、たんなる「明け透けさ」であり、ある種の人々を強烈に満足させる代わりに、非同調者や反対者を傷つけ、怒らせ、抑圧する。
政治の言葉である、普遍性を保ちながら、同時にそれが本音の言葉である、気持ちの奥底に通じる言葉でなければならぬのだ。
日本を席巻する石原風の「居酒屋談義の本音」は実にあやうい。
政治家の言葉の力は、本音で語ることと、普遍性を両立させるところで問われるのである。
※松井孝典の名誉のためにいっておけば、松井が発言したのは、まったく逆の、人類だけがおばあさんという存在を許し、その知恵を借りることで種が存続してきた、とする「おばあさん仮説」である。ババアは有害というのは、まさに石原の女性観そのものであったのだ。石原はこの点を議会で共産党に追及され、答弁不能に陥った。
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