大塚英志・大澤信亮
『「ジャパニメーション」はなぜ敗れるか』



「ジャパニメーション」はなぜ敗れるか 「なぜ敗れるか」などという表題の問題提起とはまったく別に、一読して伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』が頭に浮かんだ。

 これは、伊藤自身がブログで告白していることでもある。
 最近でも、ある雑誌(※1)の鼎談のなかで、伊藤は大塚の本について、「問題意識が近いところがいくつかありました」「〔伊藤の書いた『テヅカ・イズ・デッド』が――引用者注〕あと三ヶ月遅れていたらやばかったと思う」とのべている。
 また、これも伊藤自身が告白していることだが、「結局、僕も大塚さんの『記号的身体の呪縛』や『アトムの命題』(徳間書店)を下敷きにしているわけなので、モデルが似るのは当然なんですね」と述べているように、既視感があって当たり前なのである。

 ただ、結論からいえば、ぼくは、伊藤にない、非常に大事な点を大塚に見た。
 大塚が日本の戦後史を広く反映させた立論をしているのにたいして、伊藤の漫画表現史(論)は、あまりにもそれが「漂白」されすぎているのである。伊藤やその支持者たる夏目などからいわせれば、それゆえに伊藤の立論の方が「開かれている」といいたいのであろうが。




本書の構成と、第一部の要約

 本書は、表題の答えを出すために、日本の「まんが/アニメ」の歴史的起源をさぐろうとする。これが二部構成の、第一部にまるまる当てられている。第二部が現状分析というか、現在だされているシンクタンクや政府側の文書の解析や資料の読み解きによって掲題の解答を見い出していこうというものである。
 もちろん、第二部にも関心はあるが、ぼくの関心が集中したのは第一部だった。
 第一部はまたしてもぼくの勝手な要約によれば次のような内容である。
  • 近代文学は、第一に、「私」という近代的主体を展開しつつ、第二に自然主義的リアリズムをたちあげた。
  • 漫画は、この近代文学史に対応した発展をとげた。すなわち、記号的リアリズム、つまり普通にいわれるところの線で描かれたあの「非リアリズム」に直面した。同時に「私」という近代的主体の容れ物として「キャラクター」を発展させてきた。
  • 戦時下においては、政府の方針によって、兵器的科学リアリズムが漫画に強要され、漫画はそれを発展させてきた。これが自然主義リアリズムの側面。同時に、大城のぼるにおいては「人物」(キャラクター)は極限までリアリズムに迫るが結局は近代的主体を内包しえないものとして終わった。
  • ところが、手塚治虫は、戦時下において兵器的リアリズムを受け継ぎつつ、「死にゆく身体」というリアリズムのキャラクターを『勝利の日まで』という作品によって誕生させてしまった。日本漫画の戦後史はここに起源を持つ。(さらにいえば「死にゆく身体」をもつことで、それはリアルな人間がもつ、身体性、暴力や性を内側にかかえこんだ。)戦時下においてこの近代文学史に対応する二側面を漫画はもつことになった。戦後漫画の原型は戦時下において出来たのである。
  • 戦後、手塚はこの発展をいったん封印され、ディズニー的な「死なない身体」「非兵器リアリズム」を充分に受容する。
  • その後、手塚はこの封印を解き、「死にゆく身体」を復活させ、漫画は近代的主体の容れ物たるキャラクターをもつにいたった。他方の「兵器的リアリズム」は封印されつづけた。手塚をはじめとする戦後漫画家は、素朴な憲法9条の実践家として、こうした兵器リアリズムを封印しつづける倫理性をもっていた。
  • 「近代的主体」としてのキャラクターは、少女漫画や梶原一騎などによって発展させられ、一応の完成をみる。他方で、兵器リアリズムは徐々に開封され、転向左翼たる富野・安彦の『ガンダム』によって最終的に解除させられる。
  • また、手塚漫画が内包していた身体性のリアリズムたる性や暴力性も次第に解除させられ、全面的に開花していく。萌え漫画も、ポストモダンではなく、戦後漫画が内包していた手塚的キャラクターの「性」の側面を露悪的に批評する形で成立したもので、きわめて近代的な現象である。




戦時下起源への無自覚を批判

 こうした漫画史を描くことで、大塚は、自らの戦時下起源を知らずに暴力性や性という欲望を堪能するむき、そしてそれを無自覚に「ジャパニメーション」として称揚し国策・国家的振興と結びつけてしまう傾向に、批判の矛先をむける。

「その事実〔戦後漫画の起源とその暴力性を自覚した手塚の倫理性――引用者注〕を考えたときに、一方で思うのは、今日のまんがの死なない身体性への無神経さです。殺す側に立った時には、残虐な表現が平気でできる。そういうグロテスクなものに対する強い嗜好がある一方で、主人公は死なない身体を平然と保ち続けている」(p.186)

「そういう〔歴史起源の――引用者注〕プロセスを知り、その上でいかなるリスクを自分の表現に抱えそれをコントロールしていくかに自覚的であることが大切だと思うのです」(p.185)

「繰り返しますが手塚治虫および戦後まんが/アニメは、まさに、戦時下や占領下の表現と格闘のなかで誕生した、倫理的な表現だったからです。戦後の日本まんがはこの手塚の問題意識を受け継ぐことで発展しました。かりに歴史的遺産と言うなら、そのことを忘れるべきではない。まんが/アニメーションが『普遍化』『国策化』しやすいからこそ、『歴史』という内省の根拠を抱え込まない限り、ぼくたちはこの戦時下起源の表現を操るリスクを回避できないのです」(p.187〜188)



イデオロギー暴露という方法

 事物の歴史性にむきあうことは、否応無しに、その事物のイデオロギー形態にむきあうことになる。事物は必ず価値中立形態としてイデオロギーをまとっている。そのイデオロギー性を歴史をふりかえることで暴露しなければならない。大塚はそのように明示的には言っていないけども、「ニュートラル」をよそおうものの仮面を剥ぐために、あえて自身が「イデオロギー批評」の体裁をとったのである。

 大塚は、漫画やアニメの技術という形で戦前において「技術」がニュートラルなものへと「脱色」されていった歴史をふりかえり、それは実は翼賛化の過程であったのではないかと警鐘をならす。
 “技術を教えるだけなんだからそれは政治とかそういうものは関係ないんだ”、という脱イデオロギー化の体裁こそが、戦時下において技術――結局は戦争に奉仕した技術を啓蒙するための格好の隠れ蓑となり、「転向左翼」によってそれが担われたのだと大塚は言う。



「まんが記号説」へも批判の矛先が…

 大塚はこの戦前のアナロジーとして、現在の「まんが記号説」をも批判していく。大塚によれば、「まんが記号説」とは、80年代の漫画評論の主流をしめた潮流で、代表的な論客として夏目房之介をあげている。夏目の仕事を継承すると自称する伊藤剛もこの系譜に属されているだろうということは想像に難くない。
 石子順造や石子順などによって担われた歴史的な視点が、呉智英らによって非難され、善くも悪くもイデオロギー的・歴史的な批評は後退し、漫画批評は歴史的視点をもたない「脱政治」色の強い、「私語り」あるいはそれと裏腹の「記号説」(表現論)へと変貌していく。

「戦後のまんがの、とくに八〇年代以降のまんが批評は、そういった手塚自身にあったまんが表現に対する歴史的な洞察をイデオロギー批評ごと消去して、『記号』の詳細な分析の中に手塚の記号説を還元していこうとしてしまったわけですね」「記号そのもののいささか細かすぎる分析がなされていて、しかも、それが何だかアカデミズムっぽく見えるところがまんが『記号』研究の厄介なところです。しかし何より問題なのはその結果として、政治的な視点や、歴史的な視点がまんが批評の中には不成立になってしまいがちなところです」(p.51)

「しつこいようですが『技術』を語る上で忘れてはいけないのは、まんがの技術論の多くは、思想的な背景から出てきたものだ、ということです。『まんが記号説』の脱政治性がぼくに気になるのはそれ故です。自らの用いる方法のイデオロギー的な背景や、思想、政治的な背景と、まんがの技術の結びつきを常に自覚しておかない限り、まんが表現の持っているリスクは回避できないと思います」(p.103)



ぼくが賛同しかねる点

 ぼくは、大塚のいっているような論法、すなわち“戦時下起源であるから気をつけるべきである、とりわけ現在はすでに「戦時下」なのだからそれを国策化するということの危険さを自覚すべきである”、という論法の部分には違和感を抱く。

 日本の侵略戦争においては、国内のあらゆるものが戦争に奉仕させられた。
 いうなれば経済体制全体、すなわち国家独占資本主義という現在の資本主義経済そのものが戦時体制の産物である(ここを参照せよ)。

 “戦時下起源であるゆえに気をつけねばならない”、という理屈は、ある程度はそう言えても、漫画やアニメを特別にとりだして警鐘を鳴らす対象とまではいえないのである。せいぜい、どんなものでも戦争に奉仕させられた歴史をもっており、今後もその危険性をもっている、という自覚をもつべきだという話となるだろう。

 また、大塚が最近くり返している、現状を「戦時下」だとする規定についても一言。
 ぼくの友人が、有事法制が通ったとき「さようなら戦後」という弔辞めいたことをあるMLで言ったものだった。しかし、これは早すぎる絶望である。戦後の終焉というものがあるとすれば、それは憲法体系がくつがえったとき(憲法9条が改定されたとき)であり、有事法制による米国の先制攻撃戦争への動員体制の準備は、危険ではあってもまだその途中にすぎない。この友人の危惧はある程度までは共有できても、ぼくはそれを「さようなら戦後」などと感傷めいた言葉でまとめる気にはとうていなれなかった。

 同様の気持ちが現状を「戦時下」とする大塚の規定をみたときにも起きた。
 大塚の危惧はかなりの程度には共有しうるし、大きくみれば現状への警鐘として、大事な意味をもっている。
 じっさい、「戦時下」という言葉を、日本が攻められたとき、あるいは日本が単独で攻めていったときのようにだけ考えて、「いまが戦時下なんてとんでもない」と笑っている人たちがいるが、こういう人たちこそ日本が何をしているかリアル認識がない「平和ボケ」なのだろう。
 アメリカは不法な先制攻撃をイラクにおこない、その戦闘の継続として「占領」をおこなっている。「占領」とそこでの掃討としての戦闘は、法的には不法な侵略戦争の継続とみなされる。自衛隊はその「占領」をおこなう多国籍軍の正式な一員である。
 くわえて。
 自衛隊は「人道支援」をしているだけではなく、「後方支援」という名の兵站活動を正式な任務にして、武装米兵や軍需物資を輸送している。現代戦において、ある意味、兵站は、前線以上に重要な意味をもつ。後方支援は、国際法的に武力行使と一体とみなされ、それは「敵対行為」となる。こういうところにふみこんでいるのが現在の日本であり、自衛隊だ。
 こうした現状を大塚が「戦時下」という形容で規定するのもわからないでもない。
 しかし、やはり本当に「戦時下」たる段階になるのは、憲法が改定され、集団的自衛権などが解除されて日本が海外で米国とともに「戦争ができる国」になったとき、そして実際に武力行使をおこなっているときが「戦時下」というにふさわしいと、ぼくは考える。
 だから、いま大塚が現状を「戦時下」と規定する気持ちの大半は同意できるものの、厳密に言えば、その規定を使いたくはないのである。



ぼくが共有できる点

 しかし、他方で、大塚が提示した手塚論=戦後漫画史論は、手塚が戦後民主主義の旗手の一人であったこと(手塚の倫理性、戦後漫画が憲法9条の愚直な反映だったこと)、同時に手塚が性や暴力をふくめた豊かな近代的テーマの展開者の可能性をもっていたことを、よりよく説明している。
 ぼくは別のところで、手塚という存在が戦後民主主義の担い手であり、逆に戦後民主主義を漫画の面で実践していったとのべ、さらに、本来戦後民主主義が備えなければならない豊かさを内包していたことを指摘した(実際には、政治における戦後民主主義の主要な言説は非常に硬直したものとなっていってしまったのだが)。

 手塚や戦後漫画のもつ倫理性が解体していくのにともなって、暴力や性の問題、兵器リアリズムの問題が、無自覚に花開いていることには、今のところ同意できる。そして、それへの危惧と自覚的対処についても共有しうる。
 大塚も「それがいいとか、悪いという問題に行くつもりは全くありません」(p.185)とのべているが、ぼくは、自分のなかにそういうものにまみれてみたい欲望が存在しているという自覚にたち、その欲望に虚構のなかでまみれてみることについては、むしろ肯定的な気持ちをもっている。
 ただ、一種の「火遊び」をしているという自覚がほしい。
 「虚構と現実など混同していない」ということは言えても、そう大声をあげることでまったく心の倫理的規制を解除しきって戯れられるものでもない。暴力や性のドライヴがどのように作動し、自分自身や他人、そして社会にどんな影響を与えているのかは未知のものだからだ。簡単にナショナリズムへ自分のアイデンティティをダブらせ、そうした「ぷち愛国」のすぐとなりに「萌え」、性や暴力への欲望などを開花させているという現状をみれば、漫画やアニメ、ひいてはサブカルチャー全体がもっている非歴史的態度=自己内省性のなさに危惧をおぼえるのは当然であろう。

 くり返しこのサイトでも引用している、ジャーナリストの吉岡忍の指摘を思い出す。

「サブカルチャーはメインの、あるいはトータルな文化が硬直し、形式化して人々の生活実感や感受性からずれてくると、あちらこちらで噴きだし、広がっていく。メインのつまらなさ、退屈さ、権威性に気づき、そこからの疎外感を感じとった人間は、みずからの生理や感覚をたよりに動きはじめる」(吉岡『M/世界の、憂鬱な先端』p.197)

「いま、ここで生きているという生理的リアリティーは大切だが、それを背後から励ますものがない。歴史の強靭な精神につなぐものがない。ここから先へ一歩を踏みだすための楽観の根拠がない。/いまここだけの関心。スライスされた現在にしか広がっていかない意識。それは過去から解き放たれて自由だろうが、どこに向かっても、どんな速度でもはじけ飛んでいけるという意味で、やっかいなものでもある。ときとして危険でもあるだろう」(吉岡前掲書p.28)



ところで夏目たちの態度はなんだ

 ところが、びっくりするのは、批判された夏目房之介たちの態度である。
 夏目は、先ほどの雑誌(※1)での伊藤との鼎談のなかでこう述べている。

夏目 僕の印象では、一番大きな違いは、大塚さんはイデオロギー的な読み取り方をしていて、それで切り抜けようとしていることだと思う。伊藤さんはあくまでも表現の水準での話に踏みとどまっている。そういう点で言うと、『「ジャパニメーション」はなぜ敗れるか』は啓蒙的で非常にいい本なんだけど、大塚レトリックの独特の晦渋さがあって、大塚さんのバイアスが強すぎる感じがある。僕個人としては、現時点では伊藤君の本のほうがより開かれていて使えるという印象なんです」(同誌p.55)

 大塚はまさに技術を漂白して中立化を装う態度そのものを問題にしているのに、それを問題視することを夏目は「イデオロギー的な読み取り」だといってするりと抜けてしまい、伊藤の理論を「表現の水準での話に踏みとどまっている」がゆえに「より開かれて」いる、というまさしく大塚が問題にしていることそのものを口にしている。批判されている当のロジックで返すという、「かみあわなさ」だ。

 あげくに、

夏目 僕も学生時代に、そんなことを人に言って脅かす、いわゆるオルグというやつをしたことがあるので、それはいかんだろうと個人的には思うわけ(笑)」

などと太平楽を気どる。
 ひとが真剣に話しているのに、横むいて笑っている感じがする。「それはいかんだろうと個人的には思うわけ」。別に大塚の議論に賛同する必要はないが、批判されたことにはポイントだけでも答えるべきで、そうでなければ笑って体をかわすようなことはすべきではない。
 夏目はこの鼎談で大塚の本についてたしかに多くをしゃべってはいるが、それはまさに無色化された「表現論」の範囲でのあれこれであって、大塚が提起した問題そのもの――漫画表現の戦時下起源――ということには、上記のこと以上には答えてはいないのである。



「脱政治色」にこだわらぬ態度にこそ自由な批評ができる

 前にものべたけど、ぼくは、夏目や伊藤らの表現論を、漫画を解析していくうえでとても有効な方法の一つだと思っている。
 ただし、それはあくまで「一つ」である。
 夏目は漫画批評について、「単純な社会反映論」という謂いで社会反映論そのものを否定する身振りをとってきたが(最近はそうでもないが)、ぼくは、漫画批評には社会反映論というモメントがもっと前面に出るべきだと思うし、「私」自身が「社会的諸関係の総体」(マルクス)であるとすれば「ぼくら語り」という方法ももっと豊かにとりいれられるべきだと思う。
 理論の諸契機の一つとして有効であるがゆえに、過去の漫画批評の方法はどれも一度は一世を風靡した。めざすはその理論的方法の諸道具を必要に応じて組み合わせることである。

 そう考えた時に、表現論を強調する人々や、かつて石子順らを批判した人々が奇妙なまでに「脱政治」色をかかげることは、それゆえに漫画批評に多大な不自由をもたらしている、とはいえまいか。
 社会反映論も「イデオロギー批評」も何の遠慮もなしに行える左翼こそ、今こそ自由な漫画批評ができるのかもしれない。




※1:「ユリイカ 詩と批評」(青土社)2006年1月号 特集「マンガ批評の最前線」 「キャラの近代、マンガの起源」夏目房之介、宮本大人、伊藤剛 

角川oneテーマ21
2006.1.5感想記(1.6補足)
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