本当に「縄文時代の記述はなくなった」のか
小学校6年生の社会科教科書を読む



縄文時代の記述がない!?


 ぼくが漫画評を書かせてもらっている「しんぶん赤旗」の「学問・文化」欄で、4月17日付(2007年)を読んでいたら、「小学校教科書 消えた旧石器・縄文時代」という学者の執筆記事があったのでびっくりした。「えー、今あの時代は教えられていないのかあ」と。

 ぼくは歴史好きのコドモで、最初に戦国時代、次に南北朝時代と愛好する時代区分を移動させていき、歴史を初めて勉強する小学校6年生のときには、「縄文時代」に異様な関心をもつようになっていた。
 担任の教師の影響だった。
 実は地元は縄文遺跡が多いところで、しかも歴史学上も重要な出土品が少なくない(たとえば家から少し離れた貝塚では人骨とともに埋葬された犬の骨が見つかっている)。自転車でいくつも校区をこえて出かけた貝塚は畑の中にあり、大量の貝と土器片がそのまま放置されていて、そこをほじくり歩けばちょっとした考古学者気分を味わえるのだ(そこは重要文化財指定なので明らかに法律に抵触する行為である)。


 縄文文化は、「異世界」の臭いが強い。
 そもそも農耕がない。貝ばっかり食べているように見える(笑)。イレズミやら土偶やらのプリミティブ感満載の小道具。そして縄文土器の強烈な装飾性。弥生土器ののっぺりとした「面白みのなさ」とくらべれば、どちらが子どもを惹き付けるかは言わずもがなである。
 こんなエキゾチックな文化が自分のまわりで展開されていることに、興奮するのだ。

 博物館めぐりはもちろん、友だちと数百キロ離れた貝塚を泊まりがけで見に行ったり、学研の図鑑に載っていた遺跡地図がまったくデタラメなものであってので「おかしい」と指摘する手紙を送って、謝罪と「お礼」の蛍光ペンをもらったりしていた(ヤな子どもだなオイ…)。
 さらに縄文熱が高じて、実家が家の裏の小ヤブにアサリやシジミの貝殻を大量に捨てていたので(ちなみにうちの地方では今から十数年くらい前までは食べた貝殻を家の前のアスファルトに捨て、車が往来して破砕・風散されるにまかせていたので、登校時に家の前に貝殻の山をよく見かけた)、そこを「貝塚」とみたてて、紙粘土を(家の庭で)焼いてつくった「縄文土器」を捨てたりしていた!

 それほど熱中した「時代」がもはや教科書からは消えているというのだ。

 この一文は、勅使河原彰(てしがわら・あきら)という文化財保存協議会の常任委員のものであり、ぼくも彼の『縄文文化』という新書を読んだことがある。

 この「しんぶん赤旗」の小論文では、次のように指摘されていた。

〈新六年生を迎えた子どもがいる親御さんなら、新学期から子どもたちが使う社会科教科書を開いてみて下さい。子どもたちが日本の歴史を学ぶ初めての教科書には、旧石器・縄文時代の記述が全くなくて、唐突に米づくりが始まった弥生時代から書き起されていることに、驚かれるのではないでしょうか。〉(勅使河原前掲)

 〈全くなくて〉とあることに、ぼくはとにかく驚いたのである。
 あまりの淋しさに、この目で見てみたい、という気持ちが起きてきた。いったい小学校の歴史記述というのはどうなっているのか、と。扶桑社の例の『新しい歴史教科書』は話題になったので読んでいたが、これは中学校のもので、もちろんこちらは旧石器時代から記述が起されている。しかし、小学校の記述については、卒業以来ついに見ていなかった。

 それで、教科書販売所にいって、東京書籍『新編 新しい社会 6上』と教育出版『小学社会 6上』を買ってきた。どちらもフルカラー、超厚手のいい紙を使っており、120ページ前後、なのに400円台。安っ。さすが教科書だ。
 ちなみに、知らない人のためにいっておけば、教科書は普通の書店では売っていない。ぼくと同じように買いたい人は最寄りの「教科書販売所」へ出かけて買うしかない。
http://www.text-kyoukyuu.or.jp/otoiawase.html

 ウィキペディアによれば東京書籍は教科書におけるシェアは全国トップで、もっとも「普遍的」な教科書といえる。教育出版は第3位だ。
 筆頭の著者、というか監修に特徴があって、東京書籍は佐々木毅。政治学者で、東大総長を務めた(現在は学習院大学教授)。民間政治臨調・21世紀臨調などに首をつっこんだ、保守派の論客である。
 教育出版は伊東光晴で、近代経済学者だが、マルクス経済学への視線をもあわせもった人物である。



たしかに本文にはない


 さて、開いてみると、たしかに冒頭はどちらも弥生時代の米づくりから始まっている。東京書籍は「米づくりのむらから古墳のくにへ」。教育出版は「1 国づくりへの歩み 米づくりが始まる」である。いちいち両者を出すのは煩雑なのでとりあえず東京書籍をベースに見ていく。

 まず、板付遺跡の航空写真。本文冒頭はこうである。

〈ここは福岡県福岡市にある板付遺跡です。板付遺跡は、大昔の水田のあとが見つかった遺跡として有名です。
「むらがほりで囲まれているね。何のためだろう。」
「遺跡の中に見える建物は家かな。何人ぐらいで住んでいたのかな。」
「このころの人々は、どんなくらしをしていたのかな。」
 このころの時代を、弥生時代といいます。ひとみさんたちは、遺跡の近くにある資料館で、弥生時代の人々のくらしについて調べることにしました。〉(東京書籍前掲)

 つづいて、当時の春夏秋冬の米づくりの想像図を一枚のイラストにまとめた見開きで出てきて、次のように書いてある。

〈米づくりのむらを見てみよう 米づくりを計画的に行うためには、多くの人々が協力し合う必要がありました。多くの人々をまとめ、指導する人物があらわれるのも、このころだと考えられています。〉(前掲)

 なるほど、まちがいなく、東京書籍の教科書は〈唐突に米づくりが始まった弥生時代から書き起されている〉(勅使河原前掲)。



学習指導要領の改訂が背景に


 なぜこのようなことになったのか。

 そのことについて、「しんぶん赤旗」の記事で、勅使河原がのべたところによると、1998年に改訂された学習指導要領(現場では2002年の実施になる)で大きく変わったのだという。


〈現行の小学校学習指導要領は、一九九八年十二月に改訂されたもので、実施は二〇〇二年度からになるが、完全学校週五日制の下で、「ゆとり」と「特色ある教育」をスタートさせた。
 歴史を学習する第六学年では、「我が国の歴史や伝統を大切にし、国を愛する心情を育てるようにする」ことなどを目標に掲げて、「自分たちの生活の歴史的背景、我が国の歴史や先人の働きについて理解と関心を深めるようにする」となどを内容としている。そのうえで、指導内容の厳選を図る観点から、「我が国の歴史を学習する際に調べる具体的な対象」として、「農耕の始まり、古墳について調べ、大和朝廷による国土の統一の様子が分かること。その際、神話・伝承を調べ、国の形成に関する考え方などに関心をもつこと」を定めている。しかも、実際の指導にあたっては、「示された歴史的事象の範囲にとどめ、それ以外のものは取り扱わないようにする」とを明確に指示しているのである。要するに農耕が始まる以前は教えるなということであるから、当然、小学校の社会科の教科書から旧石器時代と縄文時代の記述が削除されてしまったということである〉(勅使河原前掲)

 指導要領そのものは下記で読むことができる。
http://www.mext.go.jp/b_menu/shuppan/sonota/990301/03122601/003.htm


 ぼくは、教科書会社に電話して、このあたりの事情について、取材してみた。担当者は学習指導要領の改訂にふれたあと、次のようにのべた。

「週五日制のスタートとあわせて、当時『内容の厳選』ということが強調されました。それに教科書もあわせたんです。とくに、『内容の厳選』ということが、教科書からの削除という形で現れました。それで縄文時代が消えたんです」

 ほぼ勅使河原の指摘を裏付けるものだった。
 その担当者によれば、こうした事態は社会科だけではなく、理科で扱う草花の数が減ったり、有名な円周率の簡素化もこのとき起きたのだという。


 戦前は文部省=国家が教育の内容を一元的に統制していた。戦後、この国家主義教育が戦争の原因であったとして改革され、当時制定された教育基本法のもとで、地方ごとに行政から独立した教育委員会を中心に教育はすすめられることになった。教科書が地方ごとに採択されるのは、このときの制度の「名残り」である。
 ただし、全国で同じ教育レベルは必要だろうという「ナショナル・ミニマム」を提示する意味で「学習指導要領」という強制力のない「めやす」がつくられたのである。

 ところが、教育委員会制度がホネぬきにされ、国家統制が復活していくなかで、学習指導要領は強力な拘束力をもつようになり、教科書はこれにさからっては「検定」をとおらないようになっている。
 ゆえに、教科書会社は非常に指導要領の中身の変化に敏感なのである。
 今回のこの事態も、まさに教科書会社が敏感にこの変化を反映した結果なのだ。



実は教科書には縄文についての叙述は残っている


 勅使河原は、記事のなかで、三内丸山遺跡(縄文)や岩宿遺跡(旧石器)にふれてこれが大きな国民的関心事になったのに、小学校教科書からは縄文や旧石器が〈削除されてしまった〉(勅使河原前掲)と書いている。

 ところがである。

 東京書籍の教科書を読みすすめると、古墳時代をおえて、一区切りをつけたあとに、〈のりおさんは、米づくりが始まる前の時代について調べてみました〉というページが出てくるのだ。
 そして、なんと「三内丸山遺跡」の写真と説明、「縄文土器」などが出てくるではないか! しかもキャプションのなかに「縄文時代」という言葉もちゃんと出てくるし、そのとなりにある年表にはきちんと「縄文時代」が書いてあるのだ。

 よくみてみると、教科書のこの縄文の記事の近くには、「とびだせ!」というイルカのイラストが書いてある。つまり本文扱いではない、ひとつのコーナーなのだな、ということになっている。
 教科書の終わりには、ごていねいにも次のような凡例説明がある。

〈本教科書で取り上げている「とびだせ!」の内容は、学習指導要領に示されていない内容(いわゆる「発展的な学習内容」)で、すべての児童が一律に学習するものではありません〉

 子どもが読むはずの教科書に、一体誰のために書かれた説明なのか、と苦笑してしまう。

 教育出版の教科書はどうなっているのか。先ほどのべたように、たしかに章立ては「米づくり」なのだが、内容はよく読むと次のような問答から始まる。

〈「大昔の人々は、どんなものを食べていたのかな。ぼくも食べてみたいな。」
「この土器はどうやってつくられたのだろう。わたしにもできるかな。」
 わたしたちは、地域にある博物館や遺跡を訪ねて、大昔の人々の暮らしをのぞいてみました。〉

 そして、この問答の載っているページには、縄文土器や縄文時代の年間の食生活が載っているのである。
 くわえて、問答のあとに始まる地の文は次のようになっている。

〈今から1万年ほど前、日本列島では、人々は狩りや漁、木の実などの採集を中心とした暮らしをしていました。やがて朝鮮や中国から移り住んだ人々によって、米づくりの技術が伝えられ、しだいに各地に広がっていきました。福岡県の板付遺跡からは、今から2300年も前の水田のあとが見つかっています〉

 つまり、決して〈唐突に米づくりが始まった弥生時代から書き起されている〉というわけでは必ずしもないのだ。

 さらに、教育出版は漫画『名探偵コナン』のコナンのイラストとともに、「三内丸山縄文ワールドを調べよう」というページをもうけている。「はってん」という欄になっているが、文字は本文と同じ大きさ・字体である。(やはり教科書の終わりには、〈先生方・保護者の皆様へ このマークが付いているところは、この学年の学習指導要領に示されていない内容です。すべての児童が、一律に学習するものではありません〉と付記があるのだ)

 教育出版の教科書の終わりにつけてある総括的な年表にはきちんと「縄文時代」から始まっている。ただし東京書籍の年表には「縄文時代」はなく、「弥生時代」から始まっている。


 わざわざ勅使河原は、今使っている教科書を開いてみろと具体的に指示までしているのだが、開いてみると実は縄文の記述はちゃんとあるのである。〈子どもたちが日本の歴史を学ぶ初めての教科書には、旧石器・縄文時代の記述が全くなく〉〈教科書に何も書かれていない〉(勅使河原前掲)というのは、あきらかに言い過ぎだ。
 正確にいえば「本文には全くなく」ということになる。ただ、父母はすぐに「本文」「発展的学習」を区別するわけではないから、教科書を開けてみたときの印象としては、三内丸山も縄文もちゃんとあるなあ、ということになってしまうだろう。



いったん消されたものが「発展的学習」で復活


 実は、これには変遷がある。

 先の教科書会社の担当者は、取材のなかでこう述べた。

「98年の改訂では指導要領で定めた『以外のものは取り扱わないようにする』とうたわれ、掲載する内容がかなり『厳選』されました。それで、1999年に検定をうけて02年から04年まで現場で使われていた教科書には確かに載っていません」

 これは確認していないのだが、おそらく勅使河原はこのときの教科書を念頭においているのだろうと思う。
 教科書会社の担当者はさらに次のように続けた。

「しかし、縄文時代のように、これまであった叙述がなくなったのを人々が実際に見て驚き、そして、世間の『学力低下』批判も広がって、それら対応する形で、2003年に『発展的な学習』というのが付け加わったのです」

 すなわち条件次第で「発展的な学習」をやってもよい、というふうに指導要領や検定基準が変わったというのである。そして、2005年度から使われている教科書にはこの「発展的な学習」内容が載るようになって、そのなかで縄文時代の記述が復活したのだという。
 まさに「復活」したのである。ただし、本文とは区別をつけるようにされており、あの巻末の奇妙な「註」となっているわけだ。

 それでぼくは、特にさまざまな時代やトピックのなかで縄文時代が復活した理由について、その担当者に訊ねてみた。

「一つは、農耕が社会を大きく変えたと教えるのに、じゃあ一体大きく変わる前はどうだったのかという歴史を学ぶ上での素朴な疑問ですね。もう一つは、三内丸山遺跡のように、この時代というのは子どもたちにとっても興味をひく題材が多いということです。そしてもう一つあげるとすれば、学校の先生たちや教科書執筆者たちからも復活の要望が強かったということがあげられます」

 なるほど。実は勅使河原の記事のなかにも、昨年の日本考古学協会で旧石器・縄文の記述の復活を求める声明があげられているという記述がある。そこに結実されるにいたる現場の空気が文部科学省を動かしたのだろう。



縄文時代を消そうとした本当のねらい


 勅使河原の小論は、その学習指導要領の改訂の「意図」にまで進んでいく。たんに「ゆとり」をうたった内容厳選だけではないだろう、というわけである。

 勅使河原によれば、98年の改訂の土台には89年の改訂があり、このときに指導要領に〈天皇についての理解と敬愛の念を深めるようにすること〉(指導要領)などの項目が入り込み、日の丸・君が代の強制とあわせて〈小学校の段階で国民の思想統合をはかろうと意図したものである〉(勅使河原前掲)としている。

 勅使河原の推論では、指導要領において〈農耕の始まり、古墳について調べ、大和朝廷による国土の統一の様子が分かること。その際,神話・伝承を調べ、国の形成に関する考え方などに関心をもつこと〉(指導要領)とあるように、米づくり―神話―国家というトリニティを子どもに植えつけ、神武即位などの神話と矛盾する縄文の記述を削ったのだ、ということになっている。

〈記紀の神話と考古学による歴史とは、たとえば記紀で第一代とされる神武天皇が橿原宮で即位した紀元前六六〇年は、まだ石器時代であったというように、真っ向から対立するものであることから、神話を教科書で取り上げさせるためには、考古学による歴史叙述を教科書からできるだけ締め出す必要があるからである〉(勅使河原前掲)



弥生時代の米づくりで「神話・伝承」を調べる意味は?


 ぼくは、「内容の厳選」ということ自体はありうる話だと思っている。
 「ゆとり教育批判」と称して、それを批判するむきがあるのだが、吸収力のある子どもや、たまたま関心を深めることができた子どもは別として、子ども全体が歴史に関心をもち、「知識」ではなく「歴史観」を形成していける足がかりをつくるような歴史の授業をするためには、出来事が継起する叙述、「余計な」知識がいっぱい書いてある叙述というのは、子どもにむしろ混乱をもたらす。これは子どもが覚えきれないという意味ではなく、脈絡がないもの、自分とのかかわりが薄いものには意欲を示しにくいのだ。

 一つの事象を掘り下げるなかで、興味や意欲、全体への広がりの連関が見えてくるのだ、という方法論は、正しい。

 しかし、問題は何を落として何を残すか、というその中身である。
 ぼくも、縄文を〈すべての児童が、一律に学習するものではありません〉的な扱いをすることは、おかしいのではないかと思う。

 そして、勅使河原の指摘にあるように、そこにはちょっとうさんくさいものを感じる。
 東京書籍の教科書は、指導要領に忠実に、米づくりのところで「調べること」として「神話や伝承」をあげている(教育出版にはこうした記述はない)。
 弥生時代の米づくりについてわざわざ「神話と伝承」を調査項目入れることは、この時代にたいする歴史観を形成するうえで絶対不可欠なものだろうか。
 とてもそうは思えない。
 だいたい、そんな神話や伝承は少ない。

 たとえば、ぼくの地元でぱっと思いつく「神話」をあげてみると、ぼくの生まれ故郷の近くに「八ケ尻」という集落がある。この由来は大きな沼に頭が8つ、尾が8つに分かれている大蛇が住んでいて人畜に害をなしたので、これをある勇士が倒し、その大蛇の頭が流れ着いた先を「八ツ面」、尻(尾)が流れ着いた先を「八ケ尻」と名づけた、というものだ。
 現在も集落名としてどちらも残っており、「八ツ面」の方は小学校名にまでなっている。
この勇士について〈これは素盞嗚命という話もある〉(『西尾市史』)などと書いてあるが、まんまヤマタノオロチ伝説やんけ。

 これを調べさせて、〈米づくりによって、世の中の様子はどのように変わっていったのでしょうか〉(東京書籍前掲)ということの解明に果たして資するというのだろうか。

 おそらく、教科書執筆者、そして国家側の意図としては、「田植え―豊穣―地域の祭―神話―天皇制」というゆるやかな流れをここで意識させたいのだろう。
 たとえば、ぼくの地方では「てんてこ祭り」という「奇祭」がある。厄男が大根でつくった男根をつけて行列をなして踊るのだ。太鼓にあわせて男根をつきだすようにピクピクさせる様が実にユーモラスで、県の無形文化財に指定されている。


〈結局テンテコ祭りは田植祭とか豊年祭といわれることからも知れるように、農作物ことに稲作の豊穣を祈願する農業祭である〉(『西尾市史』)

 そしてその起源は、清和天皇(857〜875年)の大嘗祭(即位の祭)で使う米をつくる「悠紀斎田」となったときの田植えの儀式を伝えるものだという(『日本三代実録』)。〈「性器中心の農業祭」……は、天父(イザナギ)地母(イザナミ)の交接が国土、山川、草木を生成したとする考えによるもので……その偶像的な意味をもったものとして男女の陽物や陰物を祭事の用具としたというのである〉(『西尾市史』)。
 まさに、「田植え―豊穣―地域の祭―神話―天皇制」!

 だが、くり返すが、こうした神話・伝承の学習が果たして、〈米づくりによって、世の中の様子はどのように変わっていったのでしょうか〉(東京書籍前掲)という問いにたいする答なのかというのは、疑問のままだ。
 事実、『西尾市史』では、前掲の叙述のすぐあとに、〈こうした形での繁殖を願う心の表現法は古く、市内の縄文遺跡(八王子貝塚)からも出土している妊娠した土偶もその原始的な例としてあげられよう〉とあるように、むしろ縄文とそれ以降との「連続した思想」を表すものに他ならないのだ。



米づくり・神話・天皇というセットのイデオロギー


 神話・伝承をからませながら、米づくりを歴史の「始元」だと印象づけるとき、そこにはどういう歴史観が生まれてくるだろうか。
 「日本人そして私たちの郷土人は、『歴史のはじまりから』米をつくり、祭を営み、そこには『天皇』がいつもいた」……そういう歴史観が形成されるだろう。

 東京書籍の教科書では、〈多くの人々をまとめ、指導する人物があらわれるのも、このころだと考えられています。〉とあるように、国家の原型として「むら」の形成が冒頭に叙述されており、この「米作―天皇制―神話・伝承」のなかに、さらに「国家」と「共同体」がからんでくるのである。

 東京裁判で東条英機の主任弁護人をつとめた清瀬一郎は、のちに文部大臣となって、国会で次のように答弁した。

〈往古を回顧すれば、どこの国でもそうでございますが、日本肇国の初めはやはり君主制であって、しかも神武天皇は名のごとく武の天皇であって、大和平原の橿原の宮で式典をあげられた。〔…中略…〕このごろ私が、近ごろ使っておる歴史の本などを見ると、これが間違っておるのです。原始社会といって、昔共産社会があったように書いてあるのですが、そうじゃない。ごく昔の社会には家長があり、一群には酋長があり、日本全体には大和朝廷があったのだ。これがほんとうの原始社会の姿でございます〉(1956年2月21日衆院文教委員会)

 こういうアホが製造されてしまうのである。


 しかし、東京書籍の現在の教科書が〈縄文時代は、1万年もの長い間続いたそうです〉と書いているように、日本の歴史において最も長い時代だったのは、旧石器・縄文時代である。すなわち国家も米作も天皇もない社会で人々は最も長く生活してきた(※厳密にいえば米作は縄文後期から始まっているのだが)。

 そのような日本史の「始元」観があってはじめて、米作の意味は深く心におちるはずである。



子どもの心を動かす縄文という時代


 勅使河原は、旧石器や縄文時代を教えることの意味を次のように書いた。

〈ユーラシア大陸の東端に位置する日本列島では、大陸からの影響を受けながらも、旧石器時代から縄文時代へと独自の文化を発達させてきたばかりか、南北に細長い列島のそれぞれの地域の環境に応じた、多様な地域文化をはぐくんできた。そのことを学ぶことなくして、日本列島における「農耕の始まり」の歴史的背景を正しく理解することはできない〉(勅使河原前掲)

 東京書籍の教科書は、時系列的な叙述ではなく、まず最初にバーンとインパクトのある事実や写真をもってきて(たとえば板付遺跡、大名行列など)、「なぜこんなものが…」と興味をひきおこさせるという工夫をしている。

 この点からいっても、縄文時代は子どもたちに飽くことのない不思議な世界を提示することができるだろう。
 なんたって、ぼくがそうだったのだから。
 遺跡がほとんど石器しかない旧石器時代や、急激に「洗練」されてしまう弥生時代とも違って、縄文時代の遺跡・遺物は、今の我々との「違い」という感覚を強く刺激する。

 ぼくが地元で採集した貝塚の貝は、大半が太いスジが入っていた。
 ぼくが今食べる貝はアサリかシジミ、ほかはせいぜいハマグリ・サザエであって、こんな貝殻は食卓ではおよそ見たことがなかった。ぼくは、大昔の同郷人たちの食生活がどうしても知りたくて、その貝殻が一体なんであるかを当時図鑑などで必死に探したものだった。
 その結果おそらくハイガイではないかという結論に達した。
http://www.hi-ho.ne.jp/mizuno/isekivisit/nishioshi.html

 
 そんなふうに、子どもに強い関心や行動をいだかせることができる時代が「縄文時代」ではないかと思うのである。





2007.4.24感想記
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