室田武・多辺田政弘・槌田敦『循環の経済学』



環境問題を考える上でいま必要な2つのこと



 『なぜ経済学は自然を無限ととらえたか』の感想ですでに経緯は書いたが、環境派の人が主宰する自主ゼミに参加し、そこで使っていたテキストである。

 ぼくは、いまの環境問題を左派として考えるさいに重要なことは厳密な社会モデルづくりなどではなく、

(1)市場経済を否定せずに資本の活動をどう規制していくのか、(2)社会的合意をどう調達するのか、という2点であると思っている。

 『なぜ経済学は自然を無限ととらえたか』では、マルクス経済学をふくめて近代の経済学の前提を批判しているのだが、そうはいっても、結局実践的に問われることは資本の野放図な活動をどう社会的に規制していくのかということになるはずである。
 そのさいに、思想的におちいりがちな陥穽というのは、「資本の規制=国家主義=旧社会主義=市場の否定」ということになって、非常に消極的になるか、あきらめちゃうってことだ。
 いや、もちろん個別の課題レベルってところだとそんなふうにはならねーよ? でも、持続可能な社会っていう構想を本気で考えると、かなり大掛かりな社会・経済の革命が必要になる。そもそも地球温暖化防止のための世界的な2050年へむけての目標達成というシングル・イシューでさえ、ブレアがこの前「2050年に世界の排出量を半減するには1人当たりの排出量を米国は10分の1、日本と欧州は5分の1にする必要がある。これは大きな革命であり、国際協力なしに実現できない」ってな具合に「大きな革命」って表現したくらいなんだから(08年3月15日のG20での基調講演)。

「人類社会の経済活動は……資源枯渇、環境破壊、環境汚染という三大困難に悩まされるようになった。……この三大困難がますます深刻になっているので、経済活動はいつまでも増大できるわけがなく、限界を超えれば当然、破局に至るであろう。すでにその限界を超えているかもしれない。たとえば、いわゆる低所得国のすべてが経済成長の恩恵を得て発展し、世界の全人口五六億人が現在の先進国並みの生活をすれば、その廃棄物で世界は大汚染状態になるにちがいない。だからといって、低所得国に経済成長するなとは誰にも言えないであろう。しかし、高所得国の生活水準を切り下げるとして、どこまで切り下げればよいのかわからない。
 こうして、経済成長は進めたいが破局は避けたいという虫のよい願望から、『持続可能な開発』ということばが使われるようになった。だが、このことばの現れるどの論文を読んでも、持続可能な開発を保証するものはない。結局は個人の自覚に頼るというものばかりである。これでは、持続可能な開発はとても無理である。したがって、このことばは単なる『お題目』であって、破局までの一時的な気休めを表現したにすぎない」(『循環の経済学』p.254)

 近代産業はそれを実行するだけで高エントロピーを生み出し続けるのだが、それを低エントロピーにしていく地球の循環を活発にさせる方向で社会を変えないといけないのだから、正直並大抵なことではできない。

 それは資本の活動の規制なくしては絶対に不可能だろう。
 そのような社会モデルを構想するさいに、資本の規制=市場経済の否定という落とし穴にどうしてもハマりやすいのである。

 もう一つは、いくら完璧な社会モデルをつくったとしても、それをどうやって社会合意にのせていくのか。早い話が、そんなことを選挙で訴えられるのか、ということである。
 前にものべたが、循環可能な経済にするうえで、ガソリンへの環境税をかけ、リットルあたり1000円にする、といったら、一体だれがそんなところに投票してくれるだろうか?

 この本では残念ながら(2)、すなわち社会合意の調達についての議論はない。だが、(1)については問題を整理し、そこからどのようなルールや経済モデルを考えるのか、ということを7つの論文を集めて考察している。




「持続可能」ってなんだ?



 しかし、ただやみくもに環境を守るために経済活動を規制するわけにはいかない。本書では「持続可能」ということの内実を考える。

 そのさいにカギになっているのが、「エントロピー」概念である。
 地球はさまざまなレベルで高いエントロピーを低エントロピーにかえる循環のしくみをもった定常系であるけども、人類の生産活動は、実はその循環の処理能力をこえるかたちで高エントロピーを生み出し、あるいは循環のしくみそのものを破壊してしまっている。
 
 そして、環境問題における経済学の課題を次のように設定する。

「『持続可能な経済』(substainable economy)が課題であるといってよいが、その意味は何か。それは“経済循環が物質循環を抑止せず、むしろ活発にする経済”と定義されよう」(『循環の経済学』p.4)




市場経済と資本主義の区別



 このような大掛かりな「革命」を考えると、どうしてもそこには市場の否定、欲望の否定、「お前ら環境が壊れて死んでもいいのか」というエコ・ファシズムのにおいがしてきてしまうだろう。

 この問題についてよく考えている、と思われたのは本書の第2章「自由則と禁止則の経済学」である(多辺田政弘執筆)。多辺田は、経済活動のきっかけは人間の欲望(需要)であるけども「欲望そのものが悪いというわけでは決してない」という槌田敦の主張を紹介しながら、こうのべる。

「物質循環(自然の循環)を破壊せず、豊かにする方向に人間の欲望を社会的にコントロール(制御)するにはどうすればよいかである。そのための社会と経済の仕組みが問われているというのである。
 つまり槌田は欲望を肯定し、市場メカニズムというものは、欲望によって作動する人間社会という熱化学機関の物質循環を促進させている社会システムであると捉えている。そのとき問題は、市場メカニズムの存在そのものではなく、それが自然の物質循環を破壊させないように制御するにはどうすればよいかということになる」(『循環の経済学』p.55)

 多辺田はブローデルらの思想を紹介しながら「市場経済と資本主義は同じなのだろうか」と問いをたてている。多辺田は「両者はきれいに分かれているわけではない」としながらも、それを概念的に区別する。
 多辺田は保守思想家である佐伯啓思の市場と資本主義の区別を次のように紹介している。

「市場経済とは『概して市場のメカニズムにしたがってモノやサーヴィスが交換される世界である。だからそこではある程度の競争が作用して価格メカニズムが働く。だが企業は概してあたえられた条件のもとで日常的な一定の活動をするに過ぎないのであって、積極的に『資本』を蓄積して投資をして事業を拡大するということにはそれほど関心をもたない』」
「一方で、資本主義は『企業が、たえず、新たな利潤を求めて蓄積した資本を積極的に投資し、しかもそのことが経済社会全体の物質的な富の拡大に決定的な重要性をもっているような活動』である」(『循環の経済学』p.62)

 このように区別したとき、アウフヘーベンされるべきは資本主義であって市場経済ではないことが見えてくる。

「こうしてブローデル=佐伯の市場経済と資本主義の区別をみると、前者はある一定の地域規模での日常的な需要と供給を市場をとおして充足させる経済社会であるから、定常系を想定することも可能である。一方、後者は、常にその市場領域を社会的欲望の新たな創出をバネに無限に拡張しようとする運動であるから、非定常系の無限拡大(自己膨張)が指向されているシステムと想定されている。とすると、われわれが問題の対象とする『肥大化する市場経済』あるいは『欲望の肥大化』とは、まさに佐伯の言う『資本主義の自己拡張運動』そのものであると言えるだろう」(『循環の経済学』p.63)

 こうして規制すべき対象は市場経済そのものではなく、資本主義というシステムであることが明らかになる。
 この概念上の整理は非常に重要だ。
 しばしば資本主義を止揚した社会とは、市場の総否定として考えられてきた。この本ではそういう思想を「社会主義」として警戒を払っている。
 だが、ぼくのサイトでもくり返しのべてきたが、マルクス自身が市場経済と資本主義経済を区別して考えているし、市場経済の利点をいかしながら共産主義を構想することは可能だと思っている。「『設定条件内での最適解の発見能力』は市場メカニズムが優れている」(『循環の経済学』p.67)ということはたしかにそのとおりである。
 この点で、環境派がこの整理に達したことは、左派との共同の理論的な可能性をしめすものになっているとぼくには思われた。




自由則を活かしながらどう社会をコントロールするか?



 2章ではその後、具体的に市場経済という「自由則」をいかしながら、どのようにして社会的制御を可能にしていくのか、ということの原理的検討をすすめていく。

 ハイエクはかつて、ナチやソ連のように国家が理性主体となって経済の統御をはじめると、個々の経済主体は国家によって運命が決められてしまうんじゃないかということを批判し、次のような自由主義国家観をのべた。

「もちろん、各国家は行動しなければならず、国家の各行動は何ものかに干渉する。けれどもそのことは問題ではない。重要な問題は、個人が国家の行動を予想することができて、個人自身の計画をたてる際に、その知識を与件として利用することが可能であり、したがって国家は個人が国家の機構を利用することになんら拘束を加えることができないかどうかということ、また個人は他の者からの妨害に対して、どの程度まで保護されるかを正確に知っているかということ、あるいは国家は個人の努力を無効にする立場にあるかどうかということである。度量衡制度を取り締まる国家(または他の仕方での詐欺や欺瞞を防止する国家)は、たしかに行動的であるが、たとえば、ピケによる暴力行使を許す国家は行動的ではない。国家は第一の場合においては自由主義原則を遵守しているが、第二の場合においては遵守していないからである」(ハイエク『隷従への道』東京創元社版p.104)

 ここには自由則と禁止則の原理的な見通しがある。
 多辺田は決してハイエクをもちだしてはいないが、多辺田の頭には市場システムという自由な活動の活力をどうしたらそがずに、制御をできるか、という問題意識がある。そのさいに、このハイエクのたてた原理は役立つだろう。

 多辺田はしかもそこからさらにふみこんでいく。

「古典派経済学の時代は、政府の役割は私的部門(市場経済)の自由則の活動の外的秩序を保障するという消極的禁止則の管理にとどま」った(『循環の経済学』p.69)。だが、これは環境という視点でみたさいに、「自由則による資本主義の拡張運動を刺激し続ける役割を担ってしまった」(同前p.70)のである。
 循環を積極的に守るという現代の課題を達成するのために社会を意識的に誘導するような積極的な禁止則が必要になる、というわけである。




補助金ではなく禁止則を



 多辺田は「補助金は、他にもよいものがあるかもしれないのに、特定の技術や方法のみを奨励する」という槌田の見解を紹介しながら、「神々の闘争(何がよりよいか)は自由則(市場経済)の領域にまかせればよい」として、環境行政における補助金の役割をほぼ全面的に否定する。

 多辺田が紹介している中で面白いのは、戦前の鉱毒の事例で、政府が調査をおこない技術指導をしたのだが、2kmもあるトンネル煙道や、直径18m高さ36mの「命令煙突」などというとんでもないものができてしまい、地元の人から「阿呆煙突」と笑われたという逸話である。
 これと対照的にあげられているのが、日本の自動車メーカーが高い技術の排ガス規制の自動車をつくりだした例である。日本で厳しい公害法が課せられたことで日本の自動車メーカーは排ガスを削減するための開発にやっきになったが、アメリカではこの規制が遅れたために自動車企業の体質改善が遅れてしまった、というものである。

「当初、排ガスの削減と燃料費の上昇は二律背反と考えられていたのですが、これを解決するために燃焼技術の改善その他自動車の技術開発が自主的にすすんだために、日本の自動車は最高水準になったのです。……公害防止は短期的には企業のコスト上昇となりますが、長期的には飛躍的に技術を開発させ、産業を発展させることを、この自動車公害対策はしめしたといってよいでしょう」(宮本憲一『環境と開発』p.226〜228)

 補助金を典型として国家が「知恵」をだす、というやり方の愚かさを批判し、循環の経済学をつくりだすには、自由則のなかでの禁止則こそがもっともよい、と多辺田は主張する。

 実際には補助金が必要な局面も出てくるだろう。
 また、この本全体でも個別のテーマではいろいろ異論がある(ゴミの有料化とか)。
 しかし、そういう現実の運用の細かいことはあまり問題ではない。
 要は、問題の整理であり、理論的に核心をつかんでおくことなのだ。
 この本の白眉は、このような市場経済の否定をせず、むしろその活力を活かしながら資本主義の規制を考えたことである、とぼくは考えている。








室田武・多辺田政弘・槌田敦編著
『循環の経済学 持続可能な社会の条件』
学陽書房、1995年初版
2008.3.17感想記
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