海野つなみ『回転銀河』


回転銀河 1 (1) 回転銀河 2 (2)

 「1巻のKCのカバーが好評で『ジャケ買いしました』という手紙も頂き、とても嬉しいです」と、作者である海野が2巻のカエシで書いているが、それならぼくは2巻の表紙でやられたクチである。

 高校生たちが夜空の下で、なんとなく思い思いの方向をみながら、でもやっぱりだれもが空を見ているという絵で(上図右)、さらにオビの、

「思い出すと 少し胸が痛くなる それはたった3日間だけど 恋でした

 ねえ ケンジくん
 笑ってる?」

というのにまいっちまった。
 どんなストーリーかも全然わかんないんだけど、こいつぁ、おれに甘酸っぱい思いをさせてくれるんじゃあねえかという期待をふくらませながら表紙の裏をみると、「せつなくて、時に残酷な高校生たちの恋愛を描く、オムニバスシリーズ」とあって、これはもう買うしかないと、まさに「ジャケ買い」状態だった。

 結果は、期待を裏切らず。
 存分に切ない思いをさせていただきました。

 オムニバスなので、つながりながらも一話ごとにいろんな「恋愛」が登場するのだが、ぼく的に一番ハマったのは、恋仲におちいってしまう姉弟の物語、第1話「イノセント・インセスト」だった。血の繋がった普通の姉弟なのだが、姉がぜんそくの療養のために2年間家をあけるという設定。久しぶりにあった弟は、昔のように「かわいげ」のある弟ではなく、茶髪でふてぶてしい態度になっている「高校生」になっていた……と書いてみるとわかるように、ストーリーや構成はとてもありきたり。

 にもかかわらず、ドキドキしてしまうのは、クライマックスの絵が、どれもハートをわしづかみだからだとぼくは思う。

 海野の絵というのは、ふつうのコマは、これが「様式」なのかそれともホントに下手なのかしらないが、顔の平面ぶりが気になってしかたがない。

 学生のころから漫画の好きなやつとかいうのは、授業中にヒマさえあればノートや教科書に描いているのだろうが、そういうやつはたいてい「バストアップ、ナナメからの静止人物画」を描いていることが多いいんじゃないかと思う(偏見)。だから、「バストアップ、ナナメからの静止人物画」というのだけがうまい漫画好きというのは実によく見かける。人物を動かしたり、角度を変えたりすると、とたんにダメになるとか、そういう。
 ところが、海野の絵というのは、「バストアップ、ナナメからの静止人物画」というのが、とてつもなく下手くそなのである(いや、くり返すが、それが意識的にやっている「様式」なのだったら、まことにすまん)。

 正直、お面をかぶっているように見える。(下図)


海野つなみ『回転銀河』講談社 04年刊 2巻38p お面にみえる…


 とくにアゴから耳にいたるまでのラインを不必要なまでに明瞭に描くので、いよいよ「お面」感が強まるのである。キュビズム時代のピカソみたい、とかいったら言い過ぎか。

 と、そんな海野の絵なのであるが、ところが「ここぞ」というクライマックスは、かなりの思い切った大写しで描かれ、読む側はしっかりとやられてしまう。いわゆる「うまい」という絵ではないのだが、確実に「クる」のである。そこでは「お面」感はまったく消去されているから、やっぱりふだんのコマの書き方は意識的にやっている「様式」なのかなあと思い直してみる。

 たとえば、第1話の「イノセント・インセスト」では、弟・晴明と抱き合ってキスをしたあと、手をつなぎながら姉・衿子は帰る。その弟の手のぬくもりの愛おしさを、

「わたしの大好きな男の子の手」

という衿子のモノローグとともに描くのだが、これがまたいい。男の手は女の頬に触れなんとし、女はその手を心から求めるように口づけしようとする。海野はその美しさを活写する。

 あるいは第1話のラスト。誰にも知られないように、学校ですれちがったとき、晴明とひそかに目と目を交わし合ったあと、衿子はふと空にある昼の月をながめながら、「わたしたちはこれからどうなるんだろう」と思う。
 衿子は「マシュウとマリラ」のことを思い出す。マシュウとマリラは、『赤毛のアン』で、アンをひきとって、年老いても二人だけで暮らしている兄と妹である。

「ドロドロに堕ちていくかもしれないし
 でも
 マシュウとマリラのみたいに
 二人で空を眺めて
 暮らせるかもしれない

 願わくば マシュウとマリラのように
 こんなふうに
 空を見上げながら」

 そのモノローグのときの衿子の表情がもつ明るさと透明感、そしてラストの青空にページ全体が溶けていきながら、そこに描かれる、手をつなぎあった衿子と晴明の後ろ姿は、もう抜群によいのである。近親相姦のもつ濃密な物語展開は、ラストにきて一気に解放感にみちた明るさにつきぬけてしまうという見事さだ。

 第3話「空を飛んだ日」に出てくる、自分の女性性が嫌いでそれゆえに男が嫌いで、自分の「女らしさ」を押し込めるためにおさげにしてメガネをかけている恭子が、それをほどく瞬間も、やはり大写しで描かれる。
 恭子がひそかに心をよせ、いつもくっついている須磨は、とても男の子っぽい女の子で、須磨が他の男の子を好きだとわかって、恭子は教室で独り泣いている。
 その髪をほどいて泣いている「美しい女の子」に、いつも恭子に忌み嫌われ衝突している男子である守口は一目惚れしてしまうのである。
 「メガネを外して髪をほどくと……」という超古典的でオーソドックスな少女漫画的設定に、海野の大写しの絵は説得力を持たせてしまう。
 ぼくも守口と同じように「独り声を殺して泣く彼女になんだか見てはいけないものを見てしまったようなそんな気がしたんだ」ですよ、まったく。

 たとえば(さいきんの)陸奥A子は、幸福な瞬間の大写しの絵はあんまし得意そうじゃなくて、むしろ迷ったり悩んだりしているときの大きく描いた顔がうまいと思うけど、海野はまるっきり逆で、幸福そうなアップの描写ほど、読んでいるこちらのほうも幸福になってしまうほどにヨい。

 放課後の生物実験室で、女の子に抱きしめられてその胸に顔をうずめるなんて……至福ですよ、これは。もう来ねえけどな、そんな瞬間(泣)。



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講談社コミックキス 1〜3巻(以後続刊)
2005.4.5感想記
※画像は引用の原則をふまえているつもりではあります
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