いまさらながらこの作品をとりあげる。理由は正月読み直したから。
やはりすごい。
漫画として記念碑的な作品だといっていい。
山岳漫画、登山漫画である。エベレスト初登頂にいどんだ登山家マロリーのミステリーをからませながら、実在の登山家をモデルにした羽生丈二の生き様を描いた夢枕獏の小説が原作である。この漫画は、01年に文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞を受賞している。
夢枕は、本作の巻末で「圧倒的な山の量感、登山の細かなディテール、人物の描写——これらを描くことができる描き手は、そう何人もいるわけではない」として、「その、少ない描き手の中で『神々の山嶺』をぜひ描いていただきたかったのが谷口ジローであった」と述べている(愛蔵版1巻)。
「圧倒的な山の量感、登山の細かなディテール、人物の描写」が原作者の基準であった。
「圧倒的な山の量感」。
谷口が一体なにを材料にしながら、そしてどうやって描いているのかはわからない。コンピューター処理とも関係があるかどうかもわからない。
しかし、少なくともこうやって描かれているものを見て思うことは、たしかに「圧倒的な山の量感」なのである。
山岳漫画、登山漫画というのはたくさんある。いま手近に参照できるものとして塀内夏子『イカロスの山』、石塚真一『岳』がある。これらの作品と比べてみる(最初に断っておくが、この3作品のよさはそれぞれ別な次元のものである。だから、作品としての優劣ではない。ただ、いまから挙げる要素を基準にしてみてみるというにすぎない)。
谷口の作品には、夜間の山岳の描写をふくめ、ほとんどベタらしいベタが入らない(入るシーンもあるが)。スクリーントーンを細かく削り、そこにまた目の小さなカケアミをほどこしていく入念さ。ひとコマひとコマが絵画のように重厚だ。
ぼくは、谷口がコマいっぱいに描いた「山」を見る。
明らかに山が大きい。
塀内や石塚の漫画で描かれている山と比べて、ものすごく大きく見えるのだ。とてつもない重量と広さがある。
「あっ、これはぼくのもっている『神々の山嶺』が『愛蔵版』だからに違いない」——本気でそう思った。谷口の愛蔵版は21×14.8cm、塀内と石塚の単行本は17.8×12.8cm。だから、谷口の方が大きく感じたのだ、と。
いや、これはなにか話を面白くしようと思ってそう書いているのではない。
本当にそう思ったのだ。
大きいから大きいのだ、と。
しかし、そうでないことがわかったのは、文庫版を手にしたときだった。15.2×10.6cm。明らかに小さい。なのに、谷口の描いた山は大きく見えるのだった。それはまさに、「圧倒的な山の量感」のなせるわざであろう。
夢枕は、谷口の描く山を「高度感があって、怖い」と評している。
壁を直攀していくシーンの描写はどれもこの評が実感できると思うが、ぼくがその評を最も実感したのは、羽生のモンブラン北東・グランドジョラス北壁を攻略したエピソードにあるコマだった。
登っているコマではない。
高度差1200mもあるウォーカー側稜という絶壁に、ツェルト(簡易テント)を張って眠っているコマだ。
羽生が眠れずに日記を書いて、その日記の中身がずっと前後に書かれている。
当該のコマにはこういう言葉がかきつけてある。
「無限につづく壁の途中に ゴミのように 自分が引っかかっているイメージが浮かぶ」
そう、コマに描かれているのはまさに「無限につづく壁」である。ウォーカー側稜を描くコマはその前後にたくさんあるのに、このコマの「無限」さだけがまさが読むものにものすごい直角の「高度感」を与えるのだ。
おそらく壁を描くさいにパースの消点を近くにおいているのだろう。
しかし、それだけではない。
そこに描かれたテントの「小ささ」が高度感を補強している。
テントを張る、といっても、ぼくらが想像するような平地でのテント張りではない。無限に続く絶壁の小さな割れ目(クラック)に、まさにへばりつくように設けられるのだ。そのイメージはまさしく「ゴミのように 自分が引っかかっているイメージ」である。そのイメージを見事にグラフィックにしている。
このテントの「ゴミ」さ加減、ちっぽけさが、その高度感の「怖さ」を呼び起こさせる。
ちっぽけさ。
そうなのだ。「高度感」だけでない。
谷口の山岳描写を見ていると、山は広くて大きくて、その対比でそれを「征服」しようという登山者があまりにも「ちっぽけ」であることを否応なく実感させられる。
これは『岳』や『イカロスの山』ではまったく引き起こされない感覚である。
山を重量感をもって描きそのなかで人物をまるで「ゴミ」のように小さく小さく描く。なにもこんなに小さくしなくてもいいだろうというほどに。
34話のトビラにある氷壁を登る深町(この作品の狂言まわし)の描写などは、笑い出してしまうほどに小ささを感じる。氷壁の描写だから、「重量感」さえない。ページの半分はトーン、のこりの半分は白地にわずかのトーンが貼ってあるだけなのだが、これだけで氷壁の圧倒的な存在感をしめし、しかもその巨大な氷壁をのぼる深町のちっぽけさ、無力さをこれでもかと描き出す。
羽生の先ほどのツェルトでの日記には、「無限につづく壁の途中に ゴミのように 自分が引っかかっているイメージが浮かぶ」のあとにこう記されている。
「この天と地の間に自分ひとりだけがぽつんと生きている」
そのあとの深町がエヴェレストの氷壁に取り残されるシーンもそうなのだが、山岳を描くということは、「この広大な天と地の間にいま自分しかいない」という圧倒的な孤独感を描くことではないか、とぼくは思う。
しみじみと誰もいないのだ。
ぼくは冬山なんか登ったことがない。せいぜい夏とか秋にハイキングみたいなもんをやったことがある程度である。たとえば大菩薩峠(海抜1897m)に登る。しかしそこには木や草がたくさんあるし、鳥も蝶もいる。なにより登山者がいっぱいいる。そして、峠には小屋がある。
しかし、冬のエヴェレストは、あるいはグランドジョラスは、誰もいない。
そして鳥や蝶もいない。
木や草もない。
あるのはただ岩と雪と氷だけである。
そんな巨大な塊が地の果てまでつづいているような世界にたった一人で取り残される。そういう感覚を山岳漫画は描かねばならない。
谷口の本作にはその孤独感が見事に描かれている。
その孤独感に押しつぶされそうになるからこそ、遭難した羽生がボロボロになった体で絶壁のクラックから向こうの山々を見たとき、「灯り」が見えるという幻影のかなしさが身にしみるのである。
夜の山に登った時、眼下に里の灯りが見えることはよく体験する。その灯りにちょっとした懐かしさや暖かさを覚えてしまうのが人情というものだろう。
遭難した羽生が「この天と地の間に自分ひとりだけ」の世界に、灯りを見てしまう。夜の山から見える灯りほど懐かしさや暖かさを誘うものはないだろう。羽生がまた「ぜんぶしった人ばかり」の白い装束の行列の幻覚をみるのも、怖さというより、懐かしさや暖かさに直結している。ぼくはこのシーンを読んだとき、もう今は故人になっている祖父母やその兄弟たちにかわいがられたぼく自身の懐かしさを思い出した。もう会えない懐かしい人々が目の前を行列をつくって歩く様は、正気のときなら怖いかもしれないが、ある瞬間にはきっととても暖かい気持ちでいっぱいになるんじゃないかと思った。
羽生はその懐かしさと暖かさにひきずりこまれそうになり、あわてて正気に戻ったがゆえに、「すごくこわい」と感じたに違いない。
名シーンの多いこの漫画のなかで、羽生のグランドジョラスのエピソードは圧巻である。
滑落して全身打撲で肋骨を折り、左足、左手が使えない状況のもとで、絶望しかけた羽生が別に生還が保障されるわけでもないのに、わずかの生存時間をのばすために25m上にあるクラックのツェルトまで右手、右足、そして「歯」だけで登るという「偉業」にぼくは舌を巻く。
劇画調の最たるものである谷口の絵は、まさにこのときのような強靭な人間の意志を描くためにある。右手、右足、そして「歯」だけで絶望的な25m登攀に挑む羽生の顔を谷口の筆致ほどよくとらえているものは他にないだろう。
「たった25メートルを攀るためだけに
これまでの20年間はあったのではないか
こんなことはもう二度とできないだろう
もう何もおれの中には残っていない
気力とか体力とか言葉で
言いあらわすせるものじゃなく
言いあらわせないものまで
すべてこの攀りに使ってしまった
そして手に入れたのが
あとひと晩か数時間生きていてもいいという権利だ」
羽生の日記である。
そして羽生はこう続けている。
「神がとか幸運がとかは言わない
このおれがその権利を手に入れたのだ」
深く疲れきった、しかし人間の強い意志を感じさせる羽生の顔がページいっぱい使って描かれる。
これならば。
これならば「自己責任」とか「自分の力」という言葉を使ってもいいと思える。「この天と地の間に自分ひとりだけがぽつんと生きている」、そのなかで本当に誰の力も借りずに自分の生存の権利をかちとった人間の姿がここにはある。
近代登山というものが「個人」の登場と結びついているのであれば、ここには究極の「個人」が出現している。谷口はまさにその瞬間を描破したのだ。
作:夢枕獏 画:谷口ジロー『神々の山嶺』
集英社 全5巻
2008.1.8感想記
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