古田足日・堀内誠一『ロボット・カミイ』 泣いた。泣きました。 涙が止まんなくなって、嗚咽しかけて、あせる。 食堂で、絵本見ながら一人でボロボロ泣いている三十男ってどうよ。 ようことたけしが紙でつくったロボットがにわかに動きだし、幼稚園に現れる、という子ども向けの絵本で、ぼく自身、保育園だった時代に読んだ。 最近、友人とのあいだで話題になったので、久々に買って読んでみたのだが。 保育園時代、これを読んで泣いたことはなかったが、ひどく印象に残った1冊ではあった。カミイの傲慢さに腹が立ったことと、最後にロボットの国へ帰ってしまうシーンがなんだか淋しい感じがしたことを覚えている。 しかし、今読むとまったく別の点が、訴求してくる。 その友人が「カミイはおれだ」と熱く言ったように、カミイの、実体のないプライド、というものが妙に生々しく迫ってくるのだ。 いや、たしかにカミイはすぐれた能力をあるていどは実はもっている。だから一定の実体はあるのだが、その能力はまだ自分と世界を幸福にするほどにはまったく未開花である。そしては半分以上は、本当に実体がなく、たんなる空威張りでもある。 そのような意味において「実体がないプライド」なのだ。 あまりに勝手なことばかりやるために、幼稚園で仲間はずれにされるカミイは、お店屋さんごっこで、グループを組んでもらえない。 「ひとりグループでへいきさ。ひとりのほうがせいせいするよ」 と強がるカミイであるが、いざお店屋さんごっこがはじまってみると、カミイの売り物だけが貧相なのだ(紙でつくった電気スタンドとテレビしかない)。なぜならグループを組めずに、共同作業ができなかったから。つれいあが言っていたことだが、このカミイのつくったテレビの画面に書いてあるへたくそなゾウの絵が、またあわれをさそう。 保育園児だったぼくの心にも、他の子どもたちのつくった商品や店の装飾はすばらしいものだと映った。 ぼく自身、買い物ごっこ、お店屋さんごっこは、とても好きだったから、絵本に出てくる、しっかり組み立てられたテレビ(の模型)や「ぴっかりでんきや」と目立つように装飾された看板が、子ども心を刺激するというのはよくわかるのだ。 この絵がまた、たまらない。 お店屋さんごっこの全景図なのだが、こうした活気ある店のはじっこに、カミイのさびしそうな、しかしプライドだけは高そうにすわっている様子がしっかりと描きこまれている。 年少組の子どもが買いにやってくるのだが、子どもだから悪気なく容赦がない。 「ここもおみせだったのね。かざりがないから、おみせじゃないとおもったわ」 「うるもの、たった二つしかないの?」 「さびしそうなみせだね」と、まったくなんの悪気もなく言うのである。「『う、うん』 カミイはどもって、目をちかちかさせました。なみだがでそうになってきたのです」。 あげくに、買おうとした一人をもう一人が制止して、あっちの店の方がいいものを売っているから、ここはやめよう、といってカミイの店を出ていってしまうのだ。 このくだりが、泣ける。 「子どもたちはでていってしまいました。カミイはみせのおくのいすにすわって、小さいこえでいいました。 『ぼくはつよいロボットだもん。ひとりぼっちだってへいきだもん』 でもビーだまみたいななみだがぽとりと足もとにおちました。カミイもみせのかざりつけはしかたったし、テレビに、チャンネルをかえるボタンもつけたかったし、あおいセロハンもはりたかったのです。だけど、ひとりでは、どうにもなりません。テレビのそとわくをつくって、テレビのがめんにちびゾウのえをかいただけで、おみせやさんごっこの日がきてしまったのです」 やべえ、これ書いていて、また泣けてきた。 同情して、男の子が買いに来てようやく売れる。それでもカミイは強がって、強気の歌を大声で歌うのだ。子どもたちはあきれるのだが、幼稚園の先生(にしの先生)だけは、にこにこしながらその歌を聞いている。 カミイは決してプライドを捨てない。そのプライドは、傍から見ればこっけいきわまるものなのだが、その誇り高さを堅持し続けるカミイの姿に、ある種のうつくしさをみないわけにはいかない。 こっけいさとうつくしさが同居する未熟。それは自分自身の姿に重なり、このカミイの姿から、えもいわれぬ自嘲と自己憐憫の響きがこみあげてくる。不思議なことに。 友人が「カミイはおれだ」と言ったのはその意味においてよくわかる。 やがてヨリ高い見地によって発展的にのりこえられるべき態度なのだが、そこにある種の自尊のうつくしさがはたらいていることを、にしの先生のあたたかい視線は示している。 ラストへむかってのエピソードがこれまた泣けてしまうのだが、もはや画面が涙で見えぬので、これ以上は書くことができない。 |
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