海埜ゆうこ『紙婚式』(原作/山本文緒) 『紙婚式』のオビにはこうある。 「結婚しました。だけど…… 結婚は幸せばかりではなく、 辛いことばかりでも、ない。 ずれながらも交錯する、6組の夫婦それぞれの 切なる想いのゆくえを繊細にえがいた短編集。」 そうは思えないね。 お互いに干渉しないときめる夫婦。 お互いの仕事はつづけ、結婚式も省略してしまう夫婦。 「結婚は契約だ」と割り切る夫婦。 お互いが譲り合って関係を悪化させない夫婦。 この作品のどれからも、20代後半から30代の夫婦が、合理主義や個人主義という現代的な原理に鎧われながら、そうやって築いた家庭の幸福の内実はどれも空洞化しているという、批判の調子が聞こえてくる。 海埜ゆうこの絵は、この空虚や虚偽を表現するのに、実に適している。 「フィール・ヤング」系の漫画家というのは、かなりドライを気どっている人たちが多いのだが、どこかにほっとするようなものが見えかくれするので、作風全体としては抑揚やリズムがちゃんとある。しかし、海埜の絵には、幸福さというものがまるで入り込む余地がなく、最初から最後まで索漠としたものしか伝わってこない。冷た。 いや、海埜の他の漫画を読んだことがないので、ひょっとして、この仕事にあわせてこういう作風にしているのかもしれなくて、だとすれば海埜は、この仕事をとてつもなく上手く仕上げているということになる。が、たぶんちがうだろう。 なぜなら。 最後の1話「秋茄子」だけが、希望をのぞかせて終わる作品で、夫が自分の育ってきた家族の崩壊を正直に告白することによって呪縛から解放され、その瓦礫のような関係を直視して再出発することになるのだが、そのラストにちかいシーンで、妻が夫を抱きしめる描写はちっともあたたかそうではないのだ。 たぶん、海埜の絵は、どこまでも冷たく出来ているのだろうと思った次第。 『紙婚式』は、山本×海埜の第2弾だから、このシリーズはそれなりに好評なのだと推測できる。 「フィールヤング」誌の読者が身につけていそうな結婚観が、真正面から批判をされているようなもので、それが身につまされるのだろうと思う(そのなかにはぼくも入っていたりして)。 むろん、山本×海埜は、合理主義や個人主義がイカンというような説教をしているのではなく、そういう原理ではじまった結婚がやがてスカスカになっていくということに、それらの原理はなにも用意していない、あまりにも無防備なままでいる、というあたりに強い批判をもっているのだ。たぶん。 だが、実は、この問題の答えは、「秋茄子」のエピソードのなかにふくまれていて、けっきょく「もっと心を開きましょう」というメッセージ以上には思えんのだが。 原作/山本文緒 漫画/海埜ゆうこ 『紙婚式』 |
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