山本弘『神は沈黙せず』



※ネタバレはありますが、本質的なものではないと考えます
※『アイの物語』の感想はこちら


大学合宿での夜の怪談のこと


 大学1年のころにサヨ学生たちで合宿をやったことがあった。
 夜、怪談になった。唯物論者の集団が怪談をやるというのもアレだが。

 怪談というのは、たいていが「出処」が不明である。
 いつ、だれが、どこで体験した話かはほとんどわからない。「昔むかしあるところに、おじいさんとおばあさんが…」というおとぎ話とそう選ぶところはない。
 まれに「俺の友人の知り合いの話なんだけどね…」などというふうに「身近な」体験として語られることはあるが、互換可能な曖昧なものだ。

 そのときの怪談も、ほとんどそうした「出処不明」なものに終始した。
 ところが、一人だけまったく風変わりな話をする人がいた。

 アメリカのある州の名前と年代をあげて(具体的には忘れた)、突然イスがとびまわる例やものすごい数の自動車が空を飛んだといった事件が、何百もおこり多数の人に目撃されて報告・記録されている、と述べたのだ
 ぼくがびっくりしたのは、その人――仮にMとしておくが――Mがぼくたちサヨ集団のなかでもっともロジカルで、もっとも切れ者だと思われた人だったので、そもそもこんな「怪談」などという子どもじみた、かつ「迷信」と思われている話には飽き飽きしているだろうと思っていたからである。呆れて寝に行ってしまうのではないかと。
 ところが、よりによって、その一番の「唯物論者」が、いわゆるポルターガイスト(騒霊)とよばれるケースを真面目に喋り始めたのだ。

 みんなも戸惑ったようだった。いままでは「怪談」として、つまり他愛のない話として話者も聞き手も相互に暗黙に了解しあって怖がらせたり怖がったりする「ごっこ」を演じていたのだ。もちろん、そんな「怪談」を真面目に信じているものなどいない。
 ところが、Mは明らかに真面目だった。いや、少なくとも「真面目」な報道の問題という雰囲気で話をしたのだ。であれば次元は少し違ってくる。

 下級生たちは困惑しながらも、恐る恐るツッコミを入れる。

「Mさんらしくないですね。ポルターガイストを信じてるんですか?」
「別におれはポルターガイストなんて一言も言ってないよ。そういう報告がある、って話だ」
「でもそれはよくいわれるポルターガイストですよね?」
「ポルターガイストは霊の仕業という解釈だろ。おれは霊の仕業とは言ってない。そういう報告があるとだけいったんだ」
「……」

 ぼくはそのとき、Mが言った意味、差異の付け方の意味がよくわからなかった。え? それはポルターガイストでしょ?、と。まあ、当時も今もアホだったし頭の回転が遅かったのである。
 なおも食い下がる下級生。

「見間違いとか妄想なんじゃないですか?」
「うん、数例だけならそういうふうにもいえるけど、ある場所で、短期間に、何百人もの人が目撃しているんだぜ」
「虚言じゃないんですか」
「だから何百人もの人がいっせいにウソを言ってそれが報告に残っているわけなのか?  説明がつかないだろう?」
「ホントに偶然に妄想が重なったんじゃないんですか? あるいは集団妄想とか」
「だから、数百人が見てるんだぜ。数百人がいっせいに似たような妄想を、近くの場所で見るのか?」

 みんな「反論」し難かった。ぼくは反論できない「怪現象」が残された気持ちになって、それまでの怪談とはまったく別種の恐怖感を味わった。ひとつは複数証言と目撃集中(フラップ)、もうひとつは年代や場所を特定された「報告」「記録」という形式。こういう体裁で提示されると、曰く言い難い「客観」感が聞く者を襲う。Mという切れ者が語ったということも、それに輪をかけた。
 それは他の同輩も同じだったようで、集まりが終わってから「トイレ、いっしょにいこうや」などと誘いあったものである(笑)。


目撃者が複数いるということ


神は沈黙せず〈上〉  ぼくは、山本弘『神は沈黙せず』に出てくる超常現象研究家・大和田省二が登場するくだりを読んだとき、まさしくMを思い出した(文庫版上巻/12 ハイ・ストレンジネス)。

〈たとえば存在しない軍隊が地上を行進しているのを目撃された例がよくある。特に多いのはイギリスで、一七世紀以来、数十件の目撃例があるのだ。たとえば一七四四年六月二三日には、カンパーランド湖水地帯のスーターフェル山で、その地域にいるはずのない大勢の兵士が山を登ってゆくのが、二六人もの人間に目撃されている。一九五六年一一月には、スコットランド沖のスカイ島で、キルトを着た数十人のスコットランド高地兵が夜中に山中を行進してゆくのを、二人のハイカーが二晩続けて目撃している〉(上p.374)

 この文体(口調)、まさにMそっくりだ。

〈一九五六年六月一二日、英国海軍の観兵式が行われていたバーミンガムの公園で、突然の嵐とともに、一センチほどの小さなカエルが何百匹も空から落ちてきて、見物人の傘や肩に当たった。地面はびっしりとカエルに覆い尽くされてしまった。同様のカエルの雨の記録は、やはりローマ時代から世界各地にある。一六八六年一〇月、イギリスのノーフォーク地方。一八〇四年八月、フランスのトゥ−ルーズ付近。一九四四年八月、イギリスのミッドランド地方。一九七三年九月二三日、南フランスのブリニョル村。一九七七年、一二月、モロッコ領のサハラ砂漠。一九七九年六月二九日、ギリシアのコモティーニ、一九七九年七月、ソ連領中央アジア……。これらの事件はオカルト雑誌やタブロイド新聞に載ったインチキ記事の類ではない。事件の多くは、権威ある科学雑誌や気象学の雑誌で報告されているのだ〉(上p.362)

〈〔竜巻ではないかという反論に――引用者注〕一八五九年二月九日、南ウェールズのマウンテン・アッシュでバケツ数杯分の魚が降ったが、数匹のコイ科の魚を除いては、すべてトゲウオだった。トゲウオは群れを作らないのに、どうやって竜巻はトゲウオばかりを選り分けて集められたのか? しかも目撃者の証言によれば、トゲウオは一〇分間隔で二度降ってきたが、その範囲は七三×一一メートルの狭い範囲に限定されていたという。知能を持たない竜巻にしては高等な芸当ではないか〉(上p.364)

 この大量の事実リストをあげ、そして「権威ある公式の記録」を典拠とし、なおかつ人を黙らせてしまう、追い込むような理詰め――まさにMがあのときとった手法である。ひょっとして山本弘はMですか?
 
 山本が作中で登場させた大和田は、世界中からありとあらゆる超常現象の情報を収集し、それらに信憑度のランクをつけている。
 その基準はいたって簡明なものだ。

〈大和田氏が信憑性の基準としているのは、複数の目撃者の証言、目撃の状況、物的証拠である。先に挙げたキャッシュ&ランドラム事件には、白星が二個ついている。三人の目撃者がいるうえ、皮膚に生じた火ぶくれなど、明白な証拠があるからだ〉(上p.355〜356)

 ぼくがMの話がこわくなったのは、「複数の目撃者の証言」があったからだった。大和田はこれに「目撃の状況、物的証拠」などを加えていっそう堅牢にしている。しかし根本は「複数の目撃者」という点だ。
 この一点が、これらの情報をほとんど「事実」といいうるまでのところに押し上げてくる決定的な因子である。
 複数の証言をもつことによって、「妄想」とか「作り話」とかいう「合理的解釈」を打ち砕いてしまうのだ(ちなみに、山本はこの「複数の人間が同時にいっせいにだまされる」問題として超心理学、いわゆる超能力と手品の問題について上巻13「超心理学者の心理」でとりあげているがここではふれない)。

 この「複数の目撃者」のもつ力は圧倒的である。
 上巻10「UFOは進化する」で、UFO目撃譚にひとつの説得力を与えてしまうのだ。
 山本は、小説の主人公の兄の口を借りて、UFO、空に飛んでいる不可解な物体の「歴史的変遷」をたどっている。
 古代、中世、近世、近代と時代が移り変わってくるにつれて、飛んでいる物体の目撃情報が「変遷していく」のである。とくに面白いのは近代以降で、飛行船が隆盛をきわめていた時代には「ありもしない飛行船」の目撃情報だったものが、飛行機の時代になると飛行機やそれに能力をプラスした飛行物の目撃情報に変わる、つまり「進化」しているのだ! 〈UFOは人間のイメージに合わせて形を変えてるってことか?〉(上p.301)。

 ふつうはここまでくれば、「やはりUFOは実在せず、人間の心のイメージが投影された幻覚か妄想にすぎない」とでも結論づけてしまうだろう。
 だが、山本が作中で登場人物にしゃべらせたことは、その結論を「複数の目撃証言」によって打ち砕くことだった。

〈確かに古い話には伝聞による誇張や歪曲が多く、鵜呑みにするわけにはいかない。中には創作も混じっていることだろう。しかし、これほど多くの報告を「ただの作り話」と無視することは、私にはできなかった。どの報告もストーリーとしての起承転結に欠けており、いわゆる昔話とは一線を画している。大勢の人間が同時に目撃していることが多いので、錯覚や幻覚、妄想とも思えない。「では何なのか?」と訊ねられても困る。ただ、昔のUFO現象が現代のそれとかなり違っていたことは、疑問の余地がない〉(上p.290)

 このように「複数の目撃証言」という特殊な試薬を投じると、クズのような大量の「オカルト」情報のなかから、ごく微量の「不可思議な事実」というものが抽出されることがわかるだろう。

 それに1グラムでも無証明の神秘的「説明」を加えたら(霊の仕業だ、とか、超能力だ、とか)あっというまにオカルトへ転落する危険な情報なのだが、「説明のつかない不可思議な事実」として(とりあえず)慎重に扱う分には――そして慎重にしか扱えないのだが――それは真の意味で科学的な態度だといえる。

〈「一般にはUFOや幽霊を否定することが合理的と考えられています。しかしビリーバーの心理は違います。彼らから見れば、UFOも幽霊も合理的存在なんです」
「というと?」
「たとえば誰かがUFOを目撃したとしましょう。確かに変な物体が空を飛んでいたが、何かは分からない。人はその体験に驚き、合理的に解釈しようとします。『進歩した異星人が地球を訪れて偵察機を飛ばしている』という解釈が合理的なように思われるなら、人はそれを採用します。一方、否定派は『そんなのは見間違いに決まっている』と決めつけます。否定派にとっては、その解釈が合理的だからです」
 元教師だけあって、大和田氏の口調はまるで生徒に対する講義のようだった。
「しかし、どちらの解釈も正しくありません。この時点で判明している事実はただひとつ、『目撃者は何か不思議な物体を見た』ということだけなのに、肯定派も否定派もそれを文字通りに受け取ろうとはしません。『不思議な物体を見た』というだけでは納得せず、乏しい証拠を元に、何とか解釈をこじつけようとするわけです〉(上p.392〜393)

 この「UFO否定派的合理解釈衝動」は身近にはTVでニュースを見ているお茶の間でおきる。
 たとえば、兄弟や親子が惨殺される「非合理な」事件が起きたとき、ほとんどまだ情報がないのに、なぜそれが起きたのかということを、お茶の間で「合理的」に解釈しようとして家族の誰かが知ったようなふうでしゃべりだす、ということはしばしば経験するところだろう。「乏しい証拠を元に、何とか解釈をこじつけようとする」わけである。「先祖の霊うんぬん」といいだせば、「UFO肯定派的合理解釈衝動」といえるかもしれない。

 このように、オカルト的解釈や表層的な合理解釈(「妄想だ」式の)を退けたときにのこった「不可思議な現象」というのは、もはやオカルト的な臭いを完全に失っている。ぼくらを不安にさせる、言いようのないイラだちを覚えさせる「純然たる事実」としてぼくらの前に残るのだ。(この言い回しはぼくの考案。山本のものではない)



神をめぐるさまざまな概念、想念、混乱


 〈不思議な物体〉を霊や超能力など「超常」に結び付ける発想のすぐそばに「神」の概念がいる。「神の仕業である」「神のメッセージだ」と。

 「神の存在を信じるか」という新興宗教の問いかけに対して高校時代に友人が「神は自分の持ち上げられない石を創ることができますか」と借問していた。その場合の神というものは「全知全能」のものとして考えられている。
 考えてみるとそれを神だと定義することは、不思議なことだ。
 神についての、地域的時間的特殊性を反映した考えのような気がする。

 「八百万の神」みたいなアミニズム的な神の概念を考えると、この万能感はまったくなくなってしまう。逆に人間のエゴで不自由にさせられるという話もあったりして、神とははかなく弱い存在だなあと思わざるをえない。

 あるいは、信仰というものを軸に考えると、絶対的な信仰の対象を神だとすれば、それは「パチンコ屋でボサボサ頭のまま四六時中『大海物語』をやっている三河屋のおっちゃん」であっても、それを神だと定義することにどんな不自由があるだろうか?

 神を信仰すれば救済に導いてくれるという観念も、神が全知全能であることからは直接に導きだされない。全知全能であっても意地が悪ければ救わないだろう。

 神についての定義がなく、客観的な対象が定まっていない以上、人間は神を自由に設計しうる。そして神についていだく感情もまた自由である。

 神が世界を創造した、この世界の造物主である、という観念もまた奇妙なものだ。たしかに全知全能という概念からは造物主概念は容易に派生しやすい。しかし、日本のイザナギ、イザナミのように全知全能とは縁遠いが世界創造はいたしましたよ、という神様もいる。
 この「造物主=神」という観念も考えてみればずいぶん独特なものだと思う。

 こんなことも気になる。神が全知全能であるとするなら――いったんこう問題をたててしまうと、人は次々にその論理の起点から導きだされる帰結に悩まされることになる。
 なぜ人間をつくりだして、善行や悪行について観察しているのか?
 なぜ神を信じる者しか救わないのか?
 まったく罪のない人がなぜ報われないのか?
 〈神はなぜ人間の善に報いないのか〉(上p.201)というテーマだ。
 この種のテーマで最初に思い出すのは、有名な遠藤周作の『沈黙』である(本書のタイトルは遠藤のこの小説を意識しているのであろう)。日本の江戸期のキリシタン弾圧を描いた小説で、苛酷な運命に出遭う信者たちにとって、神は「沈黙」を続けたのかどうかという問題を描いている。あるいは、ユダヤ教の神を信じているユダヤ人が、ナチの収容所のなかで思った感情だ。
 これほど深刻ではなくても、普通に生活をおくっている「善良」な市民の願いは、なぜ神には聞き届けられないのか。あるいは、突然見舞う不幸に、「善良」な市民は、「なぜ神はこんなことを押しつけるの?」と思うだろう。日ごろ無神論を奉じる人が、いちばん「神」を意識する瞬間とは、そんなときではないだろうか。



読者に「神体験」をさせる


 山本『神は沈黙せず』の面白さは、こうした神の概念や観念をめぐる混乱のなかから恣意的なひとつを選ぶのではなく、「世界をもっとも整合的に説明しうる神の概念」を取り出したことである。

 まず導入に、土砂崩れという運命=神のいたずらで両親を失ってしまった兄妹が登場する。その成長した妹がこの小説の主人公なのだ。当然、その理不尽な体験から、神の不在、あるいは神の気紛れさ、神の無慈悲さということを考えるようになるのだ。つまり多くの無神論の日本人が「神」を意識する瞬間としての「神はなぜ人間の善に報いないのか」問題からこの小説は始まっている。
 山本は、このテーマのわかりやすい題材として、『旧約聖書』のヨブの話を小説中でもちだしている。善良に暮らしていたヨブがものすごいひどい運命に押しつぶされそうになる話で、読む者は「なんで神様はユブにこんなことをするのか?」と思ってしまうエピソードなのだ。

 この問題を入り口としながら、山本は、神というものの概念を「造物主」「世界創造主」としてのそれに結びつけていく。
 早い話、神様というのは、この世界というシミュレーションゲームをやっている存在であって、それは確かに世界創造もしているし、かなりの万能の力をもってもいる。そして、シミュレーションゲームだから、シミュレーション世界の住人には苛酷な環境変化であるところの「条件変更」というものも実に簡単にやってのけてしまう。そのとき、神は別にゲーム世界の住人に何の感情ももたないのは当然のことなのだ。

 山本は、この「神の感情」を読者になぞらせる。神の感情を体験させてしまうのである。
 主人公の兄が手がける「ダーウィンズ・ガーデン」という、特殊なアルゴリズムによって進化の様子を楽しむゲームをやっているときに、進化が中途半端になってしまう問題をどうしたらクリアできるかを、主人公の兄はあれこれ悩むのだ。そして、思いついた方法は、環境のパラメータを激変させることだった。

〈兄たちは、一五〇〇世代、実時間での約七〇分ごとに「カタストロフ」を起すように設定した。一〇〇世代の間だけ、ランダムに環境パラメータを変動させるのだ。これによって、ある種が何万世代も「偽りのピーク」に安住することはなくなり、アーフ〔生物のようにゲーム上で進化していく主体――引用者注〕の進化は停滞することがなく、スムーズに進むようになった。それどころか、思いがけない形態の種が続出し、よりダイナミックな転換がみられるようになったのだ。ゲームが面白いものになって、スタッフはみな喜んだ〉(上p.314)

 そう、〈面白い〉ので〈喜んだ〉のだ。

 山本はこのくだりの前にゲーム開発の苦労、すなわち進化が中途半端になってしまう「偽りのピーク」問題について詳述し、読者にこの悩みを共有させておく。だから、「カタストロフ」による問題の解決を知ったとき、読者はこれらのゲーム開発スタッフと同様の「爽快感」を得たはずである。
 このカタストロフは、地球の実際になぞらえれば、三葉虫や恐竜の絶滅など、くり返しおきる「大絶滅」ということになる。山本は上p.317で古生物学者のラウプらの絶滅の周期についての研究を紹介している。なるほど、絶滅した生物にとっては、超深刻な問題だったはずだし、大量の生命虐殺なはずである。
 しかし、「シミュレート」している神にとっては、そんなことはなんも問題ではないのだ。

 進化がうまく進んでよかったな、と!
 殺される個々の生物の悩みとか苦悩とかは、神にとっては何も関係ないのである。

 このようにして、山本は世界を整合的に説明するために、ちらばっていた概念を次々にジョイントしていってしまう。
 そして、ついには、UFOや霊現象、超能力といった問題までも、山本の世界説明のなかに組み入れていってしまうのだ! 



「と学会」出身者ならではの細やかさ


 その組み入れようの「精巧」さには、「と学会」出身の山本ならではの、細やかさがある(「と学会」とは、世間のトンデモ本やトンデモ説を批判的に扱うことを楽しんでいる団体)。
 UFOや霊現象などとよばれるもののうち、多くのゴミ情報をとりのぞいたうえでのこった「純然たる事実」の特徴を、次のようにとりだす。

〈魂というものがもしあるなら、幽霊には明らかにそれが欠けている。彼らは「幽霊は存在するはずだ」という人間の信念に合わせて出現するだけで、実際は知性を持たないロボットにすぎず、単純なプログラムに従って不自然な行動を繰り返しているだけなのだ――UFOから降りてきた「異星人」や、MIBのように〉(上p.376)

 UFOについて「純然たる事実」として残ったエピソードのうち少なからぬものが、たとえば降りてきて水や肥料、マッチなどを要求したりする。高度な知性をもっているはずの異星人という仮説には明らかにそぐわない。また、見つかりたくないとすればあまりもマヌケだし、人類とコンタクトをとりたいにしては、なぜ国連本部などの前に降り立たないのか不思議である。

 山本はまさに「純然たる事実」として残ったもののうちでそのエピソードの特徴をよくとらえているのだ。そして、それを「だから作り話だ」というふうには落とさずに、自分の世界説明の仮説に組み入れていってしまうのである!

 この小説の面白さは、そこにあるとぼくは思う。
 世界がシミュレートだとか仮想現実だとか、そういう思いつきは別に目新しいことではない。
 山本が、自分の得意とする「トンデモ」情報のうち「純然たる事実」として残ったものや、神をめぐる概念や想念、そして自然科学上の種々の説を組み合わせて、ひとつの「整合的」な世界を組み立ててしまった、その芸当に、読者は感動するのだ。それも、組み合わせた要素は、世界の「謎」とされているものが大半なのだ。それを組み合わせて世界を創造してしまうというのはもう本当に「芸当」という他ない。山本は「神」だw
 ちょうど、エンピツと水道管とブラジャーを組み合わせて炊飯器をつくって「えーっ、こんなもんで飯が炊けるんだー!?」と心底感心するみたいな気持ちだろうか。

 これは一種の思考実験というか、知的な遊びである。



飲み会でこんな遊びよくやる。そんな楽しさ


 その思考実験のごく小規模なやつを、ぼくらも飲み会なんかでやったりする。もし消費税を中心に税金を組み立てたら、もし安保条約を破棄したら……そういう条件をいくつか設定して、ひとつの世界像を組み立てていくのである。山本の場合は自然科学であるが、ぼくなんかの場合は社会科学なわけである。
 こういう時間というのは楽しい。山本の本作にはそういう楽しさがある。別に山本自身がこの小説で作りあげた世界仮説を信じているわけじゃないだろう。「こんなんできましたけど〜」といって飲み会の場にもってきて、あまりにも奇妙で、あまりにもよくできていたので、山本ふくめてその場の一同大笑い、大ウケ、というようなものなのだ。

 悪いけど、冒頭に出てくる主人公の兄妹の「苦悩」とかは、ホントにどうでもいい。悲しくもなんともない。「自分の悲運に心を痛めている」という設定でしかないのだ。主人公の話を聞いても1グラムも胸は痛まないはずである。設定のために設置された人格にすぎず、単なる記号でしかない。そしてそれでよいのである。「心情的な物語」や「キャラクターの出来」としての彼・彼女について評論することは、この小説の楽しみ方としてまったく筋違いというものなのだ。

 つれあいは、この本について「一種のウンチク本。京極夏彦のウンチクに似ている。ただしどちらも聞いていて不快ではない。話が面白い友人のウンチクを、こたつのなかでミカンでも食べながら聞いているウンチク、そしてときおり、そこに自分も意見をさしはさむ、そういう楽しい時間に似ている」といった。

 理系情報についてなんの素養もなく、そしておよそ苦手意識をもっているこのぼくが、この大量の理系的ウンチクの海の中を、夢中になってページを繰ることができたのだ。すごい本である。





角川文庫 上下巻
2007.2.2感想記
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