武田邦彦『環境問題はなぜウソがまかり通るのか』
山本弘『“環境問題のウソ”のウソ』



 学生たちの環境問題の学習会に出る機会があった。
 事前に「ペットボトルのリサイクル」について勉強会をやる、ということを聞いていて、テキストの名前も聞いたのだが、該当する本がない(「ペットボトルのリサイクル」という書名で聞いた)。
環境問題はなぜウソがまかり通るのか (Yosensha Paperbacks (024))  うーん、これは武田邦彦ではないかと予想して学習会にいったら、案の定、出てきたテキストは武田邦彦『環境問題はなぜウソがまかり通るのか』(洋泉社/以後『環境ウソ』と略す)であった。

 同書は地球温暖化問題やダイオキシンなどさまざまなテーマを論じているのだが、ここではペットボトルのリサイクルの問題だけについて書いておこう。
 すでに同書はネットでもテレビでも話題になっているのでその論点はご存知の方も多いと思う。



ペットボトルは「リサイクルされていない」?



 武田の主張は次の点に要約できる。
  1. ペットボトルは実はリサイクルされておらず、焼却・廃棄・輸出されている
  2. ペットボトルのリサイクルはコストが非常に高く、それに見合った形でエネルギーが非常にかかるので、税金のムダだし、環境にも悪い。
  3. ペットボトルのリサイクルは集めて業者にカネを払って渡してしまえばそれで「リサイクル」扱いになるので、あとは業者が燃やしてしまおうが中国に流してしまおうが関係ない。つまりは業者利権があって存続している。

“環境問題のウソ”のウソ  そして、武田の主張を明確に否定するタイトルで反論をしてきたのが、と学会会長の山本弘の『“環境問題のウソ”のウソ』(楽工社)である。
 両者をくらべて読んでみた感想であるけども、まず武田は本論の最も根幹の部分ではないところ、とくにデータの積み重ね方にスキが多すぎる。口頭でざっくりとしゃべったことならいざしらず、こんなにデリケートな問題を厳密な統計や注意書きもなしにしゃべったままに書いていく感じなので、一つひとつをとりあげていくと面白いようにツッコミができる。

 たとえば、その学生のゼミでも武田が『環境ウソ』でとりあげたペットボトルの消費量、回収量、再利用量のデータが出されていたが、武田はこの出所を「PETボトルリサイクル推進協議会」としている。だが、実際には同協議会のデータをもとに武田が独自の推論や定義を加えて加工したものであって、同協議会から「捏造」という抗議めいた注意をホームページ上でされている始末である。




山本の反論



 このことは武田の1.の議論にかかわっている。
 山本の議論はここをついている。

 ペットボトルのリサイクルには、ペットボトルの形で再び世の中に送り出すケミカルリサイクル(ペットtoペット)と、繊維やシートなど他の原料になるマテリアルリサイクルとがある(もう一つあるが後述する)。
 武田は前者のみを「リサイクル」と定義し、マテリアルリサイクルをはなから除外しているのである。しかし、そのことははっきりとは書かれていない。さらにペットボトルは原料として中国に輸出されているのであるが、それもある意味リサイクルだといえる。

 こうしてみていくと、51万トンの消費量のうち、マテリアルリサイクルなど国内のリサイクル量と、中国などへの輸出量をあわせて、32万トンがリサイクルをされているというわけだ(12万トンが埋立・焼却されている)。これが山本の試算だ。これに対し武田の場合は、リサイクル量はわずか3万トンしかない、とのべている(よく問いただせば「ペットボトルの形をしてリサイクルされる量が3万トン」ということなのだが)。3万トンと32万トン。10倍も開きがある。
 さらに、この武田の「3万トン」という数字についてもいくつかの推論を重ねて武田がはじきだしているので、「アバウトな仮定が3つも入っていた」(山本p.206)と批判されている。

 そして2.についても、武田は「『物質、エネルギー』という物質的な量と『コスト、価格』という社会的な指標が比例関係にある」(武田『リサイクル幻想』p.62)とのべて、価格コストをエネルギー負荷量のシグナルだとみているのである。
 山本はいくつかの例をもちだして、価格とエネルギー負荷量が比例なはずはないではないか、と批判する。たとえば公害対策によってコストはかかったけども、環境的にはあきらかに改善された例などをもちだすのである。

 山本は価格ではなく、資源がどれだけ使われるのか(エネルギー負荷量)という比較を、自らの調査結果にもとづいて自著でのべる。

 まず、マテリアルリサイクルの場合は、資源量は石油から新しく作る場合と比べて、半分ほどで済む。もちろん輸送などすべてコミである。大半はボトルの製造過程そのものにエネルギーが必要であって、輸送などはあまりたいした量にはならない。

 武田が問題にしているペットtoペットの場合はどうか。この場合、通常では同じくらいの量になるようだが(これがどの工法を意味しているのか山本の著作では判然としない。日本ではほとんどおこなわれていない「メカニカルリサイクル」のことだろうか?)、アイエス法というケミカルリサイクルのやり方をもちいればエネルギー負荷量は新品をつくるよりも半分ほどですむという()。
 いずれにせよ、価格をもとにした「リサイクルをすると資源は7倍もムダになる」という武田の説は批判されたかっこうになっている。

 3.についても、実はここ2年変化がおきていて、業者にカネを払って処理をしてもらうのではなく、業者がカネを払って廃ペットボトルを買っているという事実を山本はあげる。中国などに輸出するのである。
 もし、武田のいうようにリサイクルが「利権」であるならば、マイナスになったのだから、「利権」の巣であるリサイクルシステムはただちに崩壊することになる。

 いちいちあげていくことはもうやめるけども、このように武田の著作はツッコミどころ満載で、ネットでもこうした点にツッコミを入れている人が少なくない。




武田の主張の最もコアの部分だけ救い出すと



 しかし、ひるがえって、山本の著作はどうか。
 たしかに、武田のスキの多さをつくうえでは面白みがあるのだが、重箱の隅をつつくような議論に聞こえてしまっていると言わざるをえない。

 たとえば1.。
 ぼくらのリサイクルのイメージというのは、やはりペットボトルがペットボトルとして再生することであり、それはまるで家でペットボトルを洗って再利用するような感覚だろう。
 しかし、そこにはかなりのエネルギー消費量がかかっていること、そしてペットボトルとしての再生はほとんど行われていないこと自体は、衝撃といえる。
環境問題はなぜウソがまかり通るのか2 (Yosensha Paperbacks (029))  ペットボトルが繊維やシートになることを「リサイクル」とよぶのには批判もある。たとえばぬいぐるみなどの繊維になってしまったものは理論的可能性は別として、実際にはもうほとんどリサイクルされない。ぐるぐると循環するようにリサイクルするというイメージを与えるのは問題だといえる。
 実はペットボトルを燃やすことも「サーマルリサイクル」といって、リサイクルの概念にふくめるのが政府の公式の立場だ。熱を利用しているってわけだね。「ええっ、それはいくらなんでもアレじゃないの」とあなたは思うだろうか。それと同じような違和感を武田が「マテリアルリサイクル」にいだいて初めから除外するという権利もなくはないのである。山本もサーマルリサイクルを勝手に除外しているのだが、一応ことわりをしている。武田にも注意書きを書く誠実さがほしかった。

 2.についても、価格とエネルギーが「比例関係」にある、などと書けば反論がくるのはたやすいことだ。
 しかし、ある条件のなかでは、価格が使用エネルギーのシグナルになることはある。学者が口頭で大ざっぱな啓蒙的議論をしたりする分にはこれでもいいだろうと思う。しかし、それを本でやってはいけなかった。

 こうして見てみると、

  1. ペットボトルがペットボトルとして再生されている量は非常に少ない。指定法人の範囲だけでみると、ペットボトルとしての再生量は6%ほどしかない(福岡市の環境局にぼくが電話で問い合わせたらこの数字を示された)。
    http://www.petbottle-rec.gr.jp/data/da_tou_rec.html

  2. ペットボトルをペットボトルとして再生する場合、現状では「確かにこの過程には、原油からの製造に匹敵するエネルギーが必要」(山本p.48)。ただし、将来的にアイエス法によるケミカルリサイクルが本格的に実用化されればエネルギー負荷は、石油から新製品をつくるよりも半分のエネルギー負荷で済むようになるし(2004年からようやく実用化がはじまり処理能力は9万トンまで拡大されて商品も店頭に出ているが、いま現在、実際にどれほどの量生産されているかは不明)、製品的にも白濁ナシ、新品と遜色ないもののようだ。

というあたりがホントのことだということになる。武田がかなり誇張し、乱暴な議論をしていたとしても、これは重大なことではないか。




山本の批判の「重箱の隅」さがどうも気になる



 そう考えると、山本の批判の「重箱の隅」さがどうにも気になる。
 たとえば、山本は価格とエネルギーは比例関係じゃないからリサイクルすると資源は7倍もかかるなんてデタラメじゃん、と批判するわけだが、では実際のところ現状でどれほどかかっているかについてはきちんと論証していない。「確かにこの過程には、原油からの製造に匹敵するエネルギーが必要だろう」という前述の1行があるだけなのだ。

 そこから山本はアイエス法という、新しく製造するよりも半分のエネルギー負荷量でできるというリサイクル法にとびついている。これは実用もされている、これを紹介していない武田はけしからん、というわけである。

 なるほど、リサイクルの将来を考える場合、この方法に注目をうながすのは正しいことだろう。しかし、ではいま現在のリサイクルの方法ではいったいどれだけのエネルギー負荷がかかっているのかを検証がないのはおかしいのではないか。もしエネルギー負荷がかなりかかっているのなら武田の批判は「7倍」といわなくてもある程度的を射ていたのかもしれないのだから。そして7倍ではないにせよ、山本さえも認めているように、ペットボトルのボトルへの再生において、「確かにこの過程には、原油からの製造に匹敵するエネルギーが必要」だというならリサイクルの意味はなくなってしまうというのは一理ある、ということになるではないか。

 山本はそこをきちんとすくいあげてもよかったはずである。武田の主張の最もコアな気持ちをくみ出さず、データをつつきまわす態度に終始しているので、いかにも批判が小物にみえる。惜しいことだ。

 まあ、それでも山本の本は参考になった。
 武田の議論を疑っていく手がかりとしては悪くない、と山本の名誉のために言っておこう。




価格とエネルギーを混同した他の見解



 山本が指摘したように、価格とエネルギーをしっかり区別して、エネルギーでの比較をおこなうことは実は大事なことだと思う。

リサイクルは資源のムダ使い--地球に正しい生活マニュアル  たとえば、小若順一『リサイクルは資源のムダ使い』(講談社)で前に紹介したことのある槌田敦がインタビューに答えているのだが、槌田も「ペットボトルのリサイクルというのは、六〇〇円分の人手や石油を使って、三円の不純物だらけのペットフレークを生産することなのです」とエネルギー量や資源量での比較をおこなわず、価格での比較をおこなっている。そして根拠についてもあまりはっきり書かれていない。

ほんとうの環境問題  池田清彦・養老孟司『ほんとうの環境問題』(新潮社)では、池田が『環境ウソ2』の書名をあげてそこに「詳しく書かれているけども」(池田p.53)とだけのべて、ペットボトルのリサイクルは「分別をするのにもエネルギーが要るし、金も要るし、人でも要る。それに見合わない回収をしてリサイクルをすることは、回収とリサイクルそのものを目的化する人たちの利権を生み出すだけなのである」(同前p.55)と書いている。

 これらの記述では、エネルギーでの比較をしていないのである。




資源節約と資源浪費は両立してしまう



 前に紹介した室田武・多辺田政弘・槌田敦(!)編著の『循環の経済学』(学陽書房)の鷲田豊明の論文「市場経済と資源リサイクル」が参考になる。

 この本は1995年に書かれたものであるから知見やデータは古い。
 しかし、すでに論点を先取りしているので、今日でもなお参考になる。

 まず鷲田は、そもそもリサイクルについては資源浪費的じゃないか、大量消費をかえってあおっているんじゃないか、という批判があることを紹介する。そしてそれはリサイクル運動への冷水をあびせる形になっているとのべる。こうした論争は実は古くからあるわけなのだ。
 そのうえで、鷲田は、資源リサイクルを「物理過程」と「経済過程」にきちんとわけて考えることをまず提起する。これは、先ほどの「価格とエネルギーの区別」の話に対応している。
 
 そして、鷲田は「物理過程の問題としての資源節約性」を検討する。
 鷲田は、アルミ缶、スチール缶、ガラスびん、紙などの直接エネルギー節約量を検証するとともに、「廃プラスチックから石油を再生する技術」について検証をおこなう。これはもちろんペットボトルではない。
 ここでは、産業連関表も用いて、輸送の問題なども検証され、直接にも間接にも「資源節約能力が高いと考えて大きくまちがうことはない」(『循環の経済学』p.160)と結論づけている。
 つまり、多くの場合、リサイクルは資源節約の可能性が高いというのが結論なのである。

 しかし、と鷲田は注意を喚起する。

「以上のように、資源リサイクルの資源節約能力が高いことが、意識的であれ無意識的であれ多くの市民がこの運動に共感し、実践する根拠になっている。ただし、資源節約能力があるということは、その資源リサイクル過程が実際に進行した場合に、未使用資源の経済への投入の減少を意味しない。資源リサイクルがどれだけの規模で行なわれようと、未使用資源投入量の維持、さらには増大と両立しうるのである。
 資源リサイクルの節約可能性とは、それを行なわない場合よりも資源投入を減少させる可能性があるという意味である。資源投入のそれを上回る継続的な増加が存在する場合には、未使用資源投入を減少させることにはならない」(『循環の経済学』p.160)

 このあと鷲田は数式を示しているが、別に難しい話ではない。
 要は、リサイクルやってるから大丈夫、とかなんとかいってバンバン新しいものを生産して消費しているんじゃリサイクルの意味がありませんよ、ということなのだ。

 武田の問題意識をもし善意にくみとるとすればここに収斂するだろう。
 ペットボトルの生産量はうなぎのぼりにふえていく(山本はこれはスチール缶やガラスびんが減少しているせいだ、と批判しているがここではペットボトルの問題だけを考えるということで、置いておこう)。しかも、ペットボトルそのものの再生はほとんど行なわれていない。これが「循環社会」だろうか?——こうした批判であればうなずけるのではないだろうか。




定常経済をめざさないリサイクルは問題ありまくり



 『循環の経済学』で鷲田はさらにボランティアとリサイクルの問題、市場経済にのせることの重要性などについて説いていく。鷲田は、「ごみ処理の市場経済化は、資源リサイクルの収益性を大きく高めるだろう」(『循環の経済学』p.178)と、リサイクルを市場経済ベースに乗せることを評価する。だが、これは大きな限界がある、と鷲田はのべる。

「資源リサイクルが市場経済化し、それが活性化すればするほど、人びとは物質消費の精神的抵抗、歯止めから開放され、より大きな物質消費のなかで安住する事態も、強い蓋然性をもつといわざるを得ない。ここに市場経済化の本質的な限界がある。
 したがって、物理過程でもふれたように、資源リサイクルが意図する資源の節約は、一つの物理過程ととらえた経済の全体が、規模の増大への傾向から自由になっていることが前提条件である。このような経済を定常経済と呼ぶのが、一八世紀のすぐれた経済学者J・スチュアート・ミル以来の経済学の伝統である。この定常経済を前提として、はじめて資源リサイクルはその本来の力を発揮し、努力が目に見える結果を表す」(『循環の経済学』p.178〜179)

 ここでは市場経済を活用しながらも、経済成長そのものは厳重に管理されるという経済が想定されている。
 まあ、早い話、新しいペットボトルなんかほとんどつくらない。
 リサイクルで基本はまかなう。
 それくらいの覚悟があって、はじめて「リサイクルは資源の節約」ってことになるっていう話である。
 単にペットボトルを大量生産・大量消費する後ろめたさを消すために大企業がしかけたキャンペーンとしての「地球にやさしいリサイクル」というのでは意味が大幅に薄れてしまう。まあ、現状ですぐそういう規制がかけられるわけではないし、リサイクルは現経済体制のもとでもやらないよりはやったほうが多少はマシ、というのが今のところのぼくの結論なんだけども。






武田邦彦『環境問題はなぜウソがまかり通るのか』(洋泉社)
山本弘『“環境問題のウソ”のウソ』(楽工社)
2008.4.27感想記(28日加筆・補正)
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