『韓非子』

 ぼくは中学時代ファシストだった。
 生徒会長として、管理主義教育の尖兵となり、不合理な校則による取締を徹底しておこなったものだ。
 自転車に乗る時はヘルメットをかぶろう。廊下は走らないようにしよう。下校のときはジャージで帰るのはやめて制服で帰ろう。改造自転車は絶対にやめよう。不良の乗り物だから。免許制にして、守れないやつは減点。あるていどまで減点がいったら、自転車通学禁止。生徒会役員(生活委員というゲシュタポ)を使って巡回しよう。ときには、生徒会長みずからが警察のパトカーにのって、通学路の見回りも。うふ。

 そのとき「よりどころ」にしたのが、『韓非子』だった。
 抄訳だったが、徳間書店の『韓非子』に夢中になり、本がぼろぼろになるまで読んだ。同じく、法家思想の『管子』や『商子』にもとりつかれた。徳間の抄訳は、むずかしいところははぶき、いかにも中学生が好きそうな説話を中心に構成されている。『韓非子』では、「説林」や「内儲説」などといった章がこれにあたる。
 これがどうして管理主義教育に役立つかって?
 ぼくがいちばん印象にのこっていたのは、「二柄(にえ)」とよばれる部分で、かんたんにいうと、君主がにぎるべき二つの柄(え=器物の把手)として「刑」(罰)と「徳」(賞)がある、というハナシなのだ。もっとかんたんにいうと、信賞必罰のことで、ホメると伸び、罰すれば抑制できる、という「人間操作」のことである。校則に違反した者を厳しく罰する。よく守る者を賞する。こうすればうまくいく、というわけである。そんでまあ、そういうもののトリコになってですね、人を非難するときなんか、『韓非子』のエピソードなんかもちだしちゃったりして。あー、恥ずかし。
 もちろん、田舎の中学生といえども近代人なわけで、人権感覚もそれなりにある。だから、ぼくのそんな薄っぺらな操作術なんてかんたんに見抜かれちゃって、反発さえよんだもんだった。

 まあ、生徒会のことはともかく、なぜに韓非の思想が中学生のぼくをとらえたのかというと、それは人間というものが、私利私欲の「悪」に満ち、それはほっておけば「公」に害をなすが、それを管理するしくみが必要だという主張が、ぼくの当時の問題意識と重なったからだった。ぼくが同じ時期にヒトラーの演説や人心掌握に関心をもったのも同じ動機からだったろうと今になって思う。
 『韓非子』のなかには「姦劫弑臣」という章があり、ここにはいかに悪臣というものがはびこるかがしつこく書かれ、「八姦」では家臣が君主を害する8つの方法が書かれている。韓非は性悪説で有名な荀子の弟子だといわれ、ぼくには、韓非が、“人間(君主にとっての家臣)というのは本性的にいえば、かならず国益ではなく私利私欲のために動き、君主を害そうとするヤツらなんだから、そういう人間がどうやったら君主のために働くようになるのか”ということをいっしょうけんめい考えているようにおもわれたのだ。韓非は激しく儒家を批判する(荀子も儒家であるが、批判されているのは孔子や孟子など)。儒家は、人間を律するものは礼だとか節だとかそんなことをいうのだけれど、それを一人ひとりの人間に期待するのはいかに馬鹿げているか、ということを韓非は非難する。
 儒家の思想が“みんなの心がよくなれば世の中はよくなるよ”といっているように聞こえて(単純にそうじゃないんだろうけど)、ぼくには実にウソくさい、なんだか新興宗教のアオリみたいな気持ち悪さをおぼえ、逆に、それを痛烈に批判する韓非の思想こそリアルなもののように思えた。
 それは、ちょうど「民主主義」というもののウソくささに似ていた。民主主義とか清潔な政治とかいっているけど、政治家はみんな私利私欲でやって、汚職ばっかりじゃないか。モウケをあげたい企業たちがいて、そういうやつらのために政治がおこなわれているじゃないか、と。
 社会が私利私欲に満ちたものだと見据えたうえで、それを権謀術数をふくんだ強権や制度によって統御していくというところに、ぼくは現代と韓非の時代をつなぐ思想をみてしまったのだ。

 「彼ら(小林よしのりら)が漠然と『戦後民主主義』や『リベラル』といった形容で総括する『左』の言葉こそが、現在の日本の『体制側』の言葉、もっと俗な表現をすれば『大人のきれいごと』とみなされている……。マスメディア上や公式発言のレベルでは『左』の言葉があるていどの勢力を得てはいえても、日本社会の実態が『戦後民主主義』の理想とはほど遠いことは誰でも知っている。そのなかで空洞化していかざるをえなかった『左』の言葉は、もはや若年層の大部分にとっては、社会において実感できない言葉、学校や本のみで教えられる言葉、いいかえれば『教師の建て前』としか感じとれなくなっているのではないか」(上野+小熊『〈癒し〉のナショナリズム』)

 民主主義や清潔さの立場から、自民党の汚職を「糾弾」する側よりも、世の中はカネだといってワイロをもらっている政治家のほうがよほどリアルではないか、と。
 これをまったくさかさまにひっくり返して、ぼくにリアリティをあたえてくれたのは、レーニンだった。
 いまではすっかり評判も悪く、僕自身もこの本の限界をいたるところで感じないわけにはいかないのだが、強烈な逆のインパクトをあたえてくれたのは、レーニンの『国家と革命』である。

 「国家は階級支配の機関であり、一つの階級による他の階級の抑圧の機関であり、階級の衝突を緩和しつつ、この抑圧を合法化し強固なものにする『秩序』を創出するものである。……(エンゲルスの引用)『国家は階級対立を抑制しておく必要から発生したものであるから、しかしそれはまた同時にこれらの階級の軋轢のまっただなかから発生したものであるから、それは通常、もっとも有力な、経済的に支配する階級の国家である。そしてこの階級は、国家を媒介として政治的にも支配する階級となり、こうして、被抑圧階級を抑圧し搾取するための新しい手段を獲得する。』……たんに古代国家と封建国家が奴隷と農奴の搾取機関であっただけでなく、さらに『近代の代議制国家も、資本による賃労働の搾取の道具である…』」
 「資本主義的奴隷制から解放された人間、資本主義的搾取の数かぎりない恐怖、野蛮、不合理、醜悪さから解放された人間は、数百年にわたってよく知られ、数千年ものあいだあらゆる習字手本のなかでくりかえされてきた共同生活の根本規則をまもることに、暴力がなくても、強制がなくても、隷属関係がなくても、国家と呼ばれる特殊の強制装置がなくても、これらの規則をまもることに、徐々に慣れてゆくであろう……。『国家は死滅する』」

 なーんだ、世の中の政治が汚いのは、あたり前なんだ。民主政治=代議制国家っていうのは、けっきょく資本家のためにやっているからなんだ。それを革命によってひっくりかえすことで、私利私欲と公的なものがほんとうに統一された世の中にかわるんだ。人間を管理したり操作したりするんじゃなくて、社会をかえればいいんだ。「不良」や「わるいやつ」を憎んでそいつらをなんとかしようと思わなくていい。ってね。
 むろん、このこと自体に、いまでは注釈をつけねばなるまいが、それはとりあえずおいておこう。
 青年期の認識というのは、全面的で正しいものを選び取りながらすすんでいくわけではない。むしろ極度に一面的でデフォルメされたものが、頭にこびりついた旧来の観念を破砕し解放する作用をもつのだと思う。韓非のあとにレーニンのこの著作にぼくがひかれたのは、ある種の一面性によるものだ。
 しかも、皮肉なことに、小熊の指摘とは逆に、「左」=マルクス主義の原典の言葉こそが、もっともリアリティを感じさせてくれたのである。

 余談だが、いまナマのレーニンをまっすぐにひきついでこの役割を果たしているのは、実は青木雄二なのである。彼がマルクスから学んだと称して売り出しているものこそ、実はあの時代にぼくがレーニンから衝撃をうけたもののエッセンスなのだ。



金谷治訳 『韓非子』全3巻(岩波文庫)
西野広詳・市川宏訳 『韓非子』(徳間書店)
宇高基輔訳 レーニン『国家と革命』(岩波文庫)

2003年7月21日記

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