益田ミリ『結婚しなくていいですか。』




不意打ちをくらう 要注意!



結婚しなくていいですか。―すーちゃんの明日  サブタイトルが『すーちゃんの明日』となっており、著者の『すーちゃん』の続編にあたる作品らしいのだが、それは未読。

 1話、2話、3話と読んだだけの段階で「うわーなんだ、このほのぼのとしただけのしょうもない漫画は」と思ってしまった。「すーちゃん」という35歳独身、カフェ店長のどうということもない日常がつづられているだけだったからである。

 ところが、4話目に、すーちゃんの友だちでやはり40ちかい独身女性の「さわ子」が登場し、

「あたし、このまま ゆっくり老いていくのかな
 老いていくのは 仕方ないけど、ただ、
 セックスはしたい

 あたしのこのカラダを
 もっと謳歌しておきたい」

というセリフが入りドキリとさせられる。この文体はすでに「ほのぼの」ではない。この絵柄でこのセリフはひきょうだ。不意打ちである。男性の側から欲望の対象として消費される性ではなく、女性の生きている実感をかみしめるための切実さをもった性である。

 すーちゃんの方も、「遺言」を書いてみるという話が2話目に出てきたのだが、「ちょっと不思議ちゃんなエピソード」みたいに思っていたらとんでもなかった。すーちゃんはその後も本まで買って自分の老後について具体的に思いをめぐらしていくのだ。

「ちがう
 あたしの不安は、
 死んでからじゃないじゃん」

 そして老人ホームに自分が入所することを具体的にイメージしはじめるのである。すーちゃんは、独りで誰もいない自宅に帰る道すがら、あるいは、ちゃぶ台に独りすわりながら、自分の老後を考える。老親を介護する自分の「未来」を考える。
 独身のまま、そして老後に蓄えを残すほどには収入がない状態で生きていくことに不安を覚えるのだ。

 ひとりぼっちの老後。
 だれも頼る人もお金もない老後。

「このままおばあさんになって
 仕事もお金もなくて、
 寝たきりになって
 頼る人もなかったら、」

 ネギが安いと思って買い物をしながらすーちゃんは思考を続ける。

「そしたら、あたしの人生は、
 歩いてきた人生全部が
 台なしになってしまうの?」

 また、実家に住むさわ子が、すでに認知症状態にあるおばあちゃんをみていて抱く不安とは、究極的には、さわ子自身が老いてしまって認知症になったとき、もはや他人から「いない」ことにされてしまう不安であろう。
 肉親がいればそうならないかもしれない(いても、さわ子の兄夫婦のようにおばあちゃんを「無視」する場合もあるだろうが、いなければ当然のように「いない」ことにされてしまうのだろう)。

35歳で独身で  30代後半とは、そろそろ縁談も消滅しかけ、出産も初産としては厳しくなってくる年齢。その世代の独身女性たちが抱く「不安」というものを、描く漫画はこれまでもあった。たとえば秋月りす『35歳で独身で』はその一つだが、やはり一瞬の笑いやペーソスにくるんでしまうというのが普通である。
 『結婚してなくていいですか。』は、そうではない
 とりだされた不安というものを、まじまじと見つめるのだ。そんなに見つめなくても……と思うほどに見つめる。別の比喩にすると、傷口をちょんちょんとさわったり、触れたりして、じくじくと痛みを味わっているような気がするのだ。
 さわ子は同僚の女性にさえ傷つけられる。
 さわ子は生理痛がひどいと同僚に話すのだが、同僚は出産したら治ってしまった、だから「さわちゃんも早く産んじゃいなよ」と。
 さわ子は、

「女からも、日々こまごまとした
 セクハラを受けているわけで、
 でも慣れたりしない

 慣れることは許すこと

 こういう鈍感な言葉に
 傷つくことができる
 あたしでいたい」

と考える。
 痛覚が働いているこの瞬間こそが瑞々しさの証拠なのだという表明自体が痛々しい。つらい生理痛を「汗はともかく、血を流しながら 女は働いているのです」と形容する感覚はぼくにはない。「ほのぼの」だと思って安易な気持ちで読み始めると思わぬケガをする。




不安をまじまじと見つめてしまう、そこへの攻撃



Papa told me―完全版 (1)  榛野なな恵の『Papa told me』をはじめとする作品群には、「標準」からズレたさまざまな家族や人間関係が登場する。榛野はそのズレた側に心を寄せる。
 そのときの描き方は、自分が好きな生き方をしていてそのままなら何の苦痛も感じないはずなのに、それを「標準」の側から攻撃してくるがゆえに覚えなくてもいい気苦労を覚えるのだ、というものだった。
 自分の生き方そのものにたいする楽観がそこにはある。「私は静かに楽しく暮らしている。なのにどうして邪魔をするの?」とでもいいたげな調子だ。その静謐な生活を脅かすものにたいしては榛野は容赦なき戦争をしかけるほどに信念的である。裏返せば、たとえば「女性が独りで暮らしていくこと」には、榛野においてはひそかな自信があるように思われる。
 女性が独りで暮らしていくことへの矜持さえ、そこには垣間見える。

 しかし、『結婚しなくていいですか。』は必ずしもそうではない。
 独り身でいることの不安を、先ほどものべたように、まじまじと見つめるのだ。そんなに見つめなくても……と思うほどに。

 この不安をはっきりと表明してしまうことによって、このライフスタイルは攻撃にさらされる。「結婚すればいいじゃない」「どうして若い頃に結婚しておかなかったの?」。




普通に生きてきたことを誰が非難できるか



 本書の中盤あたりには、すーちゃんが会って知らぬうちに気を遣って「赤ちゃん中心の質問」ばかりをあびせてしまった妊婦が登場する。それをすーちゃんの側からではなく、妊婦の側から眺める回があるのだ。
 妊婦は「まい子」、35歳。
 仕事ももっていたが、産休さえもとれる雰囲気のない会社で、退職して主婦となった。
 まい子は、子どもが産まれてくる現状を「おだやかで幸せな日々」だと形容しながらも、

「これでいい
 これも、また、よかった、
 と思う半面
 結局、こうきたか
 と思う
 あたしもいる」

 まい子は10年間働き、がんばってきた。そして仕事も任せられるようにもなった。だが、妊娠して退職に追い込まれ、そういう努力は結局なんだったのかというある種のむなしさにも襲われているのだ。「10年前に結婚してても同じだったかも」。

 まい子は仕事で認められたい、一人前になりたいと必死にがんばってきた「普通の女性」である。「結婚すればいいじゃない」「どうして若い頃に結婚しておかなかったの?」という非難をあびせることは、この「女性の普通の生き方」を否定することでもあるだろう。
 まずは働くことにおいて一人前になろうとする「普通の生き方」が、「結婚」という課題を後回しにさせてきた。たしかにそれは自己責任において選択してきたことではある。そうやって「普通に生きてきた」ことを「結婚すればいいじゃない」「どうして若い頃に結婚しておかなかったの?」という言葉によって誰がいったい責めることができるだろう? 

 ぼくのつれあいは、「仕事」「結婚」「同居」「出産」「子育て」に優先順位をつけざるをえなかった。まずは「仕事」だった。その結果、結婚や子育てができなくてもやむをえないと覚悟せねばならなかった。運良く仕事が決まり、結婚となったが、同居にはいたらなかった。ここでも普通の結婚生活をあきらめる覚悟をせねばならなかった。そして何年もかけてパートナーであるぼくに同居の条件ができてようやく別居が解消された。
 しかし、すでに年齢的に子どもを持つことは厳しいかもしれないというところにさしかかっていただけに、スンナリ子どもができるかどうかは運次第であった(ことわっておくが、これはぼくら夫婦がたまたま子どもを持つことに積極的な価値を感じているがゆえの話であって、子どもを持つことが人生において必ずしもプラスと感じていない夫婦が多数存在することはいうまでもない)。

 このように、女性が生きていく上では何かを優先させ、何かを後回しにし、その結果引き起こされる人生のマイナスをそのつど覚悟せねばならない(男性もある程度同じであるが)。

 自分が夫の子どもを産む道具や、夫の家族の「介護要員」にされてしまう危機を回避しながら、「あたしはあたし」「他の誰でもない 誰のものでもない」といえるような「普通の生き方」をしたい、というだけなのだ。
 そういう生き方をしてきたというだけで、なぜいまこんなに「老後への不安」「淋しい自分」という形で不自由さを覚えねばならないのだろうか。「ほのぼの」にみえるこの漫画にはそういう怒りが満ち満ちている。「怒り」などといえば作者は嫌がるだろうが、ぼくはこの本の基調にそれを感じ取った。





月20万円で楽しく暮らしていくという生き方



 すーちゃんはカフェの店長だ。店長、とはいうものの、本部から材料が卸されている描写などをみると明らかにチェーン店の店長であって、最近残業代未払いで問題になったマクドナルドの店長の地位と同じで、オーナーではなく単なる現場のまとめ役の従業員にすぎない。カフェの店長で検索すると月給は22万円ほどである。

 そういえばM-1グランプリで優勝したサンドウィッチマンという漫才コンビがインタビューに対し、自分たちはタレントになって豪華な暮らしをするのが目的じゃないとして、「温泉地に2週間行って、宿やホテルの舞台に出て、月20万円くらいもらえれば満足だもの」「それで“幸せだな〜”と思えるよね」と答えていた。
http://mopix.moura.jp/?p=322

 単純に12カ月分になおせば240万円で、200万円以下をワーキングプアと呼ぶならば、たしかに貧困ではない、「健康で文化的な最低限度の生活」ができるラインになる。

 こういう幸福観というのは確かに存在する(つれあいも「あたしも若い頃そう思っていた」とのべた)。

 だが、若い頃はともかくとして、老後もこの収入のままで続けられるのだろうか? という不安が不意にすーちゃんを襲う。
 親の介護、あるいは自分自身の介護をどうするか。
 ぼくは「介護保険があるんだから、利用料減免制度も使って、特別養護老人ホームとかに入ればいいんじゃないか」とのべたら、つれあいは「すーちゃんという人はたとえば年をとってもカフェに行きたいとか言っているでしょ? 公的制度にすべて身をまかせるのはいいけどもそういう潤いがすべてはぎ取られたりすることが『不安』の正体じゃないの」と反撃してきた。

 『結婚しなくていいですか。』は明確な答えを出していない。
 実は1話目のおわりに、老後の蓄えのために今ヨガを習うことをためらわせようとしている自分の思考方法に自分で批判をかまし、

「遠い未来が
 今、ここにいるあたしをきゅうくつしてる」

と思うのだった。そして、最終話においても

「未来のためだけに
 今を決めすぎることもない」

とやはりくり返し、すーちゃんは開き直る。




結局カネが解決するのではないか



 畢竟、この問題の解決は「カネ」なのだと思う。なんだか身も蓋もないいい方であるが。

 女性の厚生年金の平均受給額は月11万円だという(05年、社会保険庁調べ)。
http://www.yomiuri.co.jp/iryou/kaigo/nenkin/20050817ik04.htm

 これは「潤いのある老後」をすごすうえでは、やはり足りないといわざるをえない額である。生命保険文化センターが行った「生活保障に関する調査(04年)」によれば、「豊かなセカンドライフ」を送るためには月37万円が必要、「現役時代水準のセカンドライフ」を送るには月25万円が必要、「現役時代よりも生活水準を落とすセカンドライフ」では月18万円が必要、ということである(夫婦の場合)。
http://allabout.co.jp/finance/moneyfamily/closeup/CU20050216D/

 冗談はよしてくれと思わないでもないが、まあとりあえず。単身の場合は各種試算などではこれに0.7をかけているので、それぞれ26万円、17万円、12万円ということになり、女性の平均的な厚生年金では足りないということになってしまう。もちろん国民年金では月5万円余が平均給付額だからお話にならないことはいうまでもない。

 すーちゃんとさわ子の不安を解消するのは、そこではなかろうか。
 いや、そもそも、カフェの店長を60まで続けられるのかと考えるとそれさえも不安になってくるのではあるが。







『結婚しなくていいですか。すーちゃんの明日』
益田ミリ 幻冬舎
2008.2.12感想記
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