桂望実『県庁の星』




県庁の星 県庁の若手エリートがスーパーに研修にいかされ、頓珍漢の連続……と、もうこの設定を聞いただけで「官から民へ! 民間のやることは何でもエラい」式の小泉「改革」礼讃、思考停止バカ小説のように思えるが、読んでみると意外にそうでもない。

 県官僚の「役人メンタリティ」を民間でそのままやらせたらどうなるか?というのはお約束の展開であるが、行った先のスーパーだって実は全然実績のあがらない「沈滞した民間」である。スタッフの心がバラバラなのだ。その二つの物語の流れのなかで、やがて活気あるスーパーへむけて、次第に一体感を形成していくのがこの小説の核心になる。


 小説のなかには、主人公の県官僚(野村)やその指導役を押し付けられたパート女性(二宮)の心の機微が垣間見れるエピソードが登場する。野村の場合、合コンで知り合った女性「あい」とのやりとり、二宮の場合はヘルパーをつとめる息子とのやりとりがそれで、外側のレッテルでなくて人の気持ちをありのままに見つめるというテーマへと深まりかけている。杓子定規な官僚根性、沈滞した企業内の空気を打破するカギとして、匂わされている。

 単純な民間称揚の話にしなかったこと。
 机の上で計画をたてて満足する官僚メンタリティや、この企業は何をいっても変わらないとあきらめる無気力な精神を批判し、人の気持ち、生活、ニーズをありのままを見つめることと対置させていること。
 こうした点は、この小説の美点である。

 しかし、いくらエンターテイメントであるにしても、ぼくはある種の「軽さ」がどうしても気になった。

県庁の星 1 (1)  今谷鉄柱が作画を担当した漫画のほうも読んだのだが、こちらはステロタイプ、類型化された官僚の描写が、いい意味で「風刺」になって効いている(1巻を読んだ限りでは)。漫画の方では、何でもかんでも県条例に違反するのが目について注意してしまうとか、スーパーで嫁と姑の争いを演じる二人に官僚風の「論点整理」をしてみせたりとか、「いくらなんでもそこまでやるやつはいないだろう」というリアリティの薄さが、「現実の誇張」に見え、風刺画本来のスパイスになっている(なお、漫画については別の機会に感想を書きたい)。

 だが、小説=文章となると、こういう紋きり型の描写は、即「薄っぺら」さにつながってしまう。たとえば冒頭に主人公が県庁で書類の書き方を指南する描写が出てくる。

「ここに対処例があるから。この場合は、これを使う。件の結果は誠に遺憾であります。したがって前向きに検討します、だ」
「前向きに検討しちゃっていいんですか?」
「検討するだけで実際にはなにもしませんっていう意味だからいいんだ」

 マニュアル。無難であいまいな答弁。無気力……という通俗的な役人批判そのものである。
 しかし、議会を傍聴したことがある人間ならわかると思うのだが、役人が「前向きに検討します」と言った場合、かなりふみこんだ答弁をしたことになる。実施にむけたニュアンスが強まる。また、「誠に遺憾」ともし行政が言ったとしたら、これもかなりふみこんだ責任の表明だといえる。
 仮に「子どもの医療費無料化を就学前まで実現してほしい」、と請願するために議会傍聴に通っているお母さん・お父さんがいたとして、「前向きに検討します」という行政側の答弁を引き出せたのを見たらその父母は小躍りするだろう。
 そういうことを、この小説は「前向きに検討」した痕跡がない。「誠に遺憾」である。深めて調べたうえで軽く書いた形跡がないのだ。つまり、本当に軽く書いている気がするのである。
 だから、「通俗さ」が「痛快さ」に結びつかず、「薄っぺらさ」「軽さ」になってしまう。

 公務労働は納税者にたいして、いや納税者でなくても住民にたいして「公正」を実現することが、その労働の重要な特質になる。他方で民間=資本は商品を売るためにいかに的確にニーズをつかみ、それにいかに早く対応するかが求められる。そのかわり、貨幣を持っていないものはゴミのように扱われるのだ。

 ポリティカルコレクトのために創作をしろという気は毛頭ないが、「公正」を実現するのが本来の公務労働なのだというわきまえがのぞければ、作品の深みはまるで違ったものになったと思う。なんだかよくわからないけどもスーパーで弁当の売り出し競争をやっているうちに役人根性が変わっちゃったというのではあまりに「軽い」。

生きる  黒澤明の「生きる」という映画がある。退屈で無力な地方役人人生を終えようとしていた課長が、ガンで余命いくばくもないと知り、そのあと、小さいけども、住んでいる人の要望の強い公園をつくるために死にものぐるいで働く話だ。
 この映画は痛烈な役人根性批判であると同時に、公務労働が「公正」の実現にむけられたものであることの深い洞察の上にうちたてられている。そしてその「公正」さの実現は、自分の一生をどうやって輝かせるか、という「自己実現」とも重なっている。

 「巨匠・黒澤の、しかもあんなシリアスな映画と、40才ライターのエンターテイメント小説を比較すんなよ」と言われそうだけども、ぼくはこの小説を読んで、なぜもっと面白い役人批判に徹したり、あるいは深みをもたせたりできなかったのだろうかという割り切れなさが残ったのだ。




映画「県庁の星」を観て


※ネタバレがあります。

 映画版「県庁の星」を観る。
 うむ、なかなかよい。ひょっとして漫画・小説以上にいいんじゃないか。

 まず、小説・漫画にくらべて県庁での県官僚の仕事ぶり・メンタリティに時間をさく。
 これはなかなか思い切った時間配分で、後の時間は大丈夫だろうかと少しハラハラしたのだが、結果的に主人公・野村の転換を鮮明にするうえではこの配分が功を奏した。生活保護は県の仕事じゃない、住所も不定の人間に支給などできないと切り捨てるエピソードは、人間の生活の現場ではなく規則を優先させる役人根性をよく表している。

 また、映画制作者は、この作品のテーマを「目の前にいる人間の気持ち、生活をみつめること」だというふうにとらえたようである。婚約者の気持ちをみなかった野村は、弁当を買う主婦の生活も気持ちもみていなかった。ぼくもここに照準をあてるのが正解だと思う。ヘンな民間賛美にするではなく、官僚組織も民間企業も市井の人間の気持ちや生活を忘れるなら、それはまったく同じなのだから。
 ここに照準があたることによって、小説のほうでは弁当競争が人間をかえるかのように描かれていた不純部分は除去されて、中心テーマがくっきり浮かび上がった。「競争」ではなく、相手の生活や気持ちを見つめることで変わったのである。自己変革をとげた野村が、自分の弁当が売れない謎を知りたくて、ゴミ捨て場にあった自分のプロデュース弁当を食べてみるシーンはなかなかである。

 スーパー研修を経たあと、住民たちや市民団体の話を聞きに現場に出かけていく野村の姿をうつしたのは、小説ではほとんど描写されなかった箇所なのでこれも好感がもてた。ある意味、黒澤映画「生きる」に通ずる、公務員の正道を描いている。

 くわえて、織田裕二と柴咲コウは好演だった。
 とくに、ぼくは柴咲の演技をおそらく初めて観たと思う。風貌は観月ありさのリサイクルくらいにしか思っていなかったのだが、しゃべり方や感情の表現に既視感があって、ある種の世代の代表のような感じで登場してきた人なのかなあと感じた。ま、つまり、リアリティを感じたのだ。

 しかし、ラストの県議会シーン以降はひどかった
 まず、県議会で突然係長が変更案を提案するというのはいくらなんでも突飛すぎるし、そこで政治演説をぶつというのは虚構だからといってあまりに飛躍しすぎていた。
 県議会議長と知事のやりとりの「けれん味」にもうんざりだ。
 そして野村に演説させるというのも、せっかくの物語の余韻をぶちこわしにした。
 やりすぎである。
 小説のほうが、この点ではストイックに終わっていた。

 ただこのラストのひどさを差し引いても、印象に残るよい映画だったと思う。


小説:小学館
2006.3.10感想記(映画については3.19感想記)
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